図書準備室の名簿には、ひとつだけ白い行があった
翌朝、陸は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
というより、ほとんど眠れていなかった。
夜のあいだ、窓の外は静かだった。
少なくとも、あの声がもう一度聞こえることはなかった。
けれど一度知ってしまった以上、カーテンの向こうに何もいないと確信することもできない。
結局、陸はベッドの上で何度も寝返りを打ち、空が白み始める頃になってようやく起き上がった。
『睡眠時間は二時間三十六分前後と推定されます』
「……いちいち言うな」
『体調管理上の共有事項です』
「便利な言い方だな」
洗面所の鏡に映る自分の顔は、思った以上にひどかった。
目の下が薄く重い。
これで普通に授業を受けろと言われても、まあ無理だろうと思う。
それでも、学校へは行く。
図書準備室へも行く。
ノートに書かれていた“名簿の白”が何なのか、確かめないまま一日を過ごせる気がしなかった。
*
登校時間にはまだ少し早い。
校門をくぐる生徒の数も少なく、校舎の空気は朝特有の薄い静けさを保っていた。
陸は昇降口で靴を履き替えると、そのまま教室のある棟とは逆方向へ向かう。
図書室は、新校舎の北端にある。
その隣に、職員用の小さなスペースと繋がった図書準備室があるはずだった。
昨夜ノートを閉じたあと、学校の簡易見取り図を律に表示させて一応位置は確認している。
だが実際にこの時間に来るのは初めてだった。
『右手側の廊下です。突き当たりの手前』
「わかってる」
言いながらも、声は少しだけ小さい。
朝の校舎というのは、不思議と声が響く。
特にこういう、人の少ない時間帯はなおさらだ。
図書室の前まで来る。
まだ開いてはいないらしく、閲覧室側の扉には鍵がかかっていた。
だが、その横にある準備室の方は、扉の上の小窓に明かりがついている。
「……いるのか?」
『人の気配はひとつ。移動は少ないです』
「司書の先生か」
『可能性はあります』
ここで鉢合わせるのは面倒だ。
だが、引き返す気にはなれない。
陸は一度だけ呼吸を整え、準備室の扉を軽くノックした。
返事はない。
もう一度、今度は少し強めに叩く。
それでも返事はない。
「……聞こえてないのか」
『あるいは不在です』
「明かりついてるのに?」
『人類は時に消し忘れをします』
「お前、人類に雑だよな」
言いながらノブを回す。
開いた。
「は?」
『施錠されていませんね』
「最近それ多すぎるだろ……」
陸は警戒しながら扉を開けた。
図書準備室は思っていたより狭かった。
壁際に本の入った段ボールが積まれ、古い書架の一部や、ラベル貼りの器具、貸出カードの箱などが雑然と置かれている。
小さな机がひとつ。
その奥に、記録類らしいファイル棚。
明かりはついている。
けれど人はいない。
『不在です』
「先に言えよ……」
『確認が必要でしたので』
ましろが、陸の肩のあたりからすう、と前へ出た。
昨日までより輪郭がしっかりしている。
まだぼんやりとした光の塊なのに、迷いなく進む動きには意思があった。
ましろは、準備室の奥にあるファイル棚の前で止まった。
「そこか」
光が、小さく明滅する。
陸は棚の前にしゃがみ込んだ。
年度ごとにラベルの貼られた背表紙が並んでいる。
貸出記録、図書委員、蔵書整理、除籍一覧。
学校の図書室らしい事務的な単語が並ぶ中に、ひとつだけ古びたリングファイルがあった。
**図書委員・当番名簿(昨年度)**
「……名簿」
『一致率が高いです』
「見ればわかる」
ファイルを引き抜く。
表紙には薄く埃がついていたが、完全に放置されていたほどではない。
誰かが時々触っている、くらいの汚れ方だった。
机の上に置き、開く。
中には、学年ごと、月ごとに分かれた図書委員や当番の記録表が綴じられていた。
昨年度の一年、二年、三年。
クラス。
担当日。
名前。
陸はページをめくりながら、昨日ノートに浮かんだ一文を思い出す。
**名簿の“白”から見て**
白。
白いもの。
白のつく名前かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
「どれだ……」
『ましろの反応を指標にしてください』
「それが一番早いか」
ページをめくるたび、ましろの光がわずかに揺れる。
だが決定的な反応はない。
一年の前半。
後半。
二年のページへ入る。
そこで、ましろが急に強く明滅した。
「っ、ここか」
陸はページを押さえた。
それは昨年度の秋ごろの当番表だった。
二年B組、二年C組、二年D組……と並ぶ行の中に、ひとつだけ不自然な箇所がある。
名前の欄の一行だけが、白い修正テープで綺麗に塗りつぶされていた。
「……これか」
『“白”の解釈として、極めて妥当です』
「嫌な妥当さだな」
修正テープの上から、ボールペンで別の名前が書き直されているわけでもない。
ただ、そこだけが何もない白になっている。
他の行は、少し黄ばんだ紙に黒い文字。
なのにその一行だけ、まるで最初からそこに“空白”が埋め込まれていたみたいに白い。
陸は無意識に息を潜めた。
「これ、名前を消してるよな」
『通常の事務処理としては不自然です。修正後の記載がありません』
「つまり、消しただけ」
『そう見えます』
ましろが、白い一行の上へふわりと寄った。
光がゆっくり揺れる。
その瞬間だった。
白い修正テープの表面に、かすかに文字が浮いた。
「……え」
インクではない。
光でもない。
紙の下に眠っていた筆跡が、ましろの光に押し上げられるみたいに、一瞬だけ輪郭を取り戻す。
**――白 ましろ**
苗字の最初の一文字は読めなかった。
だが名前の後半は、確かに見えた。
「ましろ……」
呼ぶと、光が震える。
名前の欄の左には、クラスが書いてある。
昨年度、一年C組。
そして右端の備考欄。
そこに、細い字で何か書かれていた形跡がある。
だがそこも途中で擦られていて、全部は読めない。
陸はファイルを机へ引き寄せた。
「備考、何て書いてある」
『拡大補助を行います』
律の補助で、滲んだ文字の輪郭が少しだけ浮く。
**……失踪扱い**
そこだけが、辛うじて読めた。
陸の背中に冷たいものが走る。
「は?」
『記載はそのように見えます』
「学校の名簿にそんなこと書くか普通」
『普通ではありません』
その時、ファイルのページの端から、何かがひらりと落ちた。
小さな紙片だった。
陸は反射的に拾い上げる。
名簿の間に挟まっていたらしい。
付箋ではない。
古いメモ帳を破ったみたいな紙だ。
そして、その字を見た瞬間、陸は目を細めた。
「……これ」
『どうしました』
「見覚えある」
雑な字だった。
払いが強くて、妙に右上がりで、行がすぐ斜めになる。
昨日のノートの整った筆跡とは全然違う。
でもこれは――。
「俺の字、っぽい」
紙片には、短くこう書かれていた。
**返すな 朝霧**
たったそれだけ。
日付もない。
主語もない。
何を返すなと言っているのかもわからない。
それでも、“朝霧”の書き方に、陸はぞっとするくらい見覚えがあった。
ノートやプリントの端に、自分が雑に名前を書く時の癖に似ている。
『本人筆跡の可能性を否定できません』
「否定できない、で済むかよこれ……」
もし本当に自分の字だとしたら。
昨年度の名簿に挟まっていたこのメモを書いたのは、自分ということになる。
しかも、“返すな”と書いている。
何を。
誰に。
どうして。
ましろが、白く塗りつぶされた一行の上で、微かに明るくなる。
昨日までよりも、今はその光が少しだけ嬉しそうに見えてしまうのが、逆に怖かった。
「……俺、お前のこと知ってたのか」
問いかける。
ましろは答えない。
けれど、逃げない。
その沈黙が、何より答えに近かった。
その時だった。
準備室の入口の方で、小さく扉の音がした。
陸は弾かれたように振り向く。
そこに、ひとりの女子生徒が立っていた。
制服姿。
肩までの黒髪。
手には図書室の鍵束らしいものを持っている。
年は同じくらいに見えた。
けれど見覚えは薄い。
クラスが違うのか、それともただ接点がないだけか。
彼女は扉のところで立ち止まり、陸と、その机の上のファイルを交互に見た。
「……何してるの」
静かな声だった。
責めるほど強くはない。
でも、呆れてはいる。
陸は一瞬だけ言葉に詰まる。
「えっと……」
『不法侵入の説明として妥当な文面を組み立てるのは困難です』
「黙ってろ」
小声で返すと、女子生徒がわずかに眉を動かした。
聞こえたのかはわからない。
「それ、去年の当番名簿だよね」
「……ああ」
「何で見てるの」
ごまかせる空気ではない。
少なくとも、あからさまな嘘は逆効果だとすぐにわかる。
陸はファイルを閉じるでもなく、紙片を隠すでもなく、半端な姿勢のまま答えた。
「ちょっと、調べたいことがあって」
「朝から、図書準備室で?」
「まあ……」
女子生徒はしばらく黙っていた。
それから、机の方へゆっくり近づく。
陸は反射的にましろの方を見た。
光はまだそこにある。
消えていない。
なのに、女子生徒の視線は、まっすぐその白い一行の上で止まった。
「やっぱり」
小さく、そう言った。
陸の喉が鳴る。
「……何が」
彼女は白く塗りつぶされた一行を見つめたまま、静かに言った。
「朝霧くん、それ、見えるんだ」
陸は息を止めた。
見える。
今、彼女は確かにそう言った。
ただの名簿を見ているわけじゃない。
あの白い行の“おかしさ”ごと認識している言い方だった。
「お前……」
問いかけかけて、言葉が途切れる。
女子生徒はようやく顔を上げ、今度は陸をまっすぐ見た。
「なら、たぶん話が早い」
その声は落ち着いていた。
驚いているようで、驚いていない。
「その子、昨日から戻ってきてるでしょ」
目線が、今度は明確に、ましろのいる位置へ向く。
陸の心臓が一気に跳ねた。
見えている。
この女子生徒には、ましろが見えている。




