02 イチゴ
02 イチゴ
朝は四時に起きた。
薄暗いうちに畑へ出て、帰る頃には背中の汗が冷えていた。飯をかき込み、出荷用の箱を組む。空いた時間に農機を点検し、夜は翌日の天気を確かめた。
母の右手は、少しずつ動くようになった。洗濯ものを干し、時間をかければ料理もできた。ただ、重い箱を持つことも、長くはさみを使うことも難しかった。
祖父は畑まで来るが、腰が痛いらしく働けなかった。その代わり、俺の仕事をよく見ていた。
「そこは、もう少し深う耕せ」
「昨日は深すぎるって言うたやろ」
いい加減、うんざりして言い返す。
「土を見て加減せえという話や」
俺はトラクターの音で、それ以上を聞かずに済ませた。
古い機械はよく故障した。ベルトを替え、配線をつなぎ直し、使える部品を探した。学校で習ったことが役に立った。
修理代を浮かせた晩だけは、自分の選んだ道が、まだ手元に残っている気がした。
***
金の流れを知ったのは、偶然、通帳を見たからだ。
母が怪我をする少し前、農協から借りた金があった。その大半が、兄貴の口座へ送られていた。
「これ、俺の学費より多いやろ」
母は俺と目を合わせなかった。
「あのときは、今度こそ話が決まりそうやったんよ」
「何の話や」
「詳しくは、私もわからんけど」
「わからんのに借りたんか」
母は濡れた布巾を、左手で何度も畳んだ。
「あんたに苦労させるつもりやなかった」
そんなつもりではなかった。その言葉で済むなら、俺は学校を辞めていない。
***
農協の佐伯さんがイチゴのハウス栽培を勧めてくれたのは、二十歳になった年だった。
「いきなり大きく始める必要はありません。今の畑の一部を使って、管理できる規模からどうですか」
佐伯さんは、長靴でやってきて畑へ入り、話をしながら一緒に箱を運ぶ人だった。
「俺にできますか」
「覚えることは多いです。ただ、機械の異常に気付けるのは強みですよ」
「機械だけ見てても、実はならんでしょ」
「だから、栽培は一緒に覚えましょう」
俺は資料を持ち帰り、何度も計算した。
建設費、苗代、燃料代。思うように収穫できなかった場合の返済も書き出した。
融資を受けるのは、俺だった。
祖父は土地を貸すと言い、母は成功すれば家が楽になると喜んだ。失敗したら誰が返すのかは、二人とも聞かなかった。
契約書に名前を書くとき、俺は一度だけペンを止めた。
自分の工場のためにするはずだった借金を、イチゴのハウスのためにした。
***
最初の冬は、ほとんど眠れなかった。
温度計を見て、葉の色を見て、土に指を差し込む。昼と夜ではハウスの中の様子が違い、昨日うまくいったことが、今日もうまくいくとは限らなかった。
暖房機の音が変わると、飯の途中でも箸を置いた。
ある晩、警報が鳴ってハウスへ走った。暖房機が止まっていた。
中がどんどん冷えていくなか、機械の蓋を開いて点検した。ネジが緩んでいた。
暖かい風が出てきた。送風が途切れないのを確認して通路に座り込むと、葉の陰に小さな実が見えた。先のほうだけ、赤くなっていた。
「頼むから、ちゃんと育ってくれよ」
俺はその実に言った。
家族にも先生にも言えなかったことが、相手がイチゴなら口にできた。
***
初めて出荷した日、佐伯さんに一粒食べてもらった。
俺は箱の横で、味の感想を待った。
「どうですか」
「美味しいです」
「ほんまに?」
「ええ。次は、粒をもう少し揃えましょう。これなら、また買ってくれる人がいます」
手放しで褒められるより、その言葉が嬉しかった。
次がある。俺の作ったものを、もう一度食べたいと思う人がいる。
帰りの軽トラで、俺は窓を開けた。冷たい風が顔に当たっても、口元が緩むのを止められなかった。
***
二年、三年と続けるうちに、ハウスに入っただけで気になるところが見えるようになった。
葉の伏せ方。実のつや。いつもと違う土の乾き。
もちろん、見誤ることもあった。そのたびにノートへ書いた。日付と気温、何をして、どうなったか。何冊もたまったノートは、肥料の汚れで角が固まった。
いいイチゴを作りたい。
初めは返済のためだった。家を回すためだった。それがいつの間にか、俺自身の望みになっていた。
冬の夜、暖房の利いたハウスには、熟れた実の匂いがこもる。
その中に立つと、明日もここで働こうと思えた。




