第二準備室のノートは、こちらを知っていた
旧校舎に戻った時には、もう校内の音がかなり薄くなっていた。
部活の声はグラウンドの方へ遠のき、教室棟の窓に残っていた明かりも、ぽつぽつと数を減らしている。
夕方というより、もうすぐ夜の入口だ。
陸は人気のない渡り廊下を足早に進みながら、何度も後ろを振り返った。
「……見つかったら普通に怒られるよな」
『内容次第では、普通では済まない可能性もあります』
「そういう補足いらない」
胸元で、ましろが小さく揺れる。
さっき裏庭で透明片に触れてから、光は少し安定していた。
弱いのは弱いままだが、輪郭が朝よりはっきりしている。
『反応レベルは維持されています』
「なら急ぐぞ」
第二準備室の前へ来る。
今朝は半開きだった扉は、今はきちんと閉まっていた。
鍵がかかっているかもと思ったが、ノブを回すと、あっさり開いた。
「……誰か閉めただけか」
『あるいは、誰かが出たあとです』
「言い方」
『事実の範囲です』
部屋の中は、朝よりずっと暗かった。
カーテンの隙間から差す光も赤みを帯びていて、窓辺の椅子の影が床に細長く伸びている。
陸は足を踏み入れ、すぐに扉を閉めた。
無意識に、音を立てないよう気をつける。
ましろは迷わず、あの古い椅子の方へ向かった。
「そこにあるのか」
光が一度、強く明滅する。
陸は椅子の前でしゃがみ込んだ。
古い木製の椅子だ。
背もたれにひびが入り、座面の端は少しささくれている。
朝は写真に気を取られてよく見なかったが、今こうして近くで見ると、座面の裏に不自然な段差があった。
「……隠し板?」
『構造としては近いです』
指をかけて押し上げる。
軽く抵抗があったあと、かち、と小さな音がして、薄い板が外れた。
中に、黒いノートが収まっていた。
「本当にあったのかよ……」
陸はそっとそれを取り出す。
大学ノートくらいの大きさ。
表紙は色褪せて、元の黒が灰色っぽくなっている。
角は丸まり、何度も開閉された跡があるくせに、埃はほとんど積もっていない。
『保存状態は不自然です』
「最近まで誰か触ってたってことか?」
『その可能性は否定できません』
陸は立ち上がり、窓辺から少し離れた机にノートを置いた。
夕方の光だけでは心許ないが、スマホのライトを使うほどでもない。
ましろは、机の上へふわりと浮かび、ノートのすぐ横に留まる。
陸は一度だけ深呼吸した。
「開くぞ」
『どうぞ』
「毎回そこは軽いんだよな」
表紙をめくる。
最初のページを見た瞬間、陸の動きが止まった。
白い紙の中央に、たった一行だけ、はっきりと書かれている。
**朝霧陸へ**
「……またか」
『筆圧は強め。躊躇のない筆跡です』
「感想そこなんだ」
自分の名前が書かれている。
しかも今朝の紙片と違って、こちらはもっと直接的だった。
偶然の余地が、ほとんどない。
陸は無言のままページをめくる。
次の頁には、数行の文章が整った字で書かれていた。
**これを読んでいるなら、たぶん君はもう、ましろを見つけている。**
陸の喉がわずかに鳴る。
続きを読む。
**まず最初に言っておくけど、ましろは“ただの光”じゃない。**
**でも“幽霊”とも少し違う。**
**いちばん近い言い方をするなら、忘れられた結果だけが残った状態。**
**君はこういう言い方を嫌がると思うけど、たぶん今はこれが一番正確。**
「……忘れられた結果って何だよ」
『定義が曖昧です』
「お前がそう言うなら相当だな」
ましろが、ノートの上で小さく明るくなる。
否定しない。それがむしろ怖かった。
さらに下へ目を走らせる。
**裏庭の箱を見つけたなら、第一片は回収済み。**
**あれは記憶の核のひとつ。**
**ましろをこのままにしたくないなら、残りも必要になる。**
そこで陸は顔を上げた。
「第一片?」
『複数存在が示唆されています』
「嫌な予感しかしないな」
ページをめくる。
次の頁には、今度は短く箇条書きで書かれていた。
**残りの核**
**・図書準備室**
**・時計塔の下**
その下に、少しだけ文字が崩れた一文が続いている。
**ただし、第二準備室で五時二十分を過ぎる前に読むのをやめて。**
**窓から呼ばれても、返事をしないこと。**
陸は眉をひそめた。
「……は?」
『時刻指定の警告です』
「そこは読める」
『ですので、重要です』
陸は反射的に窓の方を見た。
赤い光が差しているだけで、外に人影はない。
けれど、さっきまでただの古い部屋に見えていた場所が、一気に別の意味を持ち始める。
もう一度、文章へ目を戻した。
**名前を呼ぶものは、君のことを知っている。**
**でも、君を知っているわけじゃない。**
**そこを間違えないで。**
「何だよそれ……」
『認識の模倣、あるいは情報の借用を示唆している可能性があります』
「もっと気味悪くなったわ」
そのさらに下に、小さく書き足されたような文字がある。
**律へ。**
**そこで黙って見てるなら、補足くらいして。**
**無言で覗かれるのは気味が悪い。**
陸は完全に固まった。
「……おい」
『はい』
「お前の名前まで出てきたぞ」
『確認しました』
「確認じゃねえよ。何で平然としてんだよ」
『動揺はしています。ただ、出力に反映していません』
「器用か」
『効率的ですので』
いつもの調子なのに、その声が今だけは妙に薄く聞こえた。
律でも、これは予想外なのだろう。
陸はページをさらにめくる。
そこから先は、日記のようでもあり、観察記録のようでもある文章が続いていた。
**名前を思い出すたび、形が安定する。**
**でも思い出し方を間違えると、別のものが寄ってくる。**
**校舎はもう、全部が同じ“学校”ではない。**
**古い場所ほど、忘れられたものが残りやすい。**
そこで筆跡が少し乱れている。
**陸なら、たぶんまた来る。**
**来てしまう。**
**そういうところは、変わらないから。**
陸はそこで手を止めた。
「……変わらないって、誰目線だよ」
『少なくとも、筆者はあなたの性質を知っている前提で書いています』
「それが一番嫌なんだよな」
ましろはノートの上で静かに揺れている。
その光は、今までで一番落ち着いて見えた。
まるで、やっと正しいものに辿り着いたみたいに。
ページの最後には、短い一文だけが残っていた。
**次は図書準備室。**
**でもその前に、五時二十分になったら窓から離れて。**
陸は思わずスマホを取り出した。
時刻表示を見る。
「……五時十九分」
『残り三十秒程度です』
「最悪だな」
言うが早いか、陸はノートを閉じようとした。
その時だった。
校舎のどこか遠くで、古い時計の鐘が鳴り始めた。
ごん、と鈍い音。
電子音ではない。
今の校舎では聞かない種類の、重くて遅い鐘の音だった。
一回。
二回。
部屋の空気が、すっと冷たくなる。
「……律」
『窓から離れてください』
三回。
四回。
陸は机ごと後ろへ下がった。
ましろもぴたりとくっつくように寄ってくる。
五回。
六回。
窓の外で、何かが動いた気がした。
「見んなよ」
『見ていません』
「俺に言ってるんだよ」
七回。
八回。
カーテンが揺れる。
風なんて入るはずがないのに、窓辺だけがわずかにざわついた。
九回。
十回。
最後の一音が落ちた、その直後。
窓のすぐ外から、声がした。
「……陸」
女の子の声だった。
優しい声だ。
知らないはずなのに、どこか懐かしい響きがある。
反射的に顔を上げそうになるのを、陸はぎりぎりで止めた。
「っ」
『返事をしないでください』
「してねえよ」
声はもう一度、今度は少し近く、甘く呼ぶ。
「陸。そこにいるんでしょう」
ぞわり、と背筋が粟立つ。
ここは三階だ。
窓の外に、人が立てる場所なんてない。
なのに、まるで普通に廊下から話しかけるみたいな自然さで、声だけがそこにある。
ましろが強く明滅した。
怯えているのか、怒っているのか、区別がつかないほど激しく揺れている。
『対象は窓外に固定。視認は推奨しません』
「わかってる」
陸は窓を見ないまま、ノートを鞄に押し込んだ。
手が少し震えている。
外の声は、今度は少しだけ寂しそうに響いた。
「……どうして返事してくれないの」
その言い方が妙に自然で、ほんの一瞬、胸の奥が引かれそうになる。
返事をしたらまずいと頭ではわかっているのに、耳だけがあの声を“知っているもの”として受け入れかける。
その瞬間、律の声がいつもより強く割り込んだ。
『陸、今すぐ部屋を出てください』
「っ、ああ」
我に返る。
陸は鞄を掴み、扉へ向かって駆けた。
背後で、窓を爪でなぞるみたいな、きい、と細い音がする。
振り向かない。
振り向いたら駄目だと、全身でわかった。
ノブを掴み、扉を開ける。
廊下へ飛び出す。
そのまま何歩か走ってから、ようやく足を止めた。
第二準備室の扉は、今はただの古びた木の扉にしか見えない。
中から追ってくる気配もない。
けれど心臓は、まだ異常なくらい速く打っていた。
「……何なんだよ、今の」
『模倣音声の可能性が高いです』
「模倣って」
『あなたに返答させるための、最適な音声を選んでいた可能性があります』
「気味悪すぎるだろ……」
胸元で、ましろが少しずつ落ち着きを取り戻していく。
けれどその光は、さっきまでより明らかに鋭くなっていた。
あれを恐れている。
少なくとも、同じものではない。
陸は壁に背を預けたまま、ゆっくり息を吐いた。
「図書準備室」
『次の目的地として妥当です』
「今日はもう行かない」
『賢明です』
「意外と引き止めないんだな」
『現時点のあなたの心拍数と判断精度を考慮すると、これ以上の探索は非効率です』
「遠回しにビビってるって言いたいわけだ」
『はい』
即答されて、陸は眉をひそめた。
だが否定する気力もない。
第二準備室のノートは、こちらを知っていた。
ましろのことも、律のことも、そして陸がまた来ることすら。
それだけでも十分すぎるのに、五時二十分の窓の外には、“陸”と呼ぶ何かまでいた。
普通じゃない、なんてとっくに越えている。
「……帰るぞ」
小さく呟くと、ましろが静かに揺れた。
肯定のようにも見えた。
陸は鞄の中のノートの感触を確かめるように持ち直し、夕暮れの廊下を歩き出す。
次は図書準備室。
けれどその前に、今夜はまず、あのノートをもう一度ちゃんと読み返さなければならない。
そして、窓の外から自分を呼んだ“あれ”が何なのかも。
旧校舎の奥で、もう一度だけ、鈍い鐘の余韻が鳴った気がした。




