5-12『デアデビル』
「……ここは……」
どこまでも続く、灰色の海の世界。
棄てられ錆びた鋼鉄の廃墟が海面に立ち並び、灰色の海水が静かに漣を奏でるこの世界に、私は立っていた。
海面には、無数の星々のような煌めきが見て取れた。
「あれ……私、何してたんだっけ……」
記憶が混濁し、自分が置かれている状況が上手く理解出来ない。
何故こんな場所に居るのか。
しかしどこかここは、幾度となく訪れ、慣れ親しんだ気がする。
それほど、ここに居ると心が穏やかになる。
「私……このままでいいのかな」
その穏やかさに身を委ねてしまいそうになる中で、どこか心の奥底に引っかかる違和感と焦燥感。
私は何かを、忘れている。
自分の胸に手を当て、考える。
何を忘れているのか、何を思い出すべきなのか。
考えようとすればするほど、私の心から何かが溢れ出そうとする感覚を覚える。
ふと目を開けてみるとそこには、ぽっかりと開いた私の胸の穴から、どろりとした黒い液体が流れ出ている事に気付いた。
「これは……」
流れ出た黒い血は、灰色の海へと流れ、ゆらゆらと揺らぎながら海水を次第に黒く染めてゆく。
そう、この黒い血は……どこか、この世界の無機質故の穏やかさとはまた違った、暖かい安らぎを感じるような……。
「……セイラ」
ぽつりと漏れ出た、ひとつの名前。
そうだ、私は……忘れてなんかいない。
大切な、友人の事を。
『ありがとう……覚えていてくれたんだね』
「この声は……」
どこからともなく聞こえた、ひとつの声。
それは慣れ親しんだ声に似ていて、しかしどこか、懐かしいような、遠い昔に聞いた声に似ていた気がした。
声の場所を追って周囲を見渡すと、海面に流れ出た黒い血に、ぽつりと紅い瞳が開いているのが見えた。
『君が思い出してくれて、この海で、思いとどまってくれて、僕は嬉しいよ』
「うぅん……少しの間でも、忘れてしまってごめん。はやく戻らないと」
『そうだね……だけど……』
海面から分離する、黒い液体。
それは私の目の前で球形を形作り、いつの間にか私の知っている形へと成った。
『君は今、ふたつの未来の分岐点に居る。ひとつはこの海に身を委ね、消えていく未来。もうひとつは……ここから出て、生き延びて、その先へと至る未来』
「私は、生き延びるよ」
『でもその為には……君は、今までの君では無くならないといけない』
「……どういうこと?」
その紅い目を持った球形の生命体は、私の胸の穴をひっそりと見つめた。
『本当は、あんな事するべきじゃなかった。でも、君が生き延びて、次の未来と可能性を掴むためにはこうするしかなかった。だから君自身の『瞳』を開く為の意志は、君に委ねたいと思う』
「私の……瞳」
『君がこの海から生き延びるには、僕の血が必要だ。でもそれは……君を君ではない、恐ろしい何かに替えてしまわなければならない。それが君にとって幸せなことなのか、このまま海に溶けてしまった方が幸運なのではないか、僕には、それが分からないんだ』
「……例え、私が私でない何かになるとしても」
私は、自分の胸の穴に手を当てて目を閉じる。
「私は、私の大切だと思うものの為に、生きたい。今まで何度も消えてしまったかも知れない私の命を、懸命に繋いできてくれた人の為に、私は、生きたい」
『そうか……なら、僕は君を変えよう。この運命の分岐点のその先を掴む為に……君に瞳を授けよう』
その紅い瞳と海に散った黒い血は、海面から剥離すると、再び私の周囲を舞い、胸の穴へと集い始める。
それと共に、私の中に、不思議な温もりが満たされていった。
「私は……私じゃない何かになっても……例え『悪魔』になったとしても、私は私と大切な人の運命の為に――!」
『……ありがとう』
黒い血は翼となり、私を空へと導いた。
この運命から脱出する為の、たったひとつの翼に……。
『――』
「……ありがとう」
チェーンソーを振り下ろしたはずのVOIDの腕は、すんでのところで制止した。
本来は振り下ろされるはずだった無数の回転刃。
その行く先を阻んだのは、ひとつの黒い片翼だった。
「君が託してくれた未来……私が!」
『――!?』
凄まじい力でチェーンソーを押しのける翼。
その威力は爆風となってVOIDを吹き飛ばす。
『ちょ……あの力!』
『……上手くいった、かな』
『アンタ……メイを悍ましくて邪悪な……『悪魔』にするつもり!?』
「いいの、カノプス……これは私が選んだ未来だから!」
『な、私達の言葉まで聞こえるようになってるし……!』
以前まで機械音にしか聞こえなかったポラリスやカノプスの言葉は、メイには確かに理解できるようになっていた。
起き上がったVOIDが再びチェーンソーを唸らせ、迫ってくる。
メイの黒い片翼が彼女の右腕を包み込むように変化すると、それは漆黒の……『エレキギター』を形作った。
「これが私の思い描いた、未来のカタチ!」
いつも彼女が握っていた、慣れ親しんだギター。
本来は絶対そんな事はしないと誓っていたが、それは彼女の思い描いた未来を体現したモノとして現れた、彼女の心の武器。
強烈な音色を奏でながら振るわれたそのギターが、VOIDのチェーンソーを弾き飛ばし、脳天に炸裂する。
『!?!?!?』
『な、なんて滅茶苦茶な!?』
『でもメイらしいや』
『そんなこと言ってる場合じゃ……あの子、アンタの肉体よりこの力の本質を思い出して、使いこなしてるわよ!?』
頭を物理的に殴りつけられたVOIDはぐらりと体をゆらめかせ、後退る。
それに追撃を喰らわせるように、メイはギターをぐっと振りかぶった。
「私の魂の音色で……ハジケろ!」
『――っ!!!!』
ギリギリと漆黒の雷鳴を纏ったギターが疾走し、VOIDの頭部に横殴りで炸裂。
爆発にも似た衝撃を受けた哀れなVOIDの頭部はねじ切れ、白い血液を撒き散らしながら吹き飛んだ。
『すっご……』
「……これが、私の力……これで、私も戦える……」
振り抜かれたギターは再び形を失うと、黒い液体となって彼女の体へと戻っていった。
今しがた扱った力の馴染みを感じたメイは、手を広げたり閉じたりしながら見つめる。
『……メイ、あなた戻れなくなるわよ』
「ふふ、私の事殺そうとしたのに心配してくれるんだね、カノプス」
『なっ……いや、心配とかじゃなくて……』
『何照れてんだよ』
『うっ、うるさいわよ!』
「ふふふ」
ポラリスの頬を引っ張るカノプス、そんな二人を眺め、メイは微笑んだ。
再び通気口を塞いでいる鉄格子に向き直ると、腕を構える。
「つまり……こういうことね」
先ほどまでVOIDが振るっていたチェーンソーを頭の中で思い描く。
すると彼女の右腕から黒血が剥離し、形を作り、頭の中で描いたそれと全く同じ回転刃を持つチェーンソーを現した。
『……いきなり目覚めたのに、随分と使いこなすのね』
『二週間前には彼女の胸に、僕の血が注がれていた。この期間の間で、体に馴染むのは十分だったんだろう』
『にしても、あまりにも命知らず過ぎるわ……これは、本当に『悪魔』に……いや、私達と同じ『邪悪な存在』になってもおかしくないわ』
『それは人間が勝手に呼びつけた称号だよ。大丈夫さ、メイなら』
「道は拓けたよ。カノプス、案内をお願い!」
『全く……話が通じるようになったと思ったら人使いまで荒くなったの?もう!』
ダクトの中へと三人が入り込む。
友人が待つ場所へと、長く狭い道のりを、彼女達は身を捩らせながら進んでいった。
「メイ……その腕は……!?」
「説明すると長くなるけど……でも、大丈夫」
チェーンソーの刃を唸らせたメイがセイラを拘束していた鎖を破壊し、彼女を開放する。
二週間ぶりに開放され、大容量の血を抜かれた彼女は、その場にへたり込んでしまう。
「ごめん……僕なんかの為に……危険な目に合わせて……僕は友達失格だ」
「……そんなことないよ。私の、大切な親友だから」
上手く身動きが取れないセイラに、メイが持ってきたカバンを開き、衣服を着せる手伝いをする。
「でも……僕がこんな事に巻き込まなければ……」
「もう……私は、大丈夫だよ。困った時は助け合うって……約束したよね」
「この帽子は……」
セイラの頭にポンと被せられた黒いキャスケット。
それはかつてメイが大事に、大切な時にのみ被っていた帽子だった。
「これが私の契約の証。あなたの契約の証は、私の中に宿るあなたの血だから……その代わり」
「でもこれ大事なモノじゃ……」
「あなたの方が似合ってるよ……セイラ。だから、私の代わりに大事にしてね?」
「……ありがとう」
セイラは静かにほほ笑み、その帽子を指で撫でた。
ほのかに香るメイの匂いが、安心感を促す。
「それじゃ……行こうか、レンゲ達を止めに」
「うん……あの子も、大切な友達だから。私達に出来る事をしないと」
「そうだ……その前に」
メイに支えられ、よろよろと立ち上がったセイラ。
何とか歩いて自分の血液が貯蔵されたタンクの前まで行くと、拳を固め、それを殴り割った。
溢れ出した大量の黒血がセイラの体へと吸収されてゆき、体中に刻まれた無数の痣や傷を修復していく。
「……奪われた分は取り返すよ、レンゲ」
「カノプス、最下層まで案内してくれたら嬉しいな」
『ほんとアンタ達……命知らずね』
「メイ……誰と話してるんだ?」
ひとりキョトンとしているセイラにカノプスがため息を吐き、二人を導き始めた。
そんな彼女に、二人はついて行く。
自らの運命を変える為に。
始まった五月から、抜け出す為に。




