03 兄の帰郷
03 兄の帰郷
五年目の春に、ハウスの借入金を返し終えた。
佐伯さんは書類を確認し、俺に頭を下げた。
「お疲れさまでした。よく頑張りましたね」
「これで機械が壊れても、ちょっとは慌てずに済みます」
「休んでもいいんですよ」
俺は笑った。
休みになったら何をするか、すぐには思い付かなかった。
帰り道で制服を着た高校生を見た。自転車を並べ、何かを言い合って笑っていた。
信号が青になっても、俺は一瞬、発進するのを忘れた。
***
その夜、母が食卓の向かいに座った。
「あんた、借金が済んだんやってね」
「ああ」
「恭一への仕送り、もう少し増やしてやれへん?」
箸に挟んでいた漬物を、俺は皿へ戻した。
「何でや」
「東京は何かとお金がかかるし、今度、新しい人と組むらしいんよ」
「兄貴、もう自分で稼げる年やろ」
「夢を諦めろとは言えんやないの」
俺は母の顔を見た。
「俺には言えたやろ」
台所の時計が、やけに大きく鳴った。
母は唇を動かしたが、言葉は出なかった。
祖父が横から口を挟んだ。
「お前は、まだそんなことを言うとるんか」
「そんなことって何や」
「兄弟やろ。助けられるもんが助けたらええ」
「俺の借金が終わっただけや。次の苗も、燃料も、修理代もいる。仕送りは増やさん」
母は泣いた。祖父は恩知らずだと怒った。
俺は飯を食べ終え、食器を流しへ運んだ。
これまでなら、その泣き声に負けていた。だが、あの借入金の数字を見た日から、負けられなくなっていた。
***
兄貴が帰ってきたのは、俺が学校を辞めて十年目の秋だった。
白いシャツに、先の細い靴。玄関へ置かれた荷物は、思っていたより少なかった。
「ちょっと、休ませてくれ」
兄貴は俺を見て、昔と同じ笑い方をした。
「音楽は?」
「まあ、いろいろあってな」
母が奥から飛び出してきたので、その話はそこで終わった。
「疲れたやろ。ご飯、食べたんか」
祖父まで立ち上がり、兄貴の肩をたたいた。
「よう帰ってきた。よう帰ってきたな」
俺はカップに茶を注ぎ、兄貴の前へ置いた。
「悪いな」
兄貴は、俺の手を見ずに受け取った。
***
数日後、祖父が家の今後について話があると言った。
居間の座卓には、兄貴が真ん中に座っていた。俺の座布団は、入り口側に出してあった。
「やっぱり、長男が跡を継ぐのが筋やな」
祖父は、俺が座るのを待って言った。
外で、乾きかけの洗濯ものが竿をこすっていた。
「何を継ぐんや」
俺が聞くと、祖父は眉を寄せた。
「この家と農業に決まっとるやろ」
「イチゴもか」
「家の土地でやっとるんや。当然やないか」
俺は兄貴へ顔を向けた。
「兄貴も、そのつもりなんか」
「お前が守ってくれたのは感謝してる。これからは一緒にやろうと思ってるんや」
「経営のことは、俺が決めるんか」
兄貴は困ったように笑った。
「そこは相談やろ。ただ、外に向けては代表がおったほうがええ。俺は東京で、人との付き合いも覚えたし」
母がうなずいた。
「あんたは作るのが上手やし、恭一は人と話すのが上手や。ちょうどええやないの」
十年間、一度もハウスの温度を尋ねなかった人たちが、俺の仕事の分け方を決めていた。
「俺がここまで返してきた金も、作ってきたものも、兄貴のものになるんか」
「誰のものやと、いやらしい言い方をするな」
祖父が座卓をたたいた。
「家族のもんや。兄が一緒にやろうと言うてくれてるんやぞ」
俺は母を見た。
母は目を伏せた。
誰も、俺にどうしたいかとは聞かなかった。
***
その晩、ハウスへ行った。
点検用の明かりをつけると、通路の奥まで苗が並んでいた。
葉の縁に触れ、自分の手を見る。指の節が太くなり、爪の間には洗っても落ちない色があった。
この手で、借金を返した。
この手で、何度も枯れかけた苗を育てた。
だが、家で話をするとき、この手が何をしてきたかは、いつも勘定に入らなかった。
通路の向こうで、暖房機が動き出した。
俺は立ち上がった。
腹が立っていても、明日出す実は摘まなければならなかった。




