第5話〜崖っぷちの賛歌
光が強ければ強いほど、その影は深く、昏い。
ディートリヒ公爵領の繁栄を陰で支え続けた一人の暗殺者、ハンス。彼は主君の冷徹な裏切りに遭い、死の淵へと突き落とされた。しかし、運命は彼を死なせなかった。
ハンスは己の過去を捨て、怯懦な少年「アルト」という偽りの硝子の仮面を被る。すべては、かつての主君の首を報いの刃で刈り取るため。
これは、亡霊となった男が仕掛ける、一歩も退けない復讐のキャロル
「お前は一体、誰だ?」
突きつけられた言葉は、鋭利な刃となってハンスの喉元に突き刺さっていた。
ディートリヒ公爵の冷徹な眼光。それはかつて、自分が影として仕え、そして裏切られた男の、一切の妥協を許さない統治者の目そのものだった。
(……見くびっていたな。これほど早く、私の本質に肉薄してくるとは)
ハンスの脳裏を焦燥が駆け巡る。だが、肉体は皮肉にも、かつて死線を幾度もくぐり抜けた暗殺者の冷静さを取り戻しつつあった。ここで動揺を見せれば、即座にあの儀礼剣がアルトの細い首を刎ねるだろう。
ハンスはゆっくりと顔を上げた。その表情から「ハンス」の鋭さを完全に消し去り、怯えと当惑に満ちた「アルト」の仮面を完璧に貼り付け直す。
「か、閣下……? 何を仰っているのですか……。私は、アルトです……!」
ハンスはわざとらしく声を震わせ、数歩後退りして壁に背を預けた。そして、恐怖に震える手をディートリヒに向かって差し出す。その右手は――今度は握りしめられることなく、弱々しく開かれていた。
「右側の件は、その……昼間、エレナ様に叱責された際、私の不手際で閣下の左側に立つのが恐ろしくなってしまい……。無意識に、逆側に逃げようとしてしまったのです。足跡の件も、本当にただの、私の不注意で……!」
涙ぐむような視線で主人を見つめる。ディートリヒの視線が、アルトの怯える指先から、その瞳の奥へと注がれる。張り詰めた沈黙が部屋を支配し、雨音だけが激しく窓を叩いていた。
やがて、ディートリヒはゆっくりと剣の柄から手を離した。
「……そうか。私の思い過ごしなら、それでいい」
公爵は踵を返し、扉へと向かう。だが、部屋を出る直前、振り返らずにこう言い放った。
「だがアルト。死んだハンスの影を追うのは私だけで十分だ。お前がその影を纏う必要はない」
パタン、と静かに扉が閉まる。
その瞬間、ハンスは壁を背に崩れ落ちた。アルトの身体は冷や汗でびしょ濡れだった。
(危ういところだった……。ディートリヒ、貴様は未だに私の亡霊に囚われているというわけか)
ハンスは、まだ恐怖で震えているアルトの右手をじっと見つめ、今度は狂気に満ちた笑みを浮かべながら、それを強く、強く握りしめた。
「硝子の仮面」は割れずに済んだ。だが、復讐の舞台はすでに、一歩の踏み外しすら許されない崖っぷちへと進んでいた。
章「硝子の仮面」を終えて】
本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。
本章は、復讐のために「アルト」という偽りの仮面を被ったハンスと、かつて彼を従え、そして裏切られたディートリヒ公爵による、緊迫した心理戦の幕開けを描くエピソードとなりました。
ハンスの暗殺者としての卓越した機転により、ひとまずは窮地を脱したものの、ディートリヒの鋭い洞察力はハンスの過去の「亡霊」を容赦なく揺さぶり、張り詰めた糸のような緊張感が漂う一幕に仕上がったと感じております。騙し騙される二人の関係性が、今後の復讐劇にどのような影を落としていくのか、執筆しながら私自身も胸を躍らせています。
一歩の踏み外しすら許されない崖っぷちの舞台で、ハンスの復讐の刃はどこへ向かうのか。次章からは、さらに加速していく二人の危うい駆け引きと、周囲を巻き込む新たな展開をお届けする予定です。
仮面の下に潜む狂気と執念の物語を、これからも共に見届けていただければ幸いです。次章もどうぞお楽しみに!




