01 春の事故
01 春の事故
母が怪我をしたのは、高校三年の春の初めだった。卒業まで、あと一年を切っていた。
畑へ出る道の脇に、まだ水仙が咲いていた。その黄色を、病院へ向かう車の中から見たことを覚えている。
農機の回転部に右手を巻き込まれた、と祖父は言った。助手席で膝を揺すり、同じ説明を繰り返した。
「ほんの一瞬やったんや。止める暇もなかった」
俺は作業着の膝を握っていた。実習の途中で呼び出されたので、指に黒い油が残っていた。
病室の母は、右腕を包帯に覆われていた。俺を見ると顔をゆがめたが、泣いたのは痛みのせいだけではなかった。
「明日の出荷、どうしよう」
枕元で祖父がため息をついた。
「そんなこと考えとる場合やない。今は体を治せ」
そのあとで、祖父は俺を見た。
何も言われなくても、何を求められているかはわかった。
***
父は、俺が中学生のときに死んだ。母を中心に祖父と俺の三人で、田畑を耕してなんとか生活していた。
五歳上の兄貴、恭一は東京にいた。音楽で食べていくと言って家を出て、五年になる。学校を出たあとも、レッスンだ、録音だと金がかかった。
兄貴から電話が来たのは、母の手術が終わった晩だった。
「おふくろ、命は大丈夫なんやろ」
病院の廊下で、俺は携帯を耳に当て直した。
「命はな。右手は、前みたいには動かんかもしれんって」
「そうか。そら大変やな」
電話の向こうで、誰かが兄貴の名を呼んだ。
「悪い。今、打ち合わせ中なんや。また連絡するわ」
「兄貴、いつ帰れる?」
切れかけた通話に、俺は声を押し込んだ。
「すぐは無理や。大事な時期なんやって、おふくろから聞いてへんか」
「こっちも大事な時期や。春の仕事がある」
俺は言い返した。
「とりあえず、お前と爺さんで頼むわ」
通話が切れたあとも、俺はしばらく携帯を耳から離せなかった。
***
俺は工業高校で、自動車整備を学んでいた。
エンジンをばらし、部品を並べ、原因を一つずつ確かめるのが好きだった。動かなかった機械が、自分の手でまた動き出す。あの瞬間がたまらなかった。
卒業したら整備工場に勤める。資格を取り、金をため、いつか自分の工場を持つ。
進路調査には、そう書いていた。
母が退院する頃には、学校を休む日が増えていた。朝の仕事が長引けば一時間目に間に合わず、午後から出荷があれば早退した。
担任の三田先生は、実習室の隅に俺を呼んだ。
「もうすぐ夏休みや。卒業まで、あと一息や。休学も含めて考えよう。辞めると決める前に、家の人と話をさせてくれ」
作業台の上には、俺が途中まで組んだエンジンがあった。
「学費だけやないんです。俺が家におらんと、仕事が進まんのです」
「兄さんがおるやろ」
「東京です」
「帰ってもらう話はしたんか」
俺は返事の代わりに、油の染みた作業着を見下ろした。
***
その晩、食卓で学校の話をした。
母は左手に箸を持ち、崩れた煮魚をつついていた。
「兄貴に春までだけでも帰ってきてもろたら、俺、卒業できるんやけど」
母の箸が止まった。
「恭一は今、頑張ってるところやから」
「俺も頑張ってるやろ」
「わかってる。あんたには感謝してるよ」
母はそう言ってから、俺の皿に魚の身を寄せた。
祖父が茶をすすった。
「若いもんは夢を追わなあかん。今しかできんこともある」
「俺の学校も、今しか行かれへんのと違うか」
「お前には家があるやろ」
祖父は、話が片付いたように箸を取った。
俺は十八だった。兄貴より五つ若かった。
それでも、この家で若いもんと呼ばれるのは、兄貴だけだった。
***
夏の終わりに、退学届を出した。
先生は最後まで、俺に書類を渡すのをためらった。
「困ったら来い。辞めたから、もう相談できんなんて思うなよ」
「はい」
「整備は、好きなままでおれ」
俺はうなずいた。返事をすると、何か別のものまで口から出そうだった。
家へ帰ると、祖父が玄関で待っていた。
「頼りにしてるぞ。お前がおって助かった。近所にも鼻が高いわ」
母は台所で泣いていた。
「ごめんな。私の手が、こんなんになったばっかりに」
俺は作業着に着替えた。
泣いても、夕方の水やりは終わらない。
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