時計塔の下で、去年の自分が待っていた
その日の授業も、やはりまともには頭に入らなかった。
朝の図書準備室で見たものが、ずっと脳の裏に張りついている。
白い行。
白凪ましろ。
名前のない側。
そして、去年の自分が栞に何かを託していたらしいという事実。
教室の中では、担任が新年度の学級目標だの委員決めだのを話している。
前の席のやつは、配られたプリントの端に何か落書きをしている。
窓の外では、昼の光が校庭を明るく照らしていた。
全部、普通だ。
普通すぎて、逆に気持ちが悪い。
『集中力が散漫です』
胸元から聞こえる小さな声に、陸は教科書に視線を落としたまま口だけ動かす。
「お前な、授業中だぞ」
『ですので、簡潔に伝えています』
「黙ってるのが一番簡潔なんだよ」
ましろは、朝より少しだけ安定していた。
白凪ましろ、というフルネームがはっきりしたせいなのか、光の輪郭が曖昧な霧ではなくなってきている。
相変わらず小さく、頼りない。
だが、“ただの光”ではもうない。
昼休み、陸は人の少ない非常階段へ移動し、鞄から名簿と紙片を取り出した。
**返すな 朝霧**
何度見ても、自分の字に見える。
去年の自分が何かを知っていて、それを今の自分は忘れている。
そのねじれた構図が、じわじわと気持ち悪さを増していた。
『紙片の“返すな”は、名前に関する可能性が高いと思われます』
「名前を返す、って言い方自体が意味わかんねえよ」
『ですが、昨夜のノートにも“名前を渡さないで”という表現がありました』
「……つながってる、か」
陸は紙片を見つめたまま呟く。
そこへ、階段の下から足音がした。
「朝霧くん」
顔を上げると、栞がいた。
昼の明るさの中で見ると、朝より少しだけ普通の女子高生に見える。
それでも、朝一番に図書準備室で名簿の白い行を見つめていたという事実が、その普通さに薄い膜をかけているようだった。
「何してるの」
「考え事」
「そう見えた」
栞は一段上がって、陸の手元の紙片を見る。
視線がすぐに内容を捉えたらしく、少しだけ眉を寄せた。
「やっぱり、それ君の字だと思う」
「そう見えるよな」
「うん。雑な時の」
「雑な時限定かよ」
「丁寧な時は、もう少しだけ人に見せる字してる」
淡々と言われて、陸は一瞬だけ変な気分になる。
そこまで自分の字を観察される関係ではなかったはずなのに、去年のどこかで確かに接点があったのだと、変なところで実感する。
栞は段差に腰を下ろした。
「放課後、鐘が鳴る前に行った方がいいと思う」
「時計塔か」
「うん。旧校舎の五時二十分みたいに、時間絡みの条件があるかもしれない」
陸も頷く。
その可能性は、自分でも考えていた。
「四時台には動きたいな」
「なら図書室閉めたらすぐ行ける」
「お前、ほんとに来る気なんだな」
「行くって言ったでしょ」
即答だった。
その温度が、少しだけありがたい。
押しつけがましいわけでもなく、ただ当然みたいにそこにある感じが、今の陸にはちょうどよかった。
『共同探索者の存在は効率的です』
「お前、ちょっと気に入ってるだろ」
『合理性を評価しているだけです』
栞には律の声は聞こえていないらしく、ただ陸の独り言を聞き流すように小さく息をついた。
「……でも、朝のあれは本当に見間違いじゃなかった」
「名前のない側、ってやつか」
「うん」
栞は手すりの向こうの空を見たまま言う。
「昔、図書室でたまに変な感じがすることはあったけど、あんなにはっきり見えたのは初めて」
「白い紙みたいで、人の顔みたいで、でも人じゃない感じ」
「見えてたのか」
「見えてた」
その答えは重かった。
少なくとも、自分だけが巻き込まれている錯覚ではない。
陸は名簿と紙片を鞄へ戻した。
「放課後、時計塔前な」
「うん」
栞も立ち上がる。
そのまま何か言いかけて、少しだけ迷った。
「……朝霧くん」
「何だ」
「去年の君が本当に何か知ってたなら、たぶん時計塔にも理由があると思う」
「だから、もし何か思い出しかけても、無理に全部一気に掴まない方がいいかも」
「思い出しかける前提なんだな」
「前提、というより」
「そうなりそうな顔してるから」
そう言って、栞は階段を下りていった。
その後ろ姿を見送りながら、陸は小さく息を吐く。
「……顔に出てんのかよ」
『出ています』
「お前は黙れ」
*
放課後、時計塔の前には風があった。
校庭の端、旧校舎と新校舎のちょうど中間あたりに、小さな煉瓦造りの塔がある。
今は時計としての機能はほとんど使われていない。
針は止まっていないらしいが、時刻はよくずれるし、誰もそれを直そうとしない。
ただ、学校の景色の一部として、ずっとそこにある。
陸が着いた時、栞はすでに待っていた。
鞄を肩にかけたまま、塔の下の石畳を見上げている。
「早いな」
「図書室閉めてきたから」
「鍵、大丈夫なのか」
「今日はもう使わないから平気」
栞がそう言ったところで、ましろが胸元からふわりと浮かび上がる。
時計塔が見えた瞬間から、光がわずかに落ち着かなくなっていた。
『反応上昇』
「わかりやすいな」
陸は塔の下へ近づく。
近くで見ると、時計塔は思っていたより古びていた。
煉瓦の継ぎ目に苔が入り、足元の石畳には細かなひびが走っている。
塔の基部には、小さな鉄扉のようなものが埋め込まれていた。
普段は用具庫か何かだと思っていたが、よく見ると鍵穴が潰れたままになっている。
「……下って、これか?」
『候補として有力です』
ましろが、鉄扉の少し前で止まる。
そして、そのすぐ右側の石畳の一点を見つめるように留まった。
栞がしゃがみ込む。
「ここ、色が違う」
言われて見ると、確かに石の一枚だけ、周囲より少しだけ新しい。
完全に新しいわけではない。
だが古さの質が違う。
陸もしゃがみ込み、指先で縁をなぞった。
「動くか?」
「持ち上げる形かも」
「素手で?」
「無理なら何か借りるけど」
言いながら栞は、時計塔の足元に落ちていた古い金具片を拾い上げた。
ちょうど細い隙間に差し込めそうな形をしている。
「器用だな」
「図書室、そういうの多いから」
「どういう理屈だよ」
栞は返事の代わりに、石畳の継ぎ目へ金具を差し込んだ。
少し力をかける。
動かない。
陸も反対側へ手を添える。
「せーのでやるぞ」
「うん」
二人で同時に力を入れる。
ぎ、と鈍い音がした。
「動いた」
「もう一回」
今度ははっきりと、石板が持ち上がった。
重い。
だが持ち上がらないほどではない。
その下には、小さな空洞があった。
箱ではない。
布でもない。
埋められていたのは、古いカセットレコーダーだった。
「……は?」
陸は思わず素の声を出す。
細長い携帯用の古い録音機だ。
プラスチックの表面は擦れて白くなり、再生ボタンの周りには土が入り込んでいる。
けれど、壊れて粉々になっているわけではない。
その横に、一本のカセットテープが差し込まれたままになっていた。
『アナログ音声記録媒体です』
「見ればわかる」
「これ、まだ動くのかな」
栞が慎重に言う。
陸はカセットレコーダーを持ち上げた。
土はついているが、思ったよりしっかりしている。
ましろがその上に寄る。
淡いピンクの光が、テープの窓のところでゆっくり揺れた。
「……再生しろってことか」
『可能性は高いです』
「電池は?」
レコーダーの裏蓋を開ける。
単三電池が二本入っていた。
さすがに液漏れしているかと思ったが、少し錆びている程度で、完全には死んでいないように見える。
陸は半信半疑で電源スイッチを入れた。
沈黙。
「駄目か」
そう思った次の瞬間、じ、とかすかな通電音がした。
「……入った」
栞も息を呑む。
『最低限の動作は維持されているようです』
「こういう時だけ都合いいな」
陸は再生ボタンに親指をかけた。
一度だけ、ましろを見る。
光は逃げない。
「いくぞ」
押す。
がしゃ、と古い機械音。
少しのノイズ。
それから――声が流れた。
『……これを聞いてるなら、たぶんもうかなり面倒なことになってる』
陸の全身が固まった。
自分の声だった。
今より少しだけ低く、少しだけ掠れている。
けれど間違えようがない。
「……っ」
栞も目を見開く。
テープの中の“陸”は、少しだけ息を整えてから続けた。
『まず確認する。そこにましろはいるか』
『いるなら、少なくとも第二段階までは間に合ってる』
ましろが、レコーダーの上で強く明滅する。
反応している。
テープの中の声は、少し早口になった。
『時計塔の下に残したのは、声の核だ』
『名前と記憶だけじゃ足りない。声がないと、ましろは“白凪ましろ”として固定できない』
「固定……」
陸の口から無意識に漏れる。
『ここまで来たなら、多分お前はもう何も覚えてない』
『それでいい。いや、よくはないけど、そうするしかなかった』
栞が、そっと陸を見る。
陸はレコーダーから目を離せなかった。
『これから言うことを、ちゃんと聞け』
『名前のない側に、ましろの声を返すな』
紙片と、ノートの文が頭の中で一気につながる。
返すな。
名前を渡すな。
返事をするな。
全部、ここへ繋がっていた。
『あれは空いた場所に入る』
『忘れたところに入る』
『返事をしたら、“知ってる”ことになる』
レコーダー越しの自分の声は、やけに切迫していた。
『だから、たとえどんな声で呼ばれても、先に名乗るな』
『お前の方から、何者かを確定させるな』
『それが一番危ない』
「……」
陸は息を詰める。
昨日の窓の外の声。
旧校舎で自分を呼んだ女の子の声。
あれに返事をしていたら、何が起きていたのか。
想像したくもない。
テープの向こうの自分は、一拍だけ黙った。
その沈黙に、妙な重さがある。
それから、少しだけ低く言った。
『次で最後だ』
『たぶんここが一番大事』
ノイズが混じる。
遠くで風みたいな音がした。
『俺は一回、ましろを返しかけた』
陸の指がぴくりと動く。
『でも、その時止めたのは――』
そこで、音が途切れた。
「は?」
陸はレコーダーを見下ろす。
テープは回っている。
なのに声だけが消えている。
ざざ、と嫌なノイズが走る。
『……止めたのは、お前じゃない』
女の声だった。
昨日、窓の外から聞こえたのと同じ声。
柔らかくて、懐かしくて、ぞっとする声。
栞が息を呑む。
「っ、切って!」
陸は反射的に停止ボタンを叩いた。
がしゃ、と機械音がして、再生が止まる。
世界が静かになる。
けれど、静かになったあとの方が怖かった。
「……何だよ、今の」
『途中から記録に別の音声が割り込んだ可能性があります』
「可能性じゃなくてそうだろ!」
陸はレコーダーを持つ手に力を込める。
古いプラスチックが軋んだ。
栞が低い声で言う。
「最後、何て言いかけたんだろう」
「止めたのは――」
そこまで口にして、陸は言葉を切る。
ましろが、今までにないほど不安定に揺れていた。
否定しているのか、怯えているのか、感情が読めない。
ただ確かなのは、今の声をひどく嫌がっているということだけだった。
『ここでの長居は推奨しません』
「……ああ」
陸はレコーダーと石板の下の空洞を見下ろす。
時計塔の下にあったのは、“声の核”。
それはきっと重要だ。
だから持ち帰るべきだろう。
だが同時に、さっきの割り込みが気持ち悪すぎる。
「持ってくか」
栞が聞く。
「持ってく」
「ここに置いとく方が嫌だ」
「同感」
陸はレコーダーを鞄へ入れた。
石板を元に戻し、土と埃で手を汚したまま立ち上がる。
風が少し強くなる。
時計塔の上の針は、いつの時刻を示しているのかよくわからない。
「去年の俺、何しようとしてたんだろうな」
ぽつりと漏れた言葉に、栞は少しだけ考えるような顔をした。
「白凪ましろを、白凪ましろのまま残そうとしてたんじゃない」
「そのために、俺は自分の記憶消したのか」
「かもしれない」
かもしれない、という言葉に、今は救いも逃げ道もない。
自分でやったことなのに、自分だけが知らない。
その構図が、やはり気味悪い。
その時、ましろがふらりと陸の肩の高さまで上がった。
そして、校舎の方ではなく、正門と反対側の古い敷地の端――使われなくなった倉庫棟の方を向く。
「……まだあるのか」
『反応先の追加を確認しました』
「三つじゃ終わりじゃないのかよ」
『少なくとも、ましろは別の場所を示しています』
栞もその方向を見る。
夕方の光の中で、古い倉庫棟はほとんど影になっていた。
「ノートには、第二準備室と図書準備室と時計塔しか書いてなかったよね」
「ああ」
「じゃあ、これは予定になかった何かかも」
その言い方は、あまり良くない予感しかしない。
陸は鞄の中のレコーダーの重みを感じながら、小さく息を吐いた。
「今日はもう追わない」
『妥当です』
「賛成」
栞もすぐに頷いた。
けれど、誰も本当に安心してはいない。
それは三人とも同じだった。
白凪ましろには、名前があり、声があり、たぶんまだ足りないものがある。
去年の自分はそれを知っていて、途中まで進めて、今の自分に残した。
そして、“名前のない側”は、それを邪魔してくる。
時計塔の影が長く伸びる。
陸はその先の倉庫棟を見つめたまま、低く言った。
「……次は、あそこだな」
ましろの光が、かすかに揺れた。
肯定とも、警告ともつかない、不安定な明滅だった。




