第6話〜暗殺たちのたちの、ワルツ(円舞曲)
硝子の仮面と死線
光と影は、常に背中合わせに存在する。
帝国の最高権力者、ディートリヒ公爵。その絶対的な支配が敷かれた邸宅は、絢爛豪華な外観とは裏腹に、権謀術数と血の匂いが渦巻く伏魔殿であった。
冷酷無比な暗殺者としての過去を捨て、「アルト」という無能で臆病な使用人の仮面を被った少年、ハンス。彼はただ生き延びるため、そして公爵の喉笛を掻き切る好機を伺うため、自らの牙を隠し、泥に塗れる道を選んだ。
だが、完璧に仕組まれたはずの「無能の演劇」は、一人の少女の鋭利な視線によって早くも綻びを見せ始める。公爵令嬢エレナ。氷の瞳を持つ彼女の疑惑は、ハンスが築き上げた偽りの平穏を容赦なくひび割れさせていく。
これは、欺瞞と疑惑の狭間で、命を賭した綱渡りに挑む暗殺者の、潜伏と反逆の記録である。
翌朝のディートリヒ公爵邸は、昨夜の嵐が嘘のように、どこか白々しい静寂に包まれていた。
「す、すみません! すぐに片付けます!」
ガシャーン、と派手な音を立てて、銀製のティー relocation トレイが床に転がる。
ぶちまけられた紅茶の海の中で、ハンス――いや、「アルト」は情けなく這いつくばり、何度も頭を下げていた。
「またお前か、アルト。本当に使えないな」
給仕長の冷ややかな視線が突き刺さる。周囲の使用人たちからも、侮蔑を孕んだ失笑が漏れた。
(そうだ。もっと私を侮れ。無能だと、価値のない羽虫だと見下せ)
平伏したまま、ハンスは心の中で冷酷に微笑んでいた。
昨夜、ディートリヒに突きつけられた刃。あの窮地を切り抜けたハンスが選んだ次の一手は、「徹底的な無能の演出」だった。一度向けられた公爵の疑念を完全に払拭するには、アルトという少年が「暗殺者のハンスとは程遠い、ただの臆病で不器用な器」だと周囲に刷り込むのが最も確実だからだ。
その狙いは正確に機能していた。
執務室の机に座るディートリヒは、書類から目を離すことなく、一瞥しただけで興味を失ったようにため息をついた。
「片付けが済み次第、下がれ」
「は、はい……っ! 申し訳ありません、閣下……!」
涙目で部屋を飛び出したアルトの背中を、ディートリヒの鋭い視線が追うことはもうなかった。
――公爵領の警戒網に、わずかな綻びができる。
その日の午後、ハンスは仕入れの荷運びを手伝う名目で、邸宅の裏口へと向かった。
向かった先は、公爵邸に食材を納入している老商人の馬車だ。人目が切れた一瞬、ハンスは商人の懐に、一本の暗号が刻まれた巻物を滑り込ませる。
その商人は、かつてハンスが暗殺者だった時代に、裏の仕事の仲介役として使っていた男だった。
「……生きていたのか」
商人が、声を出さずに唇だけで呟く。ハンスはアルトの怯えた表情を崩さぬまま、目配せだけで応えた。
巻物には、近日開催される「建国記念夜会」の警備配置図と、ディートリヒの動線を探るよう記してある。ディートリヒを失脚させるか、あるいはその喉笛を掻き切るための、決定的な舞台装置を仕込むための布石だ。
(ディートリヒ、貴様が油断したその瞬間に、すべてを刈り取ってやる)
暗闇での連携を終え、ハンスが安堵と共に屋敷の廊下へ戻った、その時だった。
「――アルト」
背後からかけられた鋭い声に、ハンスの心臓が跳ねる。
振り返ると、そこには美しいが、氷のように冷たい瞳をした公爵令嬢エレナが立っていた。彼女はハンスを値踏みするようにじっと見つめている。
「お前……さっき、商人の男と何を話していたの?」
エレナの目は、ディートリヒのそれとは違う、執拗なまでの違和感を捉えていた。使用人たちの嘲笑を浴びながらも完璧に隠せていたはずの「ハンスの気配」が、わずかに漏れていたのだろうか。
せっかく騙し通した公爵の目の裏で、今度は令嬢の疑念という、新たなヒビが「硝子の仮面」に入ろうとしていた。
第6話をお読みいただき、ありがとうございました!
公爵をどうにか騙し通したと思いきや、今度は令嬢エレナの鋭い視線に捕まってしまったハンス。完璧なはずの「硝子の仮面」にさっそく入ってしまったヒビを、彼はアルトとしてどう誤魔化すのか……。暗殺者と令嬢のヒリヒリするような化かし合いを、ぜひ次回もお楽しみに!
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