↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
イチゴの行く道  作者: 朝山みどり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/8

03 兄の帰郷

03 兄の帰郷


 五年目の春に、ハウスの借入金を返し終えた。

 佐伯さんは書類を確認し、俺に頭を下げた。

「お疲れさまでした。よく頑張りましたね」

「これで機械が壊れても、ちょっとは慌てずに済みます」

「休んでもいいんですよ」

 俺は笑った。

 休みになったら何をするか、すぐには思い付かなかった。

 帰り道で制服を着た高校生を見た。自転車を並べ、何かを言い合って笑っていた。

 信号が青になっても、俺は一瞬、発進するのを忘れた。

   ***

 その夜、母が食卓の向かいに座った。

「あんた、借金が済んだんやってね」

「ああ」

「恭一への仕送り、もう少し増やしてやれへん?」

 箸に挟んでいた漬物を、俺は皿へ戻した。

「何でや」

「東京は何かとお金がかかるし、今度、新しい人と組むらしいんよ」

「兄貴、もう自分で稼げる年やろ」

「夢を諦めろとは言えんやないの」

 俺は母の顔を見た。

「俺には言えたやろ」

 台所の時計が、やけに大きく鳴った。

 母は唇を動かしたが、言葉は出なかった。

 祖父が横から口を挟んだ。

「お前は、まだそんなことを言うとるんか」

「そんなことって何や」

「兄弟やろ。助けられるもんが助けたらええ」

「俺の借金が終わっただけや。次の苗も、燃料も、修理代もいる。仕送りは増やさん」

 母は泣いた。祖父は恩知らずだと怒った。

 俺は飯を食べ終え、食器を流しへ運んだ。

 これまでなら、その泣き声に負けていた。だが、あの借入金の数字を見た日から、負けられなくなっていた。

   ***

 兄貴が帰ってきたのは、俺が学校を辞めて十年目の秋だった。

 白いシャツに、先の細い靴。玄関へ置かれた荷物は、思っていたより少なかった。

「ちょっと、休ませてくれ」

 兄貴は俺を見て、昔と同じ笑い方をした。

「音楽は?」

「まあ、いろいろあってな」

 母が奥から飛び出してきたので、その話はそこで終わった。

「疲れたやろ。ご飯、食べたんか」

 祖父まで立ち上がり、兄貴の肩をたたいた。

「よう帰ってきた。よう帰ってきたな」

 俺はカップに茶を注ぎ、兄貴の前へ置いた。

「悪いな」

 兄貴は、俺の手を見ずに受け取った。

   ***

 数日後、祖父が家の今後について話があると言った。

 居間の座卓には、兄貴が真ん中に座っていた。俺の座布団は、入り口側に出してあった。

「やっぱり、長男が跡を継ぐのが筋やな」

 祖父は、俺が座るのを待って言った。

 外で、乾きかけの洗濯ものが竿をこすっていた。

「何を継ぐんや」

 俺が聞くと、祖父は眉を寄せた。

「この家と農業に決まっとるやろ」

「イチゴもか」

「家の土地でやっとるんや。当然やないか」

 俺は兄貴へ顔を向けた。

「兄貴も、そのつもりなんか」

「お前が守ってくれたのは感謝してる。これからは一緒にやろうと思ってるんや」

「経営のことは、俺が決めるんか」

 兄貴は困ったように笑った。

「そこは相談やろ。ただ、外に向けては代表がおったほうがええ。俺は東京で、人との付き合いも覚えたし」

 母がうなずいた。

「あんたは作るのが上手やし、恭一は人と話すのが上手や。ちょうどええやないの」

 十年間、一度もハウスの温度を尋ねなかった人たちが、俺の仕事の分け方を決めていた。

「俺がここまで返してきた金も、作ってきたものも、兄貴のものになるんか」

「誰のものやと、いやらしい言い方をするな」

 祖父が座卓をたたいた。

「家族のもんや。兄が一緒にやろうと言うてくれてるんやぞ」

 俺は母を見た。

 母は目を伏せた。

 誰も、俺にどうしたいかとは聞かなかった。

   ***

 その晩、ハウスへ行った。

 点検用の明かりをつけると、通路の奥まで苗が並んでいた。

 葉の縁に触れ、自分の手を見る。指の節が太くなり、爪の間には洗っても落ちない色があった。

 この手で、借金を返した。

 この手で、何度も枯れかけた苗を育てた。

 だが、家で話をするとき、この手が何をしてきたかは、いつも勘定に入らなかった。

 通路の向こうで、暖房機が動き出した。

 俺は立ち上がった。

 腹が立っていても、明日出す実は摘まなければならなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。