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その7


 翌日の玲香宅での飲み会では、前日に賢児の家からもらった食材で作った料理が大好評だった。

「いーな、玲ちゃん。こんなのもらえるなら、あたし喜んで休出するって」

 鴨のスモークと京野菜のサラダを頬張りながら、加奈子が言うと、水木が食材をいちいちチェックしながらため息をついた。

「本当だよね。こんないい野菜、仕入れるの大変なんだよ」

 レストランでのバイト経験からか、水木は食べ物にはちょっとうるさい。


「西園寺家に入れたっていうのも、すごいね。普通できない経験じゃないの。“西園寺家のお宅訪問”とか載せられたら、社内報大人気だよ、きっと」

 中山が言うと、水木もそれに続けた。

「社長ってさ、オリエンテーリングのときには、けっこうフレンドリーな感じがしたけど、基本はクールで謎めいてる印象だからなあ」

「よく言うわよ。皆であのときに、プライベートなことまで、いろいろ聞いたんでしょ?」加奈子が呆れたように言う。


「それはそれとしてさあ、親父が大臣で、兄ちゃんは若くしてT大准教授だろ。世界違うことには変わりないじゃん」

 目を細めてうらやましそうにつぶやく水木の様子に、玲香は笑いそうになりながら言った。

「そうね。確かに庶民には想像がつかない感じのお宅だったけど、でも、お野菜ご自宅で作ってたり、古くなった服でクッション作ってたり、意外と質素な感じもしたのよね」

「ばかねえ。古くなるまでの服が、何十万もしてるのよ。畑だって、きっとお世話してる人がいるんでしょ」加奈子が反論する。

「そうか…我々の質素とはレベルが違うのね」玲香はぺろっと舌を出した。


「でも、皆さん、本当に感じのいい方ばかりだったわ。大臣とも少しお話しちゃった。お兄さんの子ども達なんか、めちゃくちゃ可愛いし」

「よかったわねえ。やさしいご家族で」加奈子は玲香に、意味ありげにウインクした。

「遠山さん、そのウインクはどういう意味なんですか?」

 中山が目ざとく尋ねると、加奈子は鼻歌を歌いながら、台所へビールを取りに立った。

「怪しいなあ」

「何なのよ、加奈ちゃんてば、変なの」

 玲香はそういいながら、自分の顔が少し赤くなるのを感じて、加奈子の後を追うように席を立った。


「ちぇっ。今日は高橋においしい話とられちゃったなあ。俺、すんごいネタ持ってきたと思ってたのに」

 西園寺家を訪問した玲香に話題が集中しているのを、ちょっとばかり面白くなさそうに言うのは、塩谷だった。

「そうそう、すごいのよ。そのネタ」台所から戻ってきた加奈子が話を促す。

「うん。一昨日さ、命拾いしたんだよね、すごい美少女のおかげで」

「うわー、それ、ツカミはOKだよ!」水木が真面目な表情の塩谷をちゃかす。

「ある意味、ちょっと、ぞっとするような話でもあるんだけどさ」

 塩谷は、一昨日自分の身に起きたことを語り始めた。


  *  *  *


「お待たせしました、木村さん。じゃあ、参りましょうか」

 塩谷は、会社の1階ロビーで待っていた木村を促し、外に出た。

「ええ。ここからだと、1時間くらいですよね。6時過ぎには全体が終わるでしょうから、その後、お食事ご一緒していただければと思いますが」

「ええ喜んで。何でも、うちの者が言うには、あそこの研究センターのレストランが、かなり美味しいらしいですよ」

「最近の社食とかその類の施設というのは、けっこうバカにできないレベルだって言いますからね」


 塩谷は、取引先の木村を連れ、関連研究施設で行われる新商品のデモ講演会に向かうことになっていた。施設の最寄り駅までは電車で行き、そこから施設まではタクシーに乗るつもりだった。

 同じ目的地に向かう人間が多いせいか、最寄り駅正面のタクシー乗り場は15人くらいがすでに行列を作っている。とは言え、タクシー側もどんどんとやってくるので、二人の番は、あっという間に来た。


 黄色いタクシーが二人の前に止まった。

「塩谷さん、次の車にしましょう。…あ、お先にどうぞ」木村は後ろの客に譲ると、一歩下がって、次の車を待った。

「どうしたんですか?」

「あ、いや、すみません。何か…さっきの女の子の言ったことが気になっちゃったもんですから」

「さっきの女の子?」

「ええ」木村は、頭をかきながら、照れくさそうに笑った。


 次の車が止まり、二人はそれに乗車した。

「実は、塩谷さんをお待ちしている間に、たぶん3歳か4歳くらいだと思うんですけど、すごく可愛い女の子が僕のほうに来てですね、言うんですよ。

“黄色い車はだめだよ。壊れちゃうからね”って。その子は、それだけ言うと奥のほうに走っていっちゃって、ちょうどその時、大勢の人たちが横切ったので、彼女の姿は見えなくなっちゃったんですけど」

「それで、さっきの車はパスしたってことですか」

「すみません、別に気にするようなことじゃなかったんですけど、何となく」 木村は申し訳なさそうに詫びた。


 しばらく走ったところで、二人の乗ったタクシーは信号待ちをしていたが、青に変わった次の瞬間、前方で大きな音が鳴り響いた。

「ぶつかったぞ!」

 周囲からざわつく声が響いてきた。

「事故のようですね」

 運転手がドアを開け、前方を確認していた。二人も窓から外を覗いたが、あっという間に人だかりができていて、その向こう側に斜めに止まっているトラックしか見えなかった。


「3台前の車が、右折しようとしたときに向こうから来たトラックに衝突されたようです。お急ぎでしたら、ここで降りていただいたほうが」

 時間が読めないのも困るので、二人は運転手の言葉に従い、車を降りた。

「すみませんね。お釣りはけっこうですので」

 誰か怪我人は出たのだろうかと、前方を見回す二人の目に飛び込んできたのは、トラックに左側から衝突され、車体がひしゃげた黄色いタクシーだった。

「黄色い車は…」

「壊れちゃうから、駄目なんですね…」

 二人は呆然とその光景を見つめた。


  *  *  *


「すごいじゃん、それ。未来を予知する美少女ってことか?」水木が身を乗り出した。

「小さな女の子か。モデルの子のスタジオ撮影あったかな…」中山が、当日広報部へ子供が来ていたかを思い出そうとした。

“紗由ちゃんだ…!”

 玲香は直感的にそう思ったが、それを言葉にするのをためらっていた。よくわからないけれど、言ってはいけないことのような気がしたのだ。


 玲香は塩谷に尋ねた。

「それ、何時頃? 私、一昨日はけっこう出入りしてたんだけど」

「3時の約束だったから、その辺りだよ」

 玲香は考えた。

 龍くんから電話があったのが2時前。その後、届け物をしに来てくれたはず。そのとき紗由ちゃんが一緒だったとしても、何の不思議もない。時間的にも合う。

 もしかしたら紗由ちゃんて、そういう力を持っているんだろうか。父さんが言ってた”(みこと)”さまみたいな力っていうか…。”


 昨日、周子さんが言ってた“紗由が言うことだと”という言葉の意味も、それなら納得が行く。涼一さんも周子さんも、紗由ちゃんのお嫁さん発言を間違いやウソだという怒り方をしなかったのも。きちんと躾をしている家庭のようなのに、何か不自然な対応というか、彼女の言うことをそのまま受け止めているというか、それってもしかしたら、紗由ちゃんの言うことが“事実”だという前提だからではないだろうか。

 でも、だとしたら、“お嫁さん”というのも本当になるんだろうか…。

 だけど…以前のセクハラ騒ぎのお嬢さんではないけれど、それこそ私は賢児さまと夕飯を一緒に食べに行ったこともない。入社して5日目に、“もう少し暇になったら、一緒に飯食いに行こう”と言われたけれど、そんなのきっと社交辞令だったんだろう。ちょうど食事時に残業が終わっても、拍子抜けするくらいそっけなく別れを告げられる。

 普段すごく気を遣ってくれているのはわかるし、やさしくしてもらっているけれど、それはあくまで部下への気遣いだ。紗由ちゃんが言うような、そんなことあるわけない。

 そう否定しながらも、玲香は胸の鼓動が早くなるのを感じた。


 塩谷が残念そうに言う。

「うちのビル、他の会社がいくつも入っているから、どこの関係者か特定しようがないんだよなあ」

「玲ちゃんのときの“ことよろおば様”といい、その美少女といい、世の中にはけっこういるのかしらね、そういう人」

 難しい顔をしてつぶやく加奈子に、水木が聞いた。

「何、その“ことよろおば様”って」

「“お断りになったほうがよろしいわ”って言って、玲ちゃんをわが社に再度呼び寄せた、美し~いおば様よ。略して“ことよろおば様”」


「加奈ちゃん、話付け足して面白くしないようにね」

「あ、バレた? 彼のよりも話面白くしようと思って、今必死に考えてたのに」

 一同がどっと笑う。

 だがその時、玲香の頭の中では一瞬、ある思いがよぎった。

“紗由ちゃんに、どこかで会ったような気がしたのは、あのおば様に横顔がよく似てたからだ…”

 玲香の胸の鼓動は、さらに早くなっていた。


  *  *  *


 西園寺一家を迎える前の夜、玲香は一足先に実家に戻った。会議が長引いたため、予定より帰宅が1時間ほど遅れた。

「ただいまあ。翔太~、欲しがってたライダーベルト買ってきたよ~!」

 急いで居間に足を運んだ玲香に、姉の鈴音が申し訳なさそうに言う。

「おかえり、玲ちゃん。ごめんね、翔太もう寝ちゃったのよ。“明日きばらなあかんから、はよ寝るで”って」

「ええっ、まだ8時よ」


「玲ちゃんがお世話になっている人たちだし、セレブ一家に清流の名前を売るチャンスだとか言って、いつもに増して張り切ってるんだよ」

 そう言うのは、翔太の父親、鈴音の夫で板長をしている光彦だった。高橋家には婿養子に入っている。

「そうか。七代目は頑張るなあ。…じゃあ、枕元に置いてくるね」玲香は土産を抱えて、翔太の部屋へ向かった。


 しばらくして玲香が居間に戻ると、父親の飛呂之もいた。

「父さん、ただいま。明日はお世話になりますけど、よろしく」

「おかえり。ん。ちょっと太ったか?」

「ええっ。そんなに? ああん、どうしよう。この一週間、飲み会続きだったんだよね。歓迎会とか、結婚祝いとか、会社の同期の会とか、セレブ一家のお食事におじゃましてみたりとか」

「その最後の、気になるじゃない」鈴音が興味津々で身を乗り出す。

「それがね…」

 姉妹は話に花を咲かせ始めた。


  *  *  *


 はしゃぐ娘達をよそに、飛呂之は娘婿を隣の部屋に呼び出した。

「光彦、やっぱり朱雀様の周辺、ちょっと様子がおかしいようだ」

「まさか本当に“雀のお宿”が乗っ取られたんですか」

「乗っ取られたとこまで行ってるかどうかはわからないんだが、一般客はほとんど断っているようだ。来週の日曜も大広間で説明会か何かが開かれるらしい」

「人を集めるなら、東京や大阪のほうがいいですよね。雀の村島さんが、関根さんという人と一緒だったという話もあるし、とすると…」


「何にせよ、もうちょっと調べてみないとわからないな。うちは“はずれた”ことになっているから、すぐにどうこうということはないだろうが、用心に越したことはない」飛呂之は目を伏せた。

「去年、“命”さまらしき方をお見かけしたのも、偶然ではなかったのかもしれませんね」

「そうだな。来週、組合の集まりで会うから、ちゃんと話を聞いてみよう。…まあ、とりあえずは明日のお客様だな。腕によりを掛けて、美味いもの作ってくれ」

「承知しました。赤字覚悟で作ります」

「赤字手前くらいにしとけ。七代目に注意されるぞ」

「忘れてました。七代目の検閲がありました」


 二人は、じんわりと迫ってくるかのような不安を押しのけ、可愛い孫と息子を思いながら、笑い合った。


  *  *  *


「改めまして、本日はお越しいただきまして、ありがとうございます。玲香がいつもお世話になっておりまして…。どうか、おくつろぎ下さいませ。何かございましたら、何なりとお申し付け下さい」

 玲香の姉の鈴音が、賢児たちの部屋へやってきて、挨拶をしていた。旅館のおかみ然とした、物腰のやわらかい和風美人だ。かわいい系の玲香とはタイプが違う。

「こちらこそ、弟がいつも玲香さんにお世話になってまして…。いやあ、それにしても、いいところですねえ。普段忙しいものですから、久しぶりにのんびりできそうです」

 涼一が言うと、周子も後に続けた。


「ほんと、海も山も温泉も楽しめるなんて…。玲香さんにはご無理をお願いしてしまいましたけど」

「温泉は、この突き当りの離れにございます。海が見える露天風呂も24時間開いておりますので、ご利用くださいませ。…そちらの襖の奥もお部屋になっております。お子様を含めて4人様ですと、こちらのスペースだけでは手狭かと思いますので、お使い下さい」


 鈴音が席を立ち、襖を開けて部屋の説明をしようとしたが、龍がその前に、走っていって襖を開けた。

「わあ。こっちも広いよ」

「ひみつきちだー」

 紗由が襖の向こうに駆け込むと、玲香が声をかける。

「紗由ちゃん、気をつけてね。座布団の端を踏むとすべるから」

「こら、紗由、暴れるなよ」


 賢児と玲香が、はしゃぐ子ども達の相手をしている間、鈴音が、この辺をいろいろと散策したいという涼一と周子に、丁寧に説明を続ける。

 部屋の窓側には広めの廊下があり、二部屋分つながっているので、それだけでもけっこうなスペースがあった。賢児の分は隣に別の部屋を取ってあったが、この二つの続き部屋で5人いても十分な広さだ。窓側の廊下には左側に扉があり、そこから部屋付きの露天風呂へつながっており、紗由の言うとおり、ちょっとした秘密基地っぽい雰囲気があった。


 その時、襖の向こうの外扉をノックして誰かが入ってきた。鈴音の息子で小学1年生の翔太だった。頭にタオルを巻き、白いTシャツに袢纏、ニッカボッカといった、まるで庭師のような格好だが、手にはお盆を持っている。

「失礼しますでございます」母親の横にちょこんと座り、涼一たちに頭を下げた。

「息子の翔太でございます」

「清流旅館七代目当主の高橋翔太です。よろしゅうお頼み申します」

 五代目も六代目も元気に働いているというのに、もう自分が跡目を継いだかのような口ぶりで言う翔太。なぜか関西弁で挨拶をする。


「さっき、お庭のほうにいらしたかしら? もうお手伝いをなさっているのね。偉いわ」

 感心したように言う周子を、翔太は見つめた。

「ちーとばかし五代目の手伝いしとりましたさかい、ご挨拶が遅うなりました。それにしても、これまた、えらい、べっぴんはんですなあ」口を半開きにして、周子をうっとりながめる翔太。

「まあ。その年で、もう女性の心をくすぐるのがお上手なのね」悪い気はしないといった様子で、周子は翔太に微笑んだ。

「正直と元気がとりえですさかいに」翔太は二人にもう一度お辞儀をしてから立ち上がった。「どうぞ、ごゆるりと」


 愛想をふりまきながら、奥の部屋へ向かうと、翔太は紗由の前に座り、持っていたお盆を差し出した。

「とびきりカワイ子ちゃん限定、追加のお菓子でございます。どうぞ」 

「おまんじゅうだあ」うれしそうにお盆の上をながめる紗由。

 乗っている饅頭を手に取り、周子のところへ走っていく。周子以外の人間からお菓子をもらったときは、食べていいかどうかをすぐに周子に確認するように躾けられているのだ。


「翔太、何しに来たの?」明らかに紗由へのナンパの意思が見て取れる甥っ子の姿を、玲香は怪訝そうに見た。

「玲ちゃんの大事なお客様へご挨拶や!」

“うそつけ!”と玲香は思ったが、皆の手前「それはありがと」と答える。

「玲ちゃん、東京にはあないに可愛い子ばっかりおるんや?」翔太は玲香の機嫌などまったくお構いなしで、目を輝かせながら聞く。

「そんなわけないでしょ。紗由ちゃんは特別に可愛いのよ。よーく拝んでおくのね」

「あー、やっぱりそうやろなあ。あない可愛い子ばっかりやったら、静岡の男は皆東京に行ってまうなあ」翔太は賢児のほうを向き、改めて挨拶をした。


「清流旅館七代目当主の高橋翔太です。よろしゅうに」

「西園寺賢児です。よろしく」

 賢児が答えると、翔太は賢児につつつと近づき、その手を取って硬く握り締めた。

「ちうことは玲ちゃんの上司のお方や!」翔太はさらにニコニコしながら言う。「玲ちゃんが毎日毎晩一年中ご迷惑をおかけしてるんやおまへんか。ちいと気い強いですけど、割と可愛いし、おっぱいでかいし、頭もええのんで大目に見ておくんなはれな」


 かかかと笑う翔太を。玲香がキッと睨む。

「あははは」

 声を上げて笑う賢児を、玲香は横目でチラリと見た。

「いや、あの…」

「翔太くん。ご挨拶済んだら、下がったら」


「本題はこれからや。…おっと、その前にもう一人の男前はんにもご挨拶せな」

 そういう翔太より前に龍が挨拶する。

「西園寺龍です。僕は2年生なんだけど、翔太くんは?」

「いっこ下ですわ。1年生。これも何ぞのご縁ですから、仲良うしておくんなはれな」

「そうだね。よろしくね」

「おおきに」

 翔太は龍が手を差し出した手を握り、賢児のときよりも大きくぶるんぶるんと振った。


 戻ってきた紗由はと言えば、母親から饅頭を食べる許可を取ったものの、皆で分けるように言われたので、いっしょうけんめい饅頭を割っていた。4つに割った饅頭を紗由は配り始める。

「にいさまのぶん。賢ちゃんのぶん。れいかちゃんのぶん。しょうたくんのぶん」

 一通り配り終えたところで、自分の分がないことに気づいた紗由は、「さゆのない…」と泣き出しそうになった。

「紗由ちゃん、これ食べなはれ。こら紗由ちゃんのもんやさかい、受け取れしまへん」

 翔太は自分の分にと配られたものを紗由に返そうとするが、紗由はそれでは納得がいかないらしい。しばらく考えると、小さな声で翔太に言った。


「さゆのぶん、もういっこください」

 思わず吹き出す玲香。

 追加の要求をされた翔太は、口をきゅっと結ぶと、つぶやいた。

「そう来ましたか。紗由ちゃん、ショーバイ上手やね。かわいこちゃんにねだられたら断られしまへんなあ」翔太は半纏のポケットから饅頭をもう一つ取り出すと、紗由に渡した。

「ありがとう」紗由が満面の笑みで受け取る。

 それを鼻の下を伸ばして見つめる翔太。


「ところで紗由ちゃん。饅頭の代わりにと言うたらなんやけど、お願い聞いてくれしまへんか」

「なあに?」あっという間に包みをはがし、饅頭をほおばる紗由。

「“おかみ”にならへんかい?」

 口の中身をやっと飲み込むと、紗由は賢児に聞いた。

「おかみってなに、賢ちゃん?」

「旅館でお客をもてなす一番偉い人だよ。翔太くんのお母さんみたいな人さ」

「ふーん」紗由は首をかしげた。


「おかみちうんはな」翔太が後を続ける。「綺麗な着物着て、お客さんと話しまんねん。嫁はんなりよったら七代目のおかみになれんねん。どうや、嫁はんにならへんかい?」翔太は紗由の顔を覗き込んだ。

「ならへん!」紗由は間髪入れずに答えた。

 この即答ぶりにはちょっとばかり、玲香も甥っ子が気の毒になった。

「さゆは、もうおよめしゃんにいくとこ決まってるんだもん」

 紗由のその返事に、翔太はがっくりと肩を落とし、しょんぼりとうつむいた。


「…そうなんかあ。セレブにはちんまい頃からフィアンセがおるもんなんやな。ほな、しゃーないな…」とぼとぼと玲香のところへ行く翔太。

「玲ちゃん…ふられてもーた」泣きそうな顔で玲香にしがみつくが、その手は何気に玲香の胸に伸び、ちゃっかりともみ始めている。

「もう、玲ちゃんのおっぱいだけや」

「大丈夫よ。そういうことできる元気があるんなら。そもそも、お饅頭1個で紗由ちゃんみたいな子をお嫁さんにしようだなんて、虫が良すぎるのよ、おばか」甥っ子の様子を、毎度のことと言わんばかりに、玲香は冷たくあしらう。


 そんな二人の様子を見ていた紗由が、突然大声で叫んだ。

「さわっちゃダメ! れいかちゃんのおっぱいは賢ちゃんのなんだから!」

 紗由の大声に、隣の部屋にいた3人も振り向いた。その視線は賢児に集まる。

「え?…」驚いて紗由を見つめる賢児。


「こら、翔太。お客様の前で何してるの」鈴音が翔太を叱る。

「おかん、それどころやないで!…エライこっちゃ。はよ五代目に報告せな!」翔太は玲香の胸から手を離し、駆け出そうと立ち上がった。

「誤解だから。父さんには言わなくていいから」玲香は翔太の首根っこをむんずとつかみ、制止した。じたばたと暴れる翔太。


「翔太が失礼いたしまして」鈴音が賢児に頭を下げる。

「いや、あの…」隣の部屋の3人の視線に、賢児がしどろもどろになる。

「…紗由! ウソついたのか? そういう子は、お尻ぺんぺんだぞ」

 賢児が紗由のほうに近づく。捕まるまいと、紗由は涼一のほうへ走っていく。そして父親の膝に乗ると、賢児に向かって、あっかんべーをしてみせた。


「ウソつきは賢ちゃんだもん。ほんとのこといわないのはウソつきだもん」

「じゃあ、玲香ちゃんもウソつきなのか?」賢児が紗由に言い返す。

「れいかちゃんはしらないだけだもん。賢ちゃんはしってるから、ウソつきだもん!」紗由は賢児をにらむと、プイと横を向いた。

「だからそれは…」言葉に詰まる賢児。


 二人のやりとりを聞いていた玲香は、何か妙な感じを覚えた。

 私が“知らないだけ”って、どういうことだろう。賢児さまも、いつもと違って歯切れが悪い。それに、涼一さんが何も言わない。周子さんも。なぜだろう。普通こういうときって、賢児さまか紗由ちゃんのどちらかに何か言うのが自然なのではないだろうか。


「あらあら、元気なお嬢様ですこと。…そういえばこの辺には、子どもを怒らせてそのパワーを神様に吸わせる祭りがあるんですよ。紗由ちゃんみたいに可愛いお嬢さんのパワーなら、神様もきっと大喜びですわね」気を利かせた鈴音が、何気なく話題を変えた。

「泣かせるとか笑わせるなら聞いたことがありますが、怒らせるんですか。面白いですねえ」涼一が興味深そうに答える。


「ええ。マイナスのパワーを神様に吸っていただいて、子どもの健全な成長を祈願するということらしいですわ。…そうそう、その神事に奉納する木の飾りといいますか、オブジェのようなものを父が庭で作っているところです。よろしかったら、ご覧になりますか」

「おにわにカメさんみにいく!」あっという間に機嫌を直した紗由が手を上げる。

「庭には池もありますし、亀さんもいますよ」鈴音がやさしく紗由に微笑む。


「ほな、ご案内しまっせ」

 いつの間にか紗由の近くにきていた翔太が案内を申し出て、一同は庭を見学することになった。皆で部屋を後にしたが、賢児はすぐに行くからと涼一に言って、隣に用意されていた自分の部屋へいったん入っていった。

 その様子を見ていた玲香は、気がかりで仕方ない。


“私とどうのこうの言われるの、嫌なのかな。いつもの調子で翔太があんなことするのを、お客様の前で注意しなかった私も悪い。紗由ちゃんは、女性の胸を勝手に触ったらいけないということを言いたかったのかもしれないし。やっぱり賢児さまにお詫びしよう”

「鈴ちゃん、私も後から行くから、先に行ってて」

「うん、わかったわ」


  *  *  *


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