4 ボタンの行方
急遽始まった淑女教育に私は引き気味であった。それほど難易度が高いわけではないものの、何故そこまでするかわからないと言うのが正直な思いだ。
勿論良い事もあった。ジャックのお陰で読み書き能力が格段に上がったのだ。ヤマダサン寄りの話し方もジャックの手にかかり絶賛矯正中だ。引き換え、ナタリーには悪いのだが、彼女の教えてくれるものは生活を華やかにする趣味に良いもので、私の中では優先順位が低い。しかし、そんな事は彼女に言えないのだった。
練習曲の譜面に従い鍵盤を暫く叩いていたのだが、同じ譜面を数回繰り返すと、私は違うことがしたくなり、少し音を外してみることにした。和音を一音ずらす。旋律にわざと一音増やした。乗り遅れたように一つの音をギリギリで鳴らしてみた……本を読んでいたヤマダサンが耳をぴこぴこ動かし『嬢ちゃん、面白いことしてるナ』と本から目を離し、ピアノの側に近づいて来た。
[いい感じ?]
[嫌いじゃないナ]
ヤマダサンは暫く弦がハンマーに打たれる様子を譜面台の隅に器用に体を引っかけて覗き込んでいたが、しばらくして欠伸をして『何か眠くなるゾ、コレ』と言うと本の世界へ戻って行った。
今ヤマダサンは、私の部屋にあった恋愛小説を読み漁っている。今読んでいる本は主人公が親友と信じていた女に恋人を奪われるがなんやかんやあって最後は幸せになれるらしい。読み終わっていないのに最後は幸せになれるとわかるのかと私が言うと、そこは外さないモノだとヤマダサンは得意気に語った。恋愛小説の書き方には不文律というかお約束があるのだろう……と、思うことにした。
ふと、とあるフレーズで音がズレた。敢えて足してみた音がズレていたのだ。
同じ音をもう一度鳴らすと、ややくぐもった音がする。長年使う機会がなかったピアノなのだろう。私はヤマダサンが先程やっていたように内部を覗こうと立ち上がる。
弦を留めておくピンの近くに異物を見つけた。
取り出そうと手を伸ばし、それに手を触れた一瞬で見えていた景色が暗転し、違うところに放り出された。
どこだろう……
ヴァレンタイン伯爵家ではないようだ。
扉を開けると、淡い金髪の闊達そうな女性が笑顔で迎え入れてくれた。幸せそうだ。女性の瞳に男の姿が映る。これが“私”か……
「おかえり。今日は赤ちゃんが蹴ってくれたの」
“私”は嬉しくて仕方がない。もうすぐ赤ちゃんが生まれる。シャロン様のように健やかにに育ってほしい。そして景色が暗転した。
今度はどこだろう……
これはヴァレンタイン伯爵家だ。
“私”はとある部屋をノックし、入る。中には白髪の男が一人。顔色は良くない。
「ネイサン様。何かお召し上がりになりませんか?」
“私”は男に何か食べてほしいと願いを込めて話しかけるが、白髪の男は『大丈夫だから』と言いながら、書物に目を落として本の世界に行ってしまった。また暫く帰って来ないだろう。成果を得られぬまま“私”は部屋を後にした。
「ジャック、どうしたの?」
声の主は、“私”の腰の高さほどの少女。やっと見慣れてきた銀色の髪と、瑠璃色の瞳。まだ五歳か六歳くらいだろうか……
“私”は屈んで少女と目線を合わせると、少女の瞳に“私”が見える。
「シャロン様……ネイサン様にお食事をして頂こうと思ったのですが、今は良いと仰られてしまいました。」
そう言った“私”の左手を少女はおもむろに持ち上げると、そこにお菓子の包みを乗せた。
「ジャックも何か食べないと元気が出て来なくなるから」
そう言った少女は、“私”を覗き込む様に伺っている。ああ、そうかと“私”は少女の望みを理解する。
「お母様の所へお見舞いに行きましょうか?」
「ええ!」
“私”は少女の小さな手を取り、いつもより歩幅を小さめにして、二階に歩を進める。
扉をノックし、“私”と少女が中に入り、寝台の傍へ進むと、そこに少女の母が眠っていた。少女は“私”の手を離して、母親の手を取るが、母親が起きる事はなかった。身体を崩してから、少女の母は薬で微睡む事が増えた。痛みを和らげるための薬と言うが、少女が訪れても眠っている事が多い。
“私”は彼女に残された時間が少ない事を知っている。それに抗う伯爵が自らを痛めつける様に研究に没頭している事も。少女はいつ訪れても眠っている母の手を握り、母親に聴かせるように歌をうたう。
“私”は願う。せめて残りの限られた時間を親子で過ごせたら……
母娘を残してそっと退室した。そして景色が暗転した。
今度はどこだろう……
ヴァレンタイン伯爵家では見たことのない部屋のようだ。
薬品、薬草と思しき品が棚に並ぶ。“私”は目的の薬が入る箱を取り出す。少女の母から痛みと共に意識を奪う薬だ。主人である鉛白の魔術師が調合したものだ。薬包で包まれたそれらを手に取り、溜息を吐くと部屋を後にした。
二階にある、伯爵夫人の部屋。“私”は重くなる心を表情を消す事で隠そうとする。
扉をノックし、中に入ると夫人が眠る寝台の傍に進む。夫人は珍しく起きていた。
「ジャック。お願いを聞いてくれるかしら?」
「はい。私めにできる事でしたら、何なりと……」
伯爵夫人は、ここ一年足らずですっかり痩せてしまい、美しかった髪も艶を失っていた。だから“私”は自分の腕を掴む夫人の力強さに驚いた。夫人は“私”の目を真っ直ぐ見つめ言った。
「その薬は……もう飲ませないで。痛みがあれば私は正気を保てるの」
“私”は夫人から目を離せない。彼女の瞳には捉えられた“私”が見える。
夫人の願いは、“私”の願いに近いのだが、伯爵の想いと焦燥を知る“私”は固まり、何も言えずにいた。
「お願いよ。私はあの子を一人にしたくないの」
「……はい」
夫人の瞳に捉えられていた“私”はぼやけて消えていき、夫人の輪郭さえも滲みだした。
「お願いよ。あの人を一人にしないで。一人では生きて行けないから」
「……はい」
“私”は涙を堪える事を諦めた。
そして景色が暗転した。
視界に伯爵家のピアノが戻ってきた。
私の手に触れたものは、ボタンだった。
これは……ジャックのもの?
今より随分若いが、ジャックの記憶を覗き視てしまったようである。最初に見た女性が恐らくジャックの妻でナタリーの母だろう。
うーん。どうしたものか……
私は扱いに困ったこのボタンをしばし考えた後、弦に触れない場所にそっと移動した。別の言い方をすると“放置”とも言う。小さな子がおねしょを隠す感覚と全く同じであった。
ボタンの事など忘れたとばかりに、少女が歌っていたうたを口ずさみ、課題曲とは異なる曲を演奏するのであった。




