第3話〜ハンスの努力
に煙る墓地、あるいは祭壇の前。かつてない危機の幕開けを描く、緊迫のプロローグ。
【前書き】
肉体を入れ替え、宿敵ディートリヒへの復讐を誓ったハンス。しかし、死んだはずの「ハンスの癖」が、彼の最愛の婚約者エレナの疑念を呼び起こしてしまう。絶体絶命の窮地の中、ハンスは「アルト」としての仮面を完璧に演じきることができるのか。冷たい雨が降りしきる中、己の魂をも欺く騙し合いが今、始まる。
激しい雨が、傘を叩く音だけを周囲に響かせている。
ハンスの背中に、冷たい汗が伝った。肉体を入れ替えてなお、魂に刻まれた「生前の癖」が己を裏切るとは。ディートリヒという巨大な敵を前にして、最も身近な存在であるエレナが最大の障壁として立ち塞がったのだ。
ここで動揺すれば、すべてが瓦解する。ハンスはアルトの端正な顔に、わずかな苦笑と、深い哀愁を帯びた表情を浮かべた。
「……さすがは僕の婚約者だ。何でもお見通しだね、エレナ」
ハンスは一歩、彼女に歩み寄り、声を一段と低く潜めた。
「右手の拳を握らなかったのは……緊張すら忘れるほど、彼を失った怒りと絶滅感が勝っていたからだ。ディートリヒ閣下の前で取り乱すわけにはいかないと、必死に自分を律していた。……それから、この歩き方かい?」
ハンスはあえて、右足に少し体重をかけるようにして、自嘲気味に微笑んだ。
「さっき、祭壇へ向かう途中で、ぬかるみに足を取られてね。不格好に捻ってしまったんだ。ハンスが死んだというのに、自分の足元すらおぼつかない。本当に、情けない男だよ、僕は」
その瞳には、エレナがよく知る「繊細で優しいアルト」の光が完全に宿っていた。ハンスとしての冷徹な復讐心を、アルトという仮面の下に完全に覆い隠したのだ。
エレナは張り詰めた瞳のまま、じっと彼の顔を見つめ続ける。雨のカーテンが、二人の間の沈黙を重く引き延ばした。
やがて、彼女は小さく息を吐き、視線を落とした。
「……ごめんなさい。私、ハンスが急にいなくなって、どうかしていたみたい。あなたを疑うなんて」
「いいんだ。君も混乱しているのだろう」
ハンスはそっと彼女の肩に手を置いた。その手は温かく、しかし内心は冷徹に、次の手を計算していた。
(危ないところだった。この肉体に、一刻も早く『アルト』を完璧に馴染ませねば、次はない)
復讐の舞台は、まだ幕を開けたばかりだった
作をお読みいただき、ありがとうございます。
肉体を入れ替え、かつての親友(あるいは宿敵)になりすましながら復讐を果たす男・ハンス。最も身近な婚約者エレナの鋭い洞察力を、執念と演技力で欺く緊迫した一幕を描きました。
「生前の癖」という肉体と魂のズレがもたらすサスペンス、そしてディートリヒへの復讐劇が今後どのように展開していくのか。仮面を被り続けるハンスの綱渡りの運命を、ぜひ最後まで見守っていただければ幸いです。




