放課後の裏庭で、白い標識は土を指していた
その日の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
新しいクラス。
新しい席。
新しい担任の、やけに張り切った自己紹介。
教科書の配布やら提出物の確認やらで、教室の空気はいかにも新学期だったが、陸の意識はずっと別の場所にあった。
旧校舎裏の、立入禁止の裏庭。
写真の裏に書かれていた、わすれないで、の文字。
そして、胸ポケットの内側で時々かすかに揺れる、ましろの気配。
「朝霧くん」
不意に名前を呼ばれて、陸は顔を上げた。
教卓の前で、担任が出席番号順の名簿を手にしている。
「聞いてるか? 明日の提出プリント、今日配ったやつだからな」
「……あ、はい」
教室の何人かが小さく笑った。
担任は「初日だから大目に見るけどな」と軽く流し、また話を続ける。
『注意力の著しい低下を確認しました』
胸元から聞こえる小さな声に、陸は机に頬杖をついたまま眉を寄せる。
「お前な、今しゃべるな」
『周囲への音漏れは抑制しています』
「そういう問題じゃない」
『では気分の問題ですね』
淡々と言われて、反論する気も失せる。
窓の外では、春の光が少しずつ傾き始めていた。
放課後までが、やけに長い。
*
チャイムが鳴ると同時に、教室の空気がほどけた。
部活の勧誘に捕まるやつ。
新しい連絡先を交換するやつ。
早々に荷物をまとめて帰るやつ。
陸はなるべく目立たない速度で鞄を閉じた。
できれば誰にも捕まらず、そのまま校舎を出たかった。
「朝霧」
無理だった。
振り向くと、クラスメイトの男子が立っていた。
背が高くて、いかにも運動部に入りそうな体つきのやつだ。始業式の前、席替えの紙を見ながら一度だけ話した気がする。
「お前、帰る? このあと何人かで駅前行くんだけど」
「悪い、用事ある」
「もう?」
「うん」
短く答えると、相手は意外そうな顔をしたが、すぐに「そっか」と引いた。
助かった、と思ったその時。
胸ポケットのあたりで、ましろがぴくりと揺れる。
「……っ」
「ん? どうした?」
「いや、何でもない」
陸は咄嗟に鞄を抱え直した。
中に入れてあるわけではないのに、隠すみたいな動きになる。
相手は少しだけ不思議そうにしつつも、それ以上は追及せずに手を振った。
「じゃあまた明日な」
「ああ」
教室を出る。
廊下に出た瞬間、陸は小さく息を吐いた。
『挙動不審ですね』
「誰のせいだと思ってんだよ」
『少なくとも、私だけの責任ではありません』
「お前とましろで八割だろ」
返しながら、人気の少ない階段を選んで下へ降りる。
旧校舎へ行く時とは違い、今度は校舎の裏を回って、直接裏庭へ向かうつもりだった。
立入禁止の区画には、一応フェンスがある。
だが見に行くだけなら、抜け道はいくらでもある。
生徒というのは、そういう場所を見つけるのが妙にうまい。
校舎裏へ出ると、昼間より風が強くなっていた。
雑草が擦れ合う音がする。
ましろが、胸元からすう、と抜けるように前へ出た。
昨日や今朝よりも、光が少し強い。
「わかるのか」
ましろは答えない。
ただ、迷いなく裏庭のほうへ進んでいく。
『反応の明確化を確認しました』
「便利な日本語にしようとすんな」
『努力はしています』
フェンス沿いに少し歩くと、案の定、金網の一部が緩んでいる場所があった。
誰かが昔こじ開けたのか、下の方が少し浮いている。
陸は周囲を見回し、誰もいないことを確認してから身をかがめた。
「……入れるな」
『推奨はしませんが、可能です』
「こういう時だけ理性ぶるな」
制服の裾を引っかけないようにしながら潜り抜ける。
向こう側へ出ると、空気が少し違った。
旧校舎の裏庭は、手入れが止まって長いのだろう。
花壇の縁は崩れ、雑草は膝くらいまで伸びている。
それなのに、窓から見えたあの一角だけは不自然なほど整っていた。
雑草が避けるように輪になっていて、中央に白いものが立っている。
近づく。
白いものの正体は、標識というより、古いネームプレートだった。
花壇やプランターによく刺さっている、植物の名前を書くための小さな札。
だが、汚れと日焼けでほとんど文字は読めない。
陸はしゃがみ込み、指先で表面の土を軽く払った。
「……何か書いてあるな」
『拡大補助を行います』
律のホログラムが空中に薄く立ち上がる。
視界の一部が補正され、かすれた文字の輪郭が浮かび上がった。
**し ろ**
そこまでしか読めない。
「……“ましろ”の後半か?」
『可能性はあります』
その直後、ましろが急に強く明滅した。
「うわ」
光はネームプレートの上で震えたあと、今度はその根元――土の一点をじっと指し示すみたいに留まった。
「下、ってことか」
ましろが小さく揺れる。
『少なくとも、対象は地表付近ではなさそうです』
「掘れって?」
『解釈としては自然です』
陸は周囲を見回した。
道具なんて持ってきていない。
仕方なく、花壇の縁に落ちていた折れた木片を拾う。
「制服でやることじゃないよな、これ」
『始業式翌日の高校二年生としては、かなり逸脱しています』
「自覚あるなら止めろ」
『止まるとは思えませんので』
木片で土を掻く。
表面は乾いていたが、少し下はまだ湿っていた。
ざく、ざく、と小さな音がする。
数センチほど掘ったところで、硬いものに当たった。
陸は手を止める。
「何かある」
『金属反応の可能性』
指でまわりの土をどけていく。
現れたのは、小さな金属製の箱だった。
手のひらに収まるくらいのサイズ。
銀色だったはずの表面は黒ずみ、端には細かい錆が浮いている。
「タイムカプセル……ってサイズでもないな」
『保管容器と表現する方が適切です』
持ち上げようとすると、思ったより軽かった。
蓋には小さな留め具がついているが、鍵はない。
陸は一瞬ためらう。
「開けるぞ」
『ここで、ですか』
「ここまで来て持ち帰るのも嫌だろ」
『合理性はあります』
留め具を外す。
少し固かったが、力を入れると意外とあっさり外れた。
蓋を持ち上げる。
中には、きれいに折られた紙が一枚と、小さな透明片が入っていた。
透明片は薄いガラスかアクリルみたいで、中央に淡いピンクの光が閉じ込められているように見えた。
その瞬間、ましろが大きく震えた。
「……おい」
ピンクの光が、箱の中の透明片へ吸い寄せられるように近づく。
『反応増大。強い共鳴を確認』
「共鳴?」
ましろが触れた、次の瞬間だった。
世界が反転したみたいに、視界が白く染まる。
「っ――」
思わず目を閉じる。
だが、閉じても意味がなかった。
見える。
勝手に、知らない景色が流れ込んでくる。
夕方の旧校舎。
差し込む赤い光。
窓辺の椅子。
誰かの手。
机の上に置かれたノート。
そして、笑う声。
女の子の声だった。
『陸くん』
不意に、耳のすぐそばでそう呼ばれた気がした。
陸ははっと目を開ける。
視界はもう元に戻っていた。
裏庭。
雑草。
傾いた春の光。
だが心臓だけが、異常なくらい早く打っている。
「……今の、何だ」
『断片的な記録再生、もしくは記憶投影と推定します』
「そんなもん推定されても困る」
箱の中の透明片は、さっきよりも少し色を失っていた。
ましろもまた、不安定に揺れている。
「ましろ」
呼ぶ。
しばらくして、掠れた声が返ってきた。
「……やっと、みつけた」
陸は息を止めた。
「これ、お前のか?」
ましろは答えない。
けれど透明片の上に寄り添うように浮かび、そのまま離れようとしなかった。
陸は箱の中の折りたたまれた紙へ視線を落とす。
「もう一個ある」
『開いてください』
「命令すんな」
言いながらも、陸は紙を取り出した。
湿気を吸って少し柔らかくなっている。
破らないよう慎重に広げると、そこには手書きの文字が並んでいた。
最初の数行はにじんで読みにくい。
けれど、最後の一文だけは、奇妙なくらいはっきり残っていた。
**もし見つけたのが朝霧陸なら、第二準備室のノートを開いて**
陸は固まった。
「……は?」
自分の名前だった。
見間違いじゃない。
朝霧陸、と確かに書いてある。
『興味深いですね』
「便利な言葉で済ますなよ、今回は」
『失礼しました。異常です』
「なお悪いわ」
紙を持つ手が、じわりと汗ばむ。
自分の名前が、どうしてこんな場所にあるのか。
今朝見つけた写真だけでも十分おかしかったのに、これはもう偶然で片付けられる範囲を超えている。
しかも、“第二準備室のノート”。
今朝は写真しか見ていない。
ノートなんてあったか、と記憶を探るが、薄暗い室内をざっと見ただけではわからなかった。
『再訪の必要があります』
「わかってるよ……」
その時だった。
校舎側から、がちゃん、と金属音がした。
陸は反射的に顔を上げる。
「誰かいる」
『複数の足音を確認。二名以上』
「教師か?」
『断定はできませんが、生徒の歩幅ではありません』
「最悪だな」
フェンスの向こう、旧校舎側の通路に人影がよぎる。
ここで見つかったら言い訳が面倒どころの話ではない。
陸は慌てて紙を折り、箱ごと鞄へ突っ込んだ。
ましろは透明片から離れまいとしたが、陸が「あとで」と低く言うと、迷うように揺れてからついてくる。
『退避を推奨します』
「もっと早く言え」
『既にしています』
フェンスの緩んだ場所まで走る。
足元の雑草が絡み、危うく転びそうになる。
向こう側では、人の声が近づいていた。
「……この辺りも見ておくか」
「いや、裏まで来る生徒はあまり――」
教師だ。
「やば」
陸は身をかがめてフェンスをくぐった。
引っかかったブレザーの裾を無理やり引き抜き、そのまま校舎の陰へ滑り込む。
数秒後、旧校舎裏へ二人の教師が姿を現した。
だが陸のいる位置からは、ぎりぎり死角になっている。
息を殺す。
胸元で、ましろの光も小さく縮んだ。
教師たちは何か話しながら裏庭の方を見たが、まさかフェンスの内側を掘り返した生徒がすぐ隣にいるとは思っていないのか、そのまま通り過ぎていく。
足音が遠ざかるまで待ってから、陸はようやく息を吐いた。
「……寿命縮んだ」
『平均寿命への影響は軽微です』
「そういう話じゃねえよ」
鞄の中で、金属箱がかすかに触れ合う音がした。
第二準備室のノート。
しかも、そこに自分の名前が出てくる。
もう、見なかったことにできる段階はとっくに過ぎていた。
陸は夕暮れに染まり始めた校舎を見上げる。
「……律」
『はい』
「これ、思ってたよりずっと面倒かもしれない」
『はい』
珍しく即答だった。
『そして、おそらく思っているより、最初からあなたに関係があります』
その一言が、妙に重く落ちる。
陸はしばらく黙ったあと、鞄の紐を握り直した。
「明日じゃない」
『はい』
「今日、もう一回行く。第二準備室」
胸元で、ましろが小さく明るくなる。
それが賛成なのか、安堵なのかはわからない。
けれど少なくとも、間違ってはいないらしかった。
春の夕方の風は、朝より少しだけ柔らかい。
それでも陸の背中には、まだ旧校舎の冷たい空気が張りついていた。
第二準備室のノートを開く。
今度こそ、何が待っているのか確かめるために。




