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その8


 一行が廊下を曲がって見えなくなると、玲香は賢児の部屋の前に立ち外扉をノックした。

「賢児さま。玲香です。先ほどはすみませんでした。…その…紗由ちゃんはきっと、翔太のしたことを注意したかっただけだと思うんです。私がちゃんと…」

 玲香が言いかけているところへ、扉が開き、賢児が現れた。

「入って」

「は、はい。失礼します」


 自分が生まれ育った旅館の一角だというのに、玲香は賢児の部屋に入るのに緊張して足が震えた。謝ったときにもし、“俺、結婚の予定あるから、紗由にはあんなこと言わないように注意するよ”などというセリフを聞くことになったら、どうしたらいいんだろう。咄嗟にそんなふうに思ったのかもしれない。


「ごめんな、紗由がきかなくて。玲香のこと気に入ってんだろうけど、迷惑だよな、あんなこと言われて……その…玲香のフィアンセにも申し訳ないよな」賢児は、玲香のほうを見ずに、旅行カバンから出したシャツをハンガーに掛けながら言った。

「私のフィアンセ?」賢児の言葉の意味が理解できない玲香は聞き返した。

「ところでいつなの、結婚。仕事はどうするつもり? できれば続けて欲しいんだけど、無理は言えないからな」


 玲香は一瞬、賢児の頭がおかしくなったのかと思った。

「あの…おっしゃっている意味が、まったくわからないんですが」

「隠さなくていいよ。…前にさ、聞いちゃったんだ、屋上で。…別に立ち聞きするつもりじゃなかったんだけど、てっぺんで日向ぼっこしてたら、聞こえてきてさ。佐伯君に言ってただろ。結婚の約束をした人がいるから、気持ちには応えられないって」

 賢児は玲香に背中を向けたまま、窓際に座った。


 玲香には、ようやく事の次第が飲み込めた。

 賢児の下で働き始めてまもない頃、アルバイト時代から玲香にアプローチしていた佐伯が再アタックしてきたのだ。

 あいにくと玲香の方は彼にまったく興味がなかったので、ダメ押しという意味で、結婚予定があると彼に告げた。もちろん、それを賢児が聞いていたなどとは、玲香は思いもしなかったわけだが。


「ご、誤解です!…あれは、佐伯さんが以前からちょっと熱心すぎるというか…きっぱりお断りしたかったので、ああ言えば納得してくれるかと思って…」

 賢児が振り返って、玲香の顔をじっと見つめた。

「違うの?」

「まったく違います」

 答えながら、玲香はむしょうに腹が立ってきた。と同時に、情けないのと悲しいのとで、涙があふれそうになった。


“一生懸命に仕事してるのに、毎日遅くまで頑張ってるのに、賢児さまは私がすぐに結婚退職するとでも思ってたわけ?

 少しでも賢児さまのお役に立てるように、私なりに精一杯やってるのに、そんなふうにしか見てくれていなかったの?”

「プロジェクト再開という大事な時期に、大垣さんが、あの大垣さんがですよ、もうすぐ結婚でいつまで仕事するかわからない人間を推薦するなんて、お思いですか?」

 声を荒げる玲香にびっくりして、賢児は体を後ろに引いた。

「お、思いません…」

「わかっていただければ結構です」そう言いつつも、玲香は唇をかみしめて下を向いたままだった。


「ごめん、玲香。…そうだよな。確かに哲ちゃんにも失礼だ。…でも、頭の中が、ぐちゃぐちゃで…よくわかんなくなっちゃったんだ。…玲香が結婚しちゃうのかなとか、いなくなっちゃうのかなと思ったら、わかんなくなって…そんなのイヤだ。玲香がいないとイヤだ」賢児はうつむき、か細い声で言った。「傍にいてくれなきゃイヤだよ…」

「賢児さま?」

 見る見るうちに賢児の顔が赤くなる。

「ごめんなさい…」

 さらに小さい声で謝る賢児に、玲香は言った。

「…私、他の人と結婚したりしません。ずっと、賢児さまのおそばにいます。いつまでも一緒にいますから」玲香は賢児の傍らに座り、うつむいた彼をぎゅっと抱きしめた。


「玲香…俺…」

 しばらく玲香の胸に顔をうずめていた賢児は、彼女を見上げ、何か言おうとした。だが、その時、賢児の携帯が鳴った。着信音にびくっとする玲香に、ちょっと待っててと言うと、賢児は電話に出た。

「はい。あ、親父?」

 父の保からのようだった。

「……泊まるってここにか? そんな急に言われても困るだろ、本当は休みなのを無理言って開けてもらったんだぜ」


「賢児さま。先生からですか? お電話変わっていただけますか」

 玲香に促され、賢児は電話を渡した。

「先生、高橋でございます。先日はありがとうございました。…あの、これからこちらへ?…ええ、はい、大丈夫です。ご用意させていただきます。

 お連れは…秘書の方と運転手の方で…あ、さようですか。では先生の分だけでよろしいですね。お食事は六時半からということで承ってますが、ご無理でしたら、ずらすように皆様にお伝えしましょうか」

 てきぱきと用件を確認し終えると、玲香は携帯を賢児に戻した。


「賢児さま。私、おかみと板長に伝えて参りますので。皆さんがいらっしゃる庭は、玄関を出て左手の裏手にあります。では」すっかり旅館の娘モードにスイッチが入った玲香は、賢児に一礼すると、さっさと部屋を後にした。

「れ、玲香……あ、あれ。えっと…」

 一人部屋に取り残された賢児は、しばらく入り口を見つめていた。


“なんだよ、玲香のやつ。だいたい、親父は何でこんなときに電話なんかしてくんだよ。兄貴にしろよ、兄貴に。…でも、結婚の件は誤解だってわかったし、ずっと傍にいるって言ったよな。ずっと。ずっとか。そうか、一緒なんだ。俺たち”

 賢児は顔をほころばせながら、ゆっくり立ち上がると、ポケットに両手を突っ込み、軽い足取りで涼一たちのいる庭へ向かった。


  *  *  *


 板場へ向かいながら、玲香は顔が熱くなるのを感じて、慌てて両手で頬を包んだ。

 夢中で怒ってしまった。夢中で賢児を抱きしめてしまった。夢中でいつまでも一緒にいると言ってしまった。宿泊客とか予約とか、そういうことになると反射的に反応してしまうのだが、いったん冷静になってみると、その直前に起こったことのほうが、玲香にとっては正直はるかに重大なことだった。

 傍にいてくれなきゃ嫌だと真っ赤な顔でうつむいた賢児を思い出しながら、玲香は思った。


“あれって、賢児さまも私と同じ気持ちってことかしら。本当に? 本当に本当? そんな夢みたいなことってあるのかしら。賢児さまなら、いくらだって女性が寄ってくるだろうし、私みたいに普通の女を選ぶ理由なんてない。忙しいから身近なところで済ませちゃったんだろうか。たまたま私が一緒に働いていたからだろうか…”


 考えれば考えるほど、彼が自分を好きになる理由などないように思えて仕方がない玲香だったが、それでも、うれしくてたまらないのも事実だし、彼のことを好きでたまらないのも事実だった。

“…いいや、理由なんて”

 少し早足になりながら、玲香は心に決めた。

“どんな形でもいいから、これから先ずっと、賢児さまの傍にいる”


 板場の暖簾をくぐると、玲香は笑顔で言った。

「お客様、一名様追加です!」


  *  *  *


「あっ。賢ちゃんだあ」

 賢児の姿に最初に気づいたのは紗由だった。

「れいかちゃんは?」紗由がきょろきょろと辺りを探す。

「じいじが来ることになったから、おかみさんと板長さんに伝えに行ったよ」

「じいじ、くるの?」

 紗由は龍のところへ駆けて行った。「にいさまあ。じいじくるって!」

 紗由が駆け出した方向を見ると、涼一と周子の姿が見えた。何やら庭の植木をいろいろと眺めているようだ。


 紗由と入れ違いに男性が賢児に近づいてきて、頭を下げた。

「ご挨拶が遅れまして……玲香の父の高橋飛呂之でございます。いつも娘がお世話になりましてありがとうございます。本日は皆様でお越しいただきまして恐れ入ります。どうかごゆっくりなさってください」

「は、はい。ありがとうございます。こちらこそ、本当はお休みでいらっしゃるのに申し訳ありません。父も急にお世話になることになりましたが、よろしくお願いいたします」

 賢児はかなり緊張した面持ちで、初めて玲香の父親と言葉を交わした。


「じっちゃん! 真ん中飾るでえ!」少し離れた場所から翔太の声がした。

「わかった、綱出しておけ!」飛呂之が翔太に答える。「賢児さんもご覧になってください。祭りに使う神箒を作ります」

「ええと、それは子どもを怒らせてとかいう?」

「そうです。龍くんや紗由ちゃんも、飾りに興味津々ですよ」

「ぜひ拝見させてください」


 庭の中央では、翔太がテキパキと綱や木像などを運んでいた。

「じっちゃん、今年は朱雀様が真ん中なんか?」

「そうだな…」

 飛呂之が、集められた4体の木像を手にとって考え込んでいるところに、紗由が走りこんできて、木像をひとつひとつ手に取り眺め始めた。

「かめさんがいい! とりさんつかれてるから、かめさんにして!」玄武像を飛呂之に差し出す。


「…じゃあ、そうしようか」

 飛呂之は紗由から像を受け取ると、帯綱と呼ばれる金糸を織り込んだ平たい布で、箒の柄に像を巻きつけ、後ろを八重の花びらのように形作った。

「紗由の言うとおりでいいんですか?」賢児が少し不思議そうに聞く。

「かまいません。子どものためのお祭りですからね。子どもの意見を尊重しましょう」紗由のほうを見て微笑む飛呂之。


 紗由は満足そうに眺めると、また両親のところへ走っていく。

「この神箒というのは、作る人間が感じたままに配置していくんですよ」

「じっちゃんが、一生懸命、適当にチョイスするんやで」

「まあ、そんなところです」翔太の頭をなでながら、今度は声を上げて笑う飛呂之。

“「一生懸命適当に」か…。何かいいな、それ”

 賢児も釣られるように笑う。


「その亀は玄武で、この4体の木像は、いわゆる“四神”ですよね?」

「その通りです。紗由ちゃんの言う鳥さんが朱雀で、こちらが青龍と白虎です」

「全部一緒に飾るんですか? 確かそれぞれが守る方向があったかと…」

「ええ、確かに、東の青龍、南の朱雀といった対応のさせ方をしていますね。ですが、この神箒は、それぞれに特定の場所を守っていただくというよりは、四神みなで力を持ち寄って守ってくださいというような意味合いなんです。

 この辺の場合は、いろんな民間信仰と神道、中国の風水的な考え方などが混ざって、今の形になっているんですよ」


「そうなんですか。ゲームなんかでよく出てくる四神は、四方に置いて結界を張るというのが定番ですけど、ちょっとニュアンスが違うんですね」

「その場合の結界というのは、霊的な防御ということですね。それで言うなら、実は、この辺も含めて、お富士様の周りは結界だらけなんですよ。いろんな人たちが、いろんな考え方で、いろんなことをするものですから」

「それこそゲームや小説ばりに、結界同士の衝突、相殺、合体とか出てきそうですね」

「近所の結界に当たって怪我しそうです」

 飛呂之の言葉に、あははと声を上げて笑う賢児。


 飛呂之は、翔太に玄武の像に使う帯を持ってこさせた。

「スピリチュアルブームとやら以来、人が押しかけては、いろんなことをするもので、正直、笑い事ではない部分もあるんですよ。観光で活性化するのはありがたいんですが」

「わざわざ霊峰の近くまで来て、罰当たりなことをしていくなんて、困ったものですね」

「大丈夫やで! いざとなりよったら、巫女さん大集合させて、悪いやつやっつけたるんや」青龍の像をリネンの布で拭きながら、翔太が会話に割り込んできた。

「ダメだぞ。可愛い巫女さんナンパしちゃ」賢児がニヤニヤしながら、からかう。

「そないな恐れ多いこと! せやけど、レディをディナーにお誘いするのは男のたしなみちゅうもんですわ」


「お前は将来、女で苦労しそうだな」飛呂之は軽くため息をつきながら翔太を見た。

「じっちゃん、苦労は買うてでもせい、言ってるちゃうか」

「苦労だけして終わるなよ」

「もちろんや。じっちゃん、苦労は幸せになるためにするもんだて、言ってるちゃうか」

 にっこり笑いながら、最後になる白虎の像と帯を飛呂之に渡すと、翔太はてきぱきと、その辺りにある道具を片付け始めた。

「ほな、ちーとばかし板場行ってくる!」


 そう言って、次の仕事へと向かっていく翔太の後姿を眺めながら、賢児がつくづく感心したように言う。

「本当によく働くなあ。うちの会社に欲しいくらいだ」

 賢児がそう言って笑うと、飛呂之もそれに答えた。

「玲香より、いい動きするかもしれませんな。…いや、玲香は玲香で、昔から努力家です。親の私が言うのも何ですが」

「はい、それはもちろん承知しています」賢児が表情を引き締めて、飛呂之に言った。「玲香さんには、本当によく働いていただいています。今の僕の仕事は、玲香さんがいないと成り立ちません。周囲からも評判がいいですし、僕としては理想のパートナーです」


「そう言っていただけると、ありがたい限りです。姉の鈴音には、会社の話もいろいろとしているようで、玲香が賢児さんから、よくしていただいていることも伺っております」

「いえ、そんな」玲香はお姉さんに何を話したのだろうと少々心配に思いながらも、賢児はきっぱりと飛呂之に告げた。

「お嬢さんのことはきちんとお預かりさせていただきます。…玲香さんには、ずっと一緒にいていただきたいと思っていますので」賢児が飛呂之に頭を下げる。

「よろしくお願いいたします」飛呂之も深々と頭を下げた。一度頭を上げて賢児のほうを見ると、再び頭を下げ、しばらくそのままでいた。


 賢児が頭を上げると、真横に、自分と同じようにお辞儀をしている紗由がいた。

「うわっ。…何してんだよ、お前!」びっくりして声を上げる賢児。

「さゆも、おじぎごっこする!」

「ごっこじゃないんだよ、紗由」賢児は低めの声で言う。

「さゆはね、シンデレラのおじぎもできるの」

 賢児の言うことにはまるで聞く耳を持たない様子の紗由は、ドレスの裾を持つようなしぐさをしながら、ひざを折り曲げて交差させ、首を傾ける。


 その様子を、目を細めてながめていた飛呂之が、大げさに抑揚をつけながら言った。

「これはこれは、お姫様。ようこそいらっしゃいました!」

 飛呂之は手を胸の前に置き、紗由同様、ひざを曲げながらお辞儀をする、カーテシーのポーズを取った。

「おうじさま、シンデレラは、かえります」紗由はうれしそうに、うふふと笑って飛呂之を見上げると、再び涼一たちのもとへ走り去った。


「紗由と息がぴったりだ…すごいですね」

 自分にはとても、こんな反応はできないと思いながら、賢児が飛呂之を見る。

「女の子を二人育ててますからね。お姫様ごっこは必須でしたよ。…楽しいですなあ。昔を思い出します」飛呂之は明るい声で笑った。

「玲香…さんも、ですか?」

「あの子は、お姫様が大好きでしたね。そうそう、幼稚園のときでしたかね。なぜか白雪姫の毒りんごが、裏手の山になっていると信じていて、それを取りに行ったんですよ。

 でも、山は遠いし、迷子にならないようにと…ビニールの紐がありますよね、梱包用の。あれを玄関先の樹にしばりつけて、それを持って山に登ろうとしたんです。

 結局、山に登るには紐が短過ぎて、泣きながら戻ってきましたよ。紐が足りないって」


「可愛いなあ。…でも、戻ってきてくれてよかったですね、真面目な話」

「ええ、本当にそうなんですよ。けっこう危ない道もありますし、池とか小川もあって、子どもには決して安全な場所ばかりではありませんから。

 そのときは、“ダメよ”という女の人の声がしたらしいんですがね。“ちゃんと戻ったら、ごほうびにきれいな石をあげる”って。本能というか、不思議ですね、人間というのは、そういう声を聞かせるわけですから。まあ、何はともあれ、無事でよかったです」


「そんなことが…。きれいな石と一緒に戻って来たんですか?」賢児が微笑む。

「ええ。アメジストだと思うんですけどね。紫の石を持ってきました」

「へえ…」

「紗由ちゃんも、かなり行動派のようですから、油断できませんな」

「仰るとおりです。もう、年がら年中、紗由に振り回されてますよ」賢児は苦笑いした。

「そのうち、振り回してもらえなくなるんですよ。今のうちが花です」

 賢児には、そう言う飛呂之が少しだけ寂しそうに見えた。と同時に、もし自分が娘を持つ日が来たなら、こんな父親になりたいなと思っていた。


「とうさま、こうやって、こう」

 紗由が、さっきの飛呂之のようにお辞儀をさせようと、涼一に一生懸命説明する。

「こうか?」

 見よう見まねでやってみるものの、紗由が自分に何をさせようとしているのか理解できず、今ひとつうまくできない涼一に、周子が横から口を出す。

「こうよ、涼一さん」

 周子は、長い手を白鳥の羽のように優雅に胸元へ持ってくる。その姿は、紗由の目には完璧な王子様に映った。

「かあさまが、おうじさまになったあ!」周子にしがみつく紗由。


「姫、踊りましょう」

 紗由の体を持ち上げ、周子が踊る真似をする。母親の腕に抱かれて、きゃっきゃと喜ぶ紗由。周子が紗由を降ろすと、紗由は龍のところへ走りより、その手を取った。

「にいさまも、おうじさまになって」

「王子様だらけだなあ」龍がそう言って笑うと、紗由が突然小さく「あっ」という声を上げた。「そうなんだ」

 紗由は龍の手を離し、いきなり飛呂之の元へ走っていった。


「ひろゆきさん!」

 その袖口を引っ張り、きっぱりとした口調で言う紗由。

「ひろゆきさん。れいかちゃんを、さゆのおうちにいただきます!」

 飛呂之は、紗由のそのセリフに手を止めた。

 “命”様…?”

 紗由は、じっと飛呂之を見つめる。


「すみません。こら、紗由、何言ってるんだよ。…あの、どうかなさいましたか?」何かちょっと様子が妙な飛呂之に、賢児が声を掛けた。

「いや、紗由ちゃんが昔の知り合いに似ていたもので…その、今の言い回しもそうなんですが……最初に見たときに、横顔がその知り合いを思い出させたというか、とてもよく似ていたんです。すっとした、きれいな鼻筋と、朱雀様の羽ばたきを思わせるかのような、長い睫毛が」飛呂之は一瞬、目を伏せた。「いえ、すみません。そんな、大げさに言うようなことでもないんですが」


「れいかちゃん、くださいな」紗由が大きな目で飛呂之を見つめる。

「はい、わかりましたよ」にっこりと笑うと、飛呂之は賢児の方を振り返った。「五十年以上前になるんですが、その方から言われたんですよ。“あなたの宝物を、私のお家にいただきます”と。それを思い出したんです。彼女は、ここに来ていた巫女さんというか…私どもは“みことさま”とお呼びしていました。私はまだ、翔太より少し上くらいで、その時は言われた言葉の意味は、何が何だかわかりませんでしたが…」飛呂之は次の言葉を一瞬飲み込んだ。

“でも、今その意味がわかった気がします。玲香は私の宝物ですから”


「あの…今、“命”さまとおっしゃいましたか?」賢児が驚いた様子で飛呂之に確認する。

「はい。…あの、もしかして西園寺家は、私の知っている“命”さまと何かご関係でも?」

 賢児を見上げる飛呂之に、紗由を追って飛呂之の傍らに来た涼一が割って入った。

「唐突にすみません。そのご質問への答えは“おそらくイエス”です。それで、その”命”さまからは、最近こちらに連絡があったでしょうか?」

「いえ…何もご連絡はありません。ただ半年ほど前に、ほんの一瞬ですが、よく似たご婦人をお見かけしたことがありまして。すみません、先ほどのイエスの意味というのは…?」


 涼一は辺りを窺うように見回した。周囲を気遣う様子の涼一に、飛呂之が言う。

「立ち話もなんです。奥でお話いたしませんか」

「そうしていただけると、ありがたいです」

 涼一は紗由に、周子のところへ行くように言うと、代わりに龍を呼び寄せた。そして、4人の姿は旅館の奥へと消えていった。


  *  *  *


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