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夜のノートには、まだ起きていないことが書いてあった

 家に着いてからも、しばらく心拍数は下がらなかった。


 玄関で靴を脱ぎ、いつも通り「ただいま」と言った自分の声が、妙に場違いに聞こえる。

 リビングの方から母親の「おかえり」が返ってきて、夕飯までまだ少し時間があること、冷蔵庫にプリンが入っていること、今日は提出物を忘れるなということを、いつも通りの口調で告げられた。


 それが逆に、今の陸には現実離れして感じられた。


 ついさっきまで、旧校舎の窓の外から自分を呼ぶ声を聞いていた。

 なのに今は、冷蔵庫のプリンの話をされている。


 世界の繋がり方が、雑だ。


『整合性への不満ですか』


 階段を上がりながら、胸元の小さな声に陸は顔をしかめる。


「お前、家の中ではもうちょい静かにしろ」


『音量は最小限です』


「そういう意味じゃない」


 部屋に入ってドアを閉める。

 そこでようやく、少しだけ息を吐けた。


 ましろはすぐにベッドの上へふわりと移動した。

 今日はやけに落ち着かない光り方をしている。

 裏庭の透明片に触れたあとから、ましろの中で何かが変わったのは確かだった。


 陸は鞄を机の上へ置き、中から黒いノートを取り出した。


 机のライトを点ける。

 白い光が、薄暗い部屋の一角だけを切り取る。


『再読を推奨します』


「言われなくてもそのつもりだよ」


 ベッドの上のましろが、ノートの方へ少しだけ寄る。


 陸は椅子に座り、今日読んだところまでをもう一度開いた。

 自分の名前。

 ましろのこと。

 裏庭の箱。

 五時二十分の警告。


 昼に読んだ時より、文字の重さが増している気がした。


「……これ書いたやつ、何者なんだよ」


『現時点では候補が多すぎます』


「その便利な言い回し、封印しろ」


『善処します』


 陸は次のページをめくった。


 そこには、今までより少し乱れた筆跡で、日付のようなものが書かれていた。

 だが、数字の一部が滲んでいてはっきりしない。


 **四月――日**

 **夕方。まだ全部は間に合うと思っていた。**


 その下の文章を、陸は無言で追う。


 **ましろは、思い出されるほど形を持つ。**

 **でも、“誰か”として思い出されないと意味がない。**

 **ただ名前を呼ぶだけでは足りない。**

 **誰の名前なのかを、誰かが知っていないといけない。**


 陸は眉を寄せた。


「誰かとして、って」


『人格情報、記憶、関係性。そういったものを含む可能性があります』


「つまり、知ってる人間が必要ってことか」


『単純化すれば』


 机の上で、ましろが微かに明滅する。

 その反応は、たぶん否定ではない。


 さらに読む。


 **声だけ真似るものは、名前を使う。**

 **だから返事をすると、そっちが“本物”に近づく。**

 **逆に、ましろの方は薄くなる。**

 **そういう仕組みらしい。**


 陸は一度、ノートから目を離した。


「……仕組み、って何だよ」


『少なくとも、筆者は現象として把握しようとしていたようです』


「把握できる類のものなのか、これ」


『していた、と言いました。できていたとは言っていません』


「珍しく慎重だな」


『今日は慎重になるべき日ですので』


 その言い方に、陸は少しだけ黙る。


 確かに今日は、律にしては無理に軽口へ逃げない。

 それだけ事態が妙なのだろう。


 ページをめくる。


 次の頁には、簡単な見取り図が描かれていた。

 学校の敷地図だ。

 新校舎、旧校舎、グラウンド、時計塔、図書室棟。

 そのうち、赤い丸で三か所が囲まれている。


 **第二準備室**

 **図書準備室**

 **時計塔の下**


 今まで出てきた場所と一致していた。


 だが、図の端にもう一つ、小さく書き足された場所がある。


 **正門前の桜並木(最初に見つかるならここ)**


 陸の指が止まる。


「……最初に見つかるなら?」


『あなたがましろを拾った場所に近いですね』


「わかってる」


 わかっているからこそ、嫌な感じがした。


 まるで最初から、その順番で進むことを前提に書かれているみたいだった。

 しかも“見つける”ではなく、“見つかる”とある。


 誰に。


 あるいは、何に。


 陸は唇の端を押さえたまま、さらに視線を下へ落とす。


 **図書準備室には、名前が残っている。**

 **箱や写真みたいに固い形じゃなくて、もっと曖昧なもの。**

 **だから、ひとりで行くとたぶん迷う。**

 **律がいるなら、そこは少しだけ有利。**


 そこで陸は顔を上げた。


「……お前、やっぱ前提にされてるな」


『そうですね』


「何でそんな冷静なんだよ」


『理由が不明なことと、事実であることは両立します』


「そういうところだけAIっぽいな」


 律は返事をしなかった。


 部屋の空気がしんと静まる。

 ベッドの上でましろだけが、薄く息をしているみたいに揺れていた。


 陸はまたページをめくる。


 今度の頁は、文字がかなり荒れていた。

 焦って書いたような、急いで残したような筆圧だった。


 **朝霧陸は、変なものを放っておけない。**

 **だから最初は助かる。**

 **でも、そのままだとたぶん一番深くまで行く。**

 **行ってしまう。**

 **誰かが止めるべきなのに、止められない。**


「……これ書いたやつ、俺のこと嫌いなのか?」


『嫌っているというより、諦めを含んだ理解の可能性があります』


「慰めになってねえ」


 それでも、陸は少しだけその文章に引っかかった。


 変なものを放っておけない。

 そう言われれば、否定はしづらい。

 そもそも今だって、本来なら家に帰ってプリンを食べて寝ているはずなのに、こうして得体の知れないノートを読み返している。


 ページの下には、細い字でこう書かれていた。


 **だから、これを読んでる陸は、もう半分遅い。**

 **でもまだ遅すぎない。**

 **たぶん。**


「“たぶん”って何だよ……」


『筆者の不安でしょう』


「そこに共感すんな」


 ましろが、ふっと少しだけ明るくなる。

 その光がノートのある一行へ滲むように触れた。


 陸は目を細める。


「そこか?」


 ましろは、今度ははっきりと二回揺れた。

 まるで肯定みたいだった。


 そこには、短い追記があった。

 他の文章より後から書き足されたらしい、細く浅い文字。


 **図書準備室の“名簿”から。**

 **たぶん、最初に見るべきはそれ。**


「名簿……?」


『図書委員、貸出記録、蔵書台帳。候補は複数あります』


「またそれだ」


『ですが今回は妥当です』


 図書準備室。

 名簿。

 名前が残っている。


 それらが線で繋がりかける。

 けれど肝心の中心――ましろが誰なのか、なぜ自分の名前が最初から書かれているのか、そこだけがまだ見えない。


 陸が次のページをめくろうとした時だった。


 突然、部屋の電気がふっと一度だけ暗くなった。


「……は?」


 すぐに元へ戻る。

 だが、ノートの紙面だけが妙に白く浮いて見えた。


 そして、今まで何も書かれていなかったはずの余白に、じわ、と文字が滲むみたいに浮かび上がった。


 陸は息を止める。


『陸』


 たった二文字。


 インクじゃない。

 光でもない。

 紙の奥から滲み出してくるみたいな、ありえない書き方だった。


「律」


『確認しています』


 文字は続く。


 **いま、窓を見ないで**


 反射的に、陸の視線がカーテンの方へ向きそうになる。

 だがぎりぎりで止めた。


 代わりに律の声がすぐ入る。


『従ってください』


「見てない」


 答えた瞬間、窓の外で、かり、と何かが擦れる音がした。


 陸の背中に冷たいものが走る。

 この家の二階の窓だ。

 普通に考えて、人が立てる場所ではない。


 ノートの余白に、また文字が浮かぶ。


 **これはわたしじゃない**

 **返事もしないで**

 **呼ばれても、名前を渡さないで**


 ベッドの上のましろが、今までで一番強く明滅した。

 怯えているというより、警告しているような光り方だった。


「ましろ……」


 呼ぶと、光が少しだけ落ち着く。


 窓の外で、今度ははっきりと声がした。


「……陸」


 旧校舎で聞いたのと、同じ声だった。


 女の子の、どこか懐かしい声。


「そこにいるの、わかってるよ」


 カーテンの向こうから、柔らかく話しかけてくる。

 家の窓の外だという現実が、声の自然さと全然噛み合わない。


 陸は机の端を握りしめた。


「来るなよ……」


『小声でも応答に該当する可能性があります。沈黙を維持してください』


「っ」


 言い返しかけて、飲み込む。


 ノートにまた文字が浮かんだ。


 **きょうは家まで来る**

 **たぶん、気づかれたから**

 **でも入れない**

 **名前を返さなければ**


 その文を読み終えるのと同時に、窓ガラスがこん、と小さく鳴った。


 ノックみたいに。

 控えめで、礼儀正しい音だった。


 それが逆に、ぞっとするほど怖い。


「……」


 陸は息を殺したまま、窓を見ない。

 ましろも、ノートの上から動かない。

 律のホログラムは出ていないが、声だけがいつもより低く、短く続いた。


『このままです。あと少し』


 窓の外の声が、わずかに寂しげに変わる。


「返事、してくれないんだ」


 知らない声のはずなのに、その言い方だけで胸の奥が少し痛む。

 そう感じてしまうのが嫌だった。

 たぶんあれは、そう思わせるために話している。


 ノートに新しい文字が滲む。


 **やさしい声ほど、危ない**

 **本当に知ってる人なら、こんなふうに来ない**


 陸は歯を食いしばった。


 窓を叩く音は、二度、三度と続いたあと、ふっと止んだ。


 部屋の中がしんと静まる。

 それでもすぐには顔を上げられなかった。


『……気配の後退を確認しました』


 律のその一言で、ようやく陸は肩から力を抜く。


「最悪だろ……」


『同意します』


 ノートの余白に浮いていた文字は、少しずつ薄れていく。

 最後に一行だけが残った。


 **明日は図書準備室へ**

 **名簿の“白”から見て**


 そして、その文字も消えた。


 陸はしばらく、何も言えなかった。


 部屋の電気はいつも通りに点いている。

 机も、ベッドも、制服も、全部見慣れたもののはずなのに、窓の外にだけ別の世界が貼り付いているみたいだった。


「……なあ」


『はい』


「これ、もう普通に生活できる範囲超えてないか」


『かなり前に超えています』


「そうだよな」


 陸は机に肘をつき、額を押さえる。

 疲れているはずなのに、逆に頭だけが冴えていた。


 図書準備室。

 名簿の“白”。


 学校の中に、まだ残りがある。

 しかも今の感じだと、向こうもこっちの動きを追ってきている。


 なら、放っておいて自然に消える類のものじゃない。


 ベッドの上で、ましろが静かに揺れる。

 その光は、さっきより少しだけ強くなっていた。


「……図書準備室、明日の朝に行く」


『授業前ですか』


「昼は人が多いし、放課後はまた面倒なことになりそうだ」


『妥当です』


 陸はノートを静かに閉じた。


 自分の名前が先に書かれていたこと。

 律のことまで知られていたこと。

 そして、“これはわたしじゃない”とノート越しに警告してきたこと。


 全部が不可解で、全部がつながっている。


「ましろ」


 呼ぶと、光が小さく揺れた。


「明日、図書準備室行くぞ」


 それに対する返事みたいに、ましろがほんの少し明るくなる。


 窓の外は、もう何も音がしなかった。


 けれど、見ないままでもわかる。

 今夜からもう、自分の部屋は昨日までと同じ場所ではない。


 陸はカーテンの方を一度も見ないまま、机のライトだけを残して立ち上がった。


 明日の朝、図書準備室へ行く。

 名簿の“白”を確かめるために。


 その先にあるものが、ましろの正体に近づく手がかりなのか。

 それとも、もっと面倒な扉を開く鍵なのか。


 たぶん、そのどっちもだった。

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