図書委員の彼女は、白い行の名前を知っていた
見えている。
その事実だけで、部屋の空気が一気に変わった。
陸は机の端に手をついたまま、目の前の女子生徒を見つめる。
制服の襟元についた校章。
鍵束を持つ指先。
落ち着いた目。
彼女は、ましろのいる場所を見ていた。
白く塗りつぶされた一行でもなく、机の上のファイルでもなく、その少し上――淡いピンクの光が揺れている位置を、確かに見ていた。
「……見えてるのか」
絞り出すように言うと、女子生徒はごく小さくうなずいた。
「うん」
それだけの返事なのに、妙にあっさりしていた。
大げさに驚くでも、取り乱すでもない。
まるで、“見えていること”自体は特別じゃないみたいに。
陸は思わず眉をひそめる。
「いや、そこもっと驚くところじゃないのか普通」
「普通ならね」
彼女はそう言って、机の向こう側に立った。
視線はまだ、ましろへ向いている。
「でも、普通の話じゃないのは、もうわかってるでしょ」
返せない。
確かにその通りだった。
『会話継続を推奨します』
「お前は静かにしてろ」
小声で返すと、女子生徒が少しだけ首を傾げた。
「……今の、誰に言ったの」
「いや」
誤魔化しかけて、やめる。
ここまで来て取り繕っても、たぶん意味がない。
陸は小さく息を吐いた。
「律ってやつがいる」
「律?」
「スマホの中にいる」
女子生徒は一拍だけ沈黙した。
それから、予想以上にあっさりと「そう」と言った。
「じゃあ、ひとりじゃなかったんだ」
「そこ、引っかからないのか」
「今はそこより先でしょ」
淡々と返されて、陸は一瞬だけ言葉を失う。
変なやつだ、と思った。
だが、嫌な感じはしない。
少なくとも、今朝まで出会ってきた“普通の人”とは違う方向に、温度が合う気がした。
彼女は机の上の開かれたファイルを見下ろす。
「それ、去年の図書委員名簿だよね」
「ああ」
「その白い行、見えるのは久しぶり」
陸は目を細める。
「……久しぶり、ってことは、お前も前から見えてたのか」
彼女は今度は少しだけ迷ったようだった。
だが、すぐに口を開く。
「完全には見えてない」
「でも、時々だけ、変になるのはわかってた」
「変になる」
「紙なのに白すぎるとか、最初からそこだけ空白みたいに見えるとか。そういうの」
彼女の指先が、名簿の白い一行の少し手前で止まる。
触れはしない。
「でも、名前までは読めたことなかった」
「今は読めるのか」
「うっすらだけ。……“ましろ”って」
そこで、ましろが小さく震えた。
呼ばれたと認識したのだろう。
光がわずかに強くなる。
女子生徒は、その反応を見てほんの少しだけ目を見開いた。
「やっぱり」
彼女のその声には、ようやく驚きが混じっていた。
「本当に、戻ってきてる」
「戻ってきてるって何だよ」
問い返すと、彼女はしばらく黙った。
それから、机の横へ鍵束を置き、まっすぐ陸を見る。
「朝霧くん、去年の秋のこと、どこまで覚えてる?」
唐突な質問だった。
だが、その瞬間、胸の奥に妙な引っかかりが生まれる。
「去年の……秋?」
「うん。文化祭の準備が始まる少し前」
陸は無意識に視線を逸らした。
思い返そうとする。
だが、そこで気づく。
思った以上に曖昧だ。
夏休み明け。
クラス替えはなかった。
体育祭。
中間テスト。
そういう断片はある。
なのに、九月の終わりから十月のあたりだけ、妙に薄い。
「……いや、普通に学校来てたと思うけど」
「“思う”なんだ」
刺すような言い方ではなかった。
ただ、確認するような声だった。
陸は少しだけ苛立つ。
「何が言いたいんだよ」
「たぶん、そこ抜けてる」
彼女は机の上の紙片――“返すな 朝霧”と書かれたメモへ視線を落とした。
「それ、朝霧くんの字に見える」
「……やっぱそう思うか」
「うん。見たことあるから」
陸は顔を上げた。
「見たことある?」
「プリントの裏とか、図書室の利用カードの字とか。たぶん本人だと思う」
『筆跡同一率の補助照合も可能です』
「今やるな」
陸が低く言うと、女子生徒がわずかに眉を上げた。
「本当にいるんだ、その律って」
「だから言っただろ」
「……そう」
それきり、彼女はその件を追及しなかった。
代わりに、静かに言う。
「私、図書委員なんだ。今期も」
「それで、この準備室の鍵を朝に開けに来た」
「じゃあ、今までいなかったのは」
「図書室のカーテン開けてた」
なるほど、と思う。
だから明かりだけが先についていて、準備室は無人だったのだ。
彼女は続ける。
「一年の終わり頃、この名簿を整理してた時に、変なことがあった」
陸は黙って聞く。
「白い行が、時々増えるの」
「見返すたびに、そこだけ“何かあった”感じが強くなるのに、名前は読めない」
「でも先生に見せても、普通の修正跡にしか見えてないみたいで」
「……お前だけ見えてたのか」
「たぶん」
ましろが、彼女の方へ少しだけ寄った。
警戒していない。
それが陸には少し意外だった。
「君がその子を連れてるの見て、やっぱりそうなんだって思った」
「何が」
「白い行の子」
その呼び方に、陸は胸の奥がざわつくのを感じた。
白い行の子。
名前を消されて、空白だけが残った存在。
昨日までのましろは、“何かわからない光”だった。
でも今はもう、そうは呼べない。
陸は名簿を閉じずに、女子生徒へ視線を戻す。
「お前、名前は」
「あ、ごめん。まだ言ってなかった」
彼女は少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「三枝栞」
「二年A組」
「……隣かよ」
「そう。朝霧くんはB組でしょ」
「知ってるのか」
「図書当番表で名前見るから」
それで見覚えが薄かったのか、と陸は納得した。
同じ学年でも、教室が違えばそれだけで接点は減る。
まして図書委員でもなければなおさらだ。
栞は名簿の白い一行を見つめたまま言う。
「去年、この行のことを調べようとした人がいた」
陸の指先が止まる。
「誰だよ」
「朝霧くん」
即答だった。
「は?」
「少なくとも、私はそう見た」
「いや、だから覚えてねえって」
「うん。たぶん覚えてないんだと思う」
その言い方が、妙に確信めいていた。
栞は一度だけ、準備室の扉の方を確認する。
誰も来ないことを確かめてから、少しだけ声を落とした。
「十月の終わり頃、放課後の図書室で会ったの」
「朝霧くんが、この名簿見てた」
「今みたいに」
陸は何も言えない。
「その時、君はひとりじゃなかった」
「でも、誰と一緒にいたのかは、今思い出そうとするとぼやける」
陸の背中に冷たいものが走る。
「……ぼやける?」
「顔が思い出せない。声も」
「でも、“誰かがいた”って感覚だけは残ってる」
ましろが、白い行の上で微かに震えた。
まるで、その言葉に反応しているみたいに。
『記憶障害、認識阻害、あるいはその複合の可能性』
「便利すぎるだろその分類」
『現状に対しては妥当です』
栞は少しだけ視線を動かした。
ましろと律、両方の存在をまだ完全には把握していない顔だったが、少なくとも“見えているものが複数ある”ことには気づいていそうだった。
「その時、朝霧くん、私に言ったの」
「何を」
栞は一瞬だけ迷う。
それから、記憶をそのままなぞるように、静かに言った。
「“もし忘れてたら、図書準備室から始めろ”って」
陸は固まった。
準備室の蛍光灯が、じ、と小さな音を立てる。
朝の白い光はすでに少し強くなっていて、窓の外には登校してくる生徒たちの声も混じり始めていた。
それでもこの部屋だけ、時間が遅れているみたいだった。
「……俺が?」
「うん」
「それ、本当に俺だったのか」
「顔は朝霧くんだった」
「でも、今みたいな感じじゃなかった」
「どう違った」
「……もっと、切羽詰まってた」
その言葉は妙に生々しかった。
演出のない、ただの観察として。
陸は喉の奥が少し乾くのを感じる。
「で、その後は」
「次の日から、君はその話をしなくなった」
「図書室にも来なかった」
「私が声かけても、“何のこと?”って顔してた」
「……」
「だから、どこまで本当に忘れてるのかは、ずっとわからなかった」
机の上の紙片がやけに重く見える。
**返すな 朝霧**
去年の自分が書いたらしいそれ。
図書準備室から始めろ、と言ったらしい自分。
そして今、本当にそこへ戻ってきてしまった自分。
全部が勝手に繋がり始めている。
その時だった。
ましろが、今までになく強く光った。
「っ」
陸も栞も同時に顔を上げる。
白い一行の上に浮かんだましろの光が、名簿の紙面へじわりと沈み込むように近づいていく。
すると、修正テープの白が薄く透け、その下の文字がさっきよりもはっきりと浮かび上がった。
苗字の一文字目。
今まで読めなかったそこが、一瞬だけ明瞭になる。
**白凪 ましろ**
陸は息を呑んだ。
「白凪……」
その名前を口にした瞬間、準備室の奥、本の段ボールが積まれた棚の方で、ぱたん、と何かが落ちる音がした。
三人――いや、二人と一つの光が、同時にそちらを見る。
「何だ」
『気配が増えました』
「増えた?」
律のその一言に、陸の全身がこわばる。
栞もわずかに顔を強張らせていた。
「朝霧くん」
「わかってる」
棚の隙間。
暗がりの奥。
そこに、白い紙みたいなものが一枚、ひらひらと浮いていた。
最初はただの紙片かと思った。
けれど次の瞬間、それが人の顔の形に見えてしまう。
目も口もない。
ただ白く抜けた輪郭だけが、こちらを向いている。
ましろが、強く、鋭く光った。
それに呼応するみたいに、棚の奥の“白いもの”が、ぴたりと止まる。
『後退を推奨します』
「言われなくてもそうする!」
陸は反射的に名簿と紙片を掴み、机から下がった。
栞も鍵束を握り直し、一歩だけ後ろへ下がる。
白い顔みたいなものは、棚の暗がりからゆっくり浮かび上がってくる。
人間の歩き方ではない。
紙が風に持ち上がるみたいな、なのに意思だけはある動きだった。
「これ、何」
栞の声が初めて揺れた。
陸は答えられない。
代わりに律が、短く言う。
『“名前のない側”です』
「雑すぎるだろ!」
『今は退避が先です』
白いものが、こちらへ一歩ぶん近づく。
床に足音はない。
なのに距離だけが確実に詰まる。
その瞬間、ましろが陸と栞の前へ飛び出した。
小さなピンクの光が、白いものとの間に割って入る。
「ましろ!」
白とピンクがぶつかるわけではない。
けれど空気が震え、棚の上の紙がばさばさと音を立てた。
白いものが、わずかにたじろぐ。
『今です、出てください』
「行くぞ!」
陸が叫ぶと、栞は迷わず扉へ走った。
陸も続く。
扉を開け、廊下へ飛び出す。
その瞬間、後ろで蛍光灯が一斉にちらついた。
栞が外から扉を引き、陸がノブを押さえる。
中から何かが体当たりしてくるような感触はない。
けれど、扉一枚向こうに“いる”気配だけが、嫌というほどわかった。
数秒。
十秒。
やがて、中の気配がすっと薄れる。
陸はようやく手を離した。
「……何なんだよ、本当に」
『少なくとも、白凪ましろと対立する側の現象と考えられます』
「だから便利な日本語に逃げるなって」
「朝霧くん」
隣で、栞が少し息を乱しながら陸を見ていた。
「今の、私も見た」
「もう、“変なことがある”じゃ済まないよね」
「ああ……」
陸は腕の中のファイルを見下ろす。
名簿には、白凪ましろの名前。
去年の自分の字らしいメモ。
そして、図書準備室の奥にいた、名前のない白いもの。
ひとつだけ確かなのは、もう後戻りできないということだった。
その時、ましろがふらりと戻ってくる。
「っ」
陸は反射的に手を伸ばした。
ピンクの光は、その手の上へ頼るみたいに落ちてくる。
いつもよりずっと弱い。
輪郭が少し滲んでいる。
「おい、大丈夫か」
ましろは答えない。
ただ、小さく揺れた。
栞がその光を見つめ、静かに言う。
「……白凪ましろ」
フルネームで呼ばれた瞬間、ましろがほんの少しだけ明るくなる。
それを見て、栞は確信したみたいに息を吐いた。
「名前、これで合ってる」
「たぶん、な」
「じゃあ次は」
栞の視線が、陸の持つ名簿から、鞄の中のノートがある辺りへ移る。
「時計塔の下?」
その言葉に、陸はわずかに顔をしかめた。
「まだ図書準備室の件も整理できてない」
「でも、もう場所は絞られてるんでしょ」
「……まあ」
否定はできない。
栞は少しだけ迷ったあと、はっきりと言った。
「私も行く」
陸は思わず彼女を見る。
「は?」
「ここまで見ちゃったし」
「それに、去年の朝霧くんが私に話したなら、無関係じゃないと思うから」
筋は通っている。
だが、それでも陸はすぐには頷けなかった。
「危ないかもしれないぞ」
「今さらでしょ」
その返し方があまりにも自然で、陸は一瞬だけ言葉を失う。
栞は真面目な顔のまま続ける。
「それに、朝霧くん一人だと、たぶんまた無茶する」
「決めつけるなよ」
「さっきしたじゃん」
「……」
『的確です』
「お前まで乗るな」
栞はそのやりとりを聞いて、初めて少しだけ笑った。
ほんの小さな笑みだった。
「放課後、時計塔のところで」
「その前に、名簿とメモ、もう一回ちゃんと見たい」
陸はしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。
「……わかった」
「でも、無理だと思ったら引くぞ」
「うん」
栞は素直に頷いた。
廊下の窓から、朝の光が差し込んでいる。
そろそろ普通の生徒たちが、普通の顔をしてこの棟にも来るだろう。
なのに陸の手の上には、名前を取り戻しつつある光がいる。
その向こうでは、扉一枚隔てた部屋の奥に、名前のない白いものがいた。
世界の境目が、少しずつ剥がれている。
「……授業、出る気なくすな」
『欠席は推奨しません』
「わかってるよ」
陸は白凪ましろの光を胸元へ寄せ、ファイルを抱え直した。
放課後、時計塔の下へ行く。
そこで何が待っているのかはわからない。
けれど少なくとも、今朝よりは確かに前へ進んでいた。
ましろには、名前がある。
白凪ましろ。
その名前を口の中で確かめるたび、薄いピンクの光が、少しだけ強くなる気がした。




