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貴方の知る私は、記録の外におります— 王子の婚約解消以後、私は物語の舞台を降りました  作者: 妙原奇天


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第3話 匿名寄付はどこへ

 公開棚は入口の右側——人が入るときに一度だけ正気に戻る、その狭い通路にある。朝のうちに札の並びを整え、私は一枚の新様式を差し込んだ。

〈行き先公開票〉

 一、寄付の品目/数量

 二、行き先(受領者)

 三、用途の範囲(任意)

 ※“誰から”は空欄で可。“どこへ”は必須。


 書式の脇に、短い注意書きも添えた。

〈匿名は“誰から”を隠す権利。公開は“どこへ”を示す義務。〉

 ——権利と義務は、重さが同じと気持ちよく歩ける。


 午前の鐘の少し前、保護院の院長マリナが肩掛け袋を抱えて現れた。灰色の髪を布でひとつに束ね、目尻に笑い皺。

「また靴が届いたよ、査定官さん。今日は子ども靴が多くてね、紐穴が数えて楽しい」

「良い配送です。紐穴は、制度でいう孔。通すものがあると、うまく締まります」

「難しい話は分からないが、靴はほどけない方がいい」

 私はうなずき、公開棚の下段に受領印を押す。マリナは押印の音を好きだと言う。人はよく分かっている。音は安心だ。


 昼前、二人連れが現れた。黒いヴェールのご婦人と、鼻筋の通った紳士。香水がわずかに強い。

「わたくしたち、白百合祈祷会の者です」

 ご婦人は包みを差し出した。白い包布の端に刺繍。中身は羊毛の毛布が十枚。

「匿名で、保護院へ。できれば、“祈祷会の教義書”を一冊ずつ添えて配布していただければ」

 匿名の“誰から”の先に、条件がついている。私は扇子を閉じ、行き先公開票を指で示した。

「匿名は歓迎します。条件付きは、匿名とは一緒に運べません」

 紳士が口を挟む。「なぜです? 善き教えは寒さを和らげる」

「寒さは毛布で和らげられます。教えは同意で受け取られます。匿名に条件を載せると、受け取り手の同意が割れてしまう」

 ご婦人はヴェールの下で眉を寄せた。「では、教義書を抜きにすれば受け取るのね」

「はい。あるいは、教義書を**“寄贈:図書塔”**として公開棚に別記し、読みたい人が読める形に」

 紳士は少し考え、肩をすくめた。

「……ならば、分けて記しましょう。毛布は保護院。教義書は図書塔」

「ありがとうございます。匿名の清潔さが保たれます」


 会話を聞いていた受付の若い書記が、私語のように囁いた。「匿名に条件、よくありますね」

「匿名は仮面。仮面は踊るなら自由だが、踊りの相手の足を踏んではいけません」

 書記は笑い、筆を速めた。笑いがあると、筆が軽い。笑いは手順の取っ手。


 午後、ベアト商会長が再び現れた。今度は背後に使用人を二人従え、荷馬車一台分の袋。

「毛布と衣服と、ついでに余りの布。全て保護院へ。——匿名で」

「ありがとうございます。行き先は公開します。袋をこちらへ」

 私は袋の一部を検査台に移し、縫い目を確かめる。使用人が落ち着かない足取りで言う。

「査定官様、もし可能なら、袋の口に商会の印を……」

 ベアトが小声で止める。「余計なことを言うな」

 私は首を横に振った。

「印は匿名と相性が良くありません。印は責任の呼吸です。匿名は、責任を行き先に移します」

 ベアトは天井を見上げ、短くため息をもらした。「分かっている。俺は今日は利口で来た」

「存じています。利口な人は、自分の利を構造に乗せる」

「構造?」

「公開棚に**“布の再縫製の場”を設けます。保護院の庭に縫製台を。あなたの商会が縫い方を教え、保護院が回収した布を直して売る**。売上は半分が保護院、半分が材料費。——匿名のまま、持続を作れます」

 ベアトは私を見、口端を上げた。

「悪くない。商会名は出ないが、仕立ての型紙は残る」

「型紙は誰が使っても良い。再現性は正義です」

「やってみよう。すぐに台を持ってくる」

 商会長の背中は、来るときより軽い。利口な人の帰り道は風通しがいい。


 夕刻、図書塔へ向かう。教義書の寄贈票を手渡すと、司書騎士ノアが頷いた。

「“閲覧自由、配布なし”で掲示する」

「お願いします。信仰は公開よりも同意が先です」

「同意は、署名のない署名だ」

「良い言い方です。借りても?」

「出典:ノア。——引用は公開」

 二人で笑っていると、古い机に置かれた箱から、カタン、と軽い音。蓋を開けると、昼に置いたばかりの“行き先公開票”と同じ書式が、一枚だけ戻っている。

 差出人欄は空白、行き先は**“病院の産着”**、備考に小さく。

〈ありがとう〉

 言葉は短いほど、長く残る。


 夜、局に戻ると、廊下の端でレオンハルト殿下と鉢合わせた。護衛を遠ざけ、一人で立っている。

「公開棚、見た」

「入口の空気、良かったでしょう」

「……少し、寒かった」

「それは多分、匿名の温度です。誰かがいなくても走る仕組みは、最初は冷たく感じます」

 殿下は視線を落とし、ゆっくりと息を吐いた。

「君は、やはり怒っているのか」

「怒りは私物です。今日も持参していません」

「では、何で動いている」

「順序と公開。それから、小さな冗談」

 殿下は目を上げ、わずかに笑う。「冗談は難しい」

「失敗しても大丈夫。冗談には罰則がありません」

 彼は頷き、短く一礼して去った。背筋の角度が正しく、少しだけ柔らかい。正解の型にようやく自分の癖が混ざり始めている。


 私の机には、保護院からの短い伝言。

〈今日、匿名の毛布を“選べた”ことが嬉しかった。行き先が見えるから、必要な子のところへ自分で運べた〉

 私は「選べた」に線を引き、余白に書く。

“匿名の善意は、行き先が見えると他人の手足になる”。

 隣の行に、もう一行。

“行き先公開は、善意の再分配装置”。


 ランプの油を落として火を細くする。今日の記録はここまで。善意が冷める前に、構造に移す。それが私の仕事。

 最後に湯を沸かし、茶葉を落とす。湯気が立ち、紙がよく乾く。

 恨みは、やはり保存しない。お茶にすると香りがよい。複雑税も、少し軽くなる。


――――

【小さな勝利】「行き先公開票」運用開始/匿名+条件の分離合意/保護院×商会の再縫製スキーム立ち上げ

【次話予告】第四話「複製推薦状の終わり」——街に散った“写し”の掃除を、笑いと緑青の印で進める話。

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