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旧校舎の鍵は、開いていた

翌朝、陸はいつもより三十分早く家を出た。


 寝不足だった。

 当然と言えば当然だ。


 昨夜、ましろは結局、陸の部屋のカーテンレールのあたりをふわふわ漂っていた。

 消えるでもなく、暴れるでもなく、ただ静かにそこにいた。


 電気を消したあと、一度だけ、陸が「いるよな」と声をかけたら、薄いピンクの光が小さく揺れた。

 それだけで、余計に眠れなくなった。


『睡眠効率は三十八パーセント程度と推定されます』


「朝からうるせえな」


『客観的事実です』


 通学路を歩きながら、陸は制服のポケットに手を突っ込む。

 そのすぐそばを、ましろが頼りない明るさで浮いていた。


 普段なら絶対に目立つ。

 けれど今朝のましろは、光がかなり薄い。

 少し離れれば、朝の空気に紛れて見落としてしまいそうなくらいだった。


『出力低下が継続しています』


「旧校舎行けば何かわかるんだろ」


『そうでなければ困ります』


「お前、そういう時だけ正直だな」


 校門をくぐる頃には、登校してくる生徒もまだまばらだった。

 陸はそのまま昇降口へ向かわず、校舎の裏手へ回る。


 新校舎と旧校舎をつなぐ渡り廊下は、普段ほとんど使われない。

 古い掲示物は端がめくれ、窓のサッシには薄く埃がたまっていた。


 朝の学校のはずなのに、このあたりだけ妙に静かだ。


『不法侵入感がありますね』


「在校生だよ」


『行き先が問題です』


 北棟への扉を開ける。

 蝶番が小さく軋んだ。


 中の空気は少し冷たかった。

 使われていない建物特有の、紙と木と埃の匂いがする。


 ましろが、すう、と陸の肩の高さまで上がった。


「……わかるのか」


 問いかけると、光が微かに明るくなる。


『目的地への反応としては自然です』


「便利なようで曖昧だな」


『未知に厳密さを要求しすぎです』


 二階、三階と階段を上る。

 足音がやけに響いた。


 三階の廊下は、特にひどかった。

 窓際に積まれた古い机。

 外された掲示板。

 床に残る、何かを引きずったような跡。


 その先に、小さなプレートが見える。


 第二準備室


「ここか」


『昨夜の投影座標と一致します』


 陸は扉の前で足を止めた。


 そして、眉をひそめる。


「……おい」


『はい』


「鍵」


 律が一拍置いて答える。


『開いていますね』


 扉は、ほんのわずかに開いていた。


 昨日の時点では、ここは普段閉まっているはずだと思っていた。

 使われていない部屋なのだから当然だ。

 なのに今、目の前の扉は、まるで誰かが先に入ったあとみたいに、数センチだけ口を開けている。


「これ、普通じゃないよな」


『旧校舎の未使用準備室が、早朝から無施錠で半開き。普通ではありません』


「言い切るなよ、怖いだろ」


『怖がっているのはそちらです』


「怖いに決まってんだろ」


 そう返しながらも、陸は扉に手をかけた。


 軽く押す。


 ぎい、と低い音がして、部屋が口を開いた。


 中は薄暗かった。

 カーテンは半分閉じたまま、朝の光を鈍く通している。


 棚がある。

 古い書類箱が積まれている。

 使われなくなったらしい備品が壁際に寄せられ、部屋の中央だけが妙に空いていた。


 そして、窓辺に一脚だけ、古い椅子が置かれている。


 昨夜見た投影と、同じ位置だった。


「……当たりか」


『少なくとも、外れではありません』


 陸が一歩踏み込むと、後ろでましろがふわりと前へ出た。

 細かった光が、ここに来て少しだけはっきりする。


 そのまま、ましろは窓辺の椅子へ向かった。


「おい、勝手に行くな」


 追いかけるように近づく。

 椅子のまわりには、うっすらと埃が積もっていた。

 けれど――そこだけ、不自然に途切れている。


 誰かが最近、触れたみたいに。


『接触痕があります』


「やっぱりか」


 陸はしゃがみ込んだ。


 椅子の脚のそば。

 床板の隙間に、何か白いものが挟まっている。


 指でつまんで引き抜くと、それは花びらではなかった。

 薄く黄ばんだ紙片。

 角だけがちぎれていて、元が何だったのかはすぐにはわからない。


「……写真?」


 そう口にした瞬間、ましろが強く光った。


『反応増大』


「見ればわかる」


 紙片をそっと裏返す。


 やはり写真だった。

 古い、光沢の薄れた集合写真。

 制服姿の生徒が何人も写っている。


 だが、おかしい。


「……何だこれ」


 写真の中央寄り、一人分だけ、像が白く飛んでいる。


 最初からそこに誰か立っていたはずなのに、その人物の輪郭だけが、そこだけ綺麗に抜け落ちたみたいに真っ白だった。


『経年劣化にしては不自然です』


「これ、心霊写真とか言ったら殴るぞ」


『非実体の私に暴力予告をしても無意味です』


 陸は無視して、写真の裏面を見る。


 そこには、かすれた字で何か書いてあった。


 わすれないで


 たったそれだけ。


 ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。


「……律」


『はい』


「これ、偶然だと思うか」


『思いません』


 ましろが、写真の上へそっと寄った。


 触れているのかいないのかわからない距離で揺れながら、何かを確かめるみたいに、ゆっくり明滅する。


 その時だった。


 部屋の奥で、からり、と乾いた音がした。


 陸は反射的に振り向く。


「誰かいるのか」


 返事はない。


 だが確かに、今何かが動いた。


『右奥、書類棚付近に微細な振動』


「微細じゃねえよ今のは」


 陸は立ち上がる。

 胸の鼓動が早い。


 こんな場所で教師と鉢合わせるのも面倒だが、それとは別の種類の嫌な予感がした。


 一歩。

 また一歩。


 書類棚の影を覗き込む。


 そこにいたのは、人ではなかった。


「……猫?」


 灰色の小さな猫が、古い段ボールの上に丸くなっていた。

 こちらを見上げ、迷惑そうに一度だけ尻尾を打つ。


『警戒対象ではありません』


「最初からそう言えよ……」


『未確認段階で断定は避けました』


「誠実だな」


『はい』


 気が抜けて、陸は小さく息を吐いた。


 その瞬間。


 今度は、ましろが急に大きく揺れた。


「ましろ?」


 振り返る。


 ピンクの光は写真の上で明滅し、その中心から、細い声を絞り出すみたいに震えていた。


「……ここ」


 陸は目を見開いた。


「しゃべれるのか」


「……ここ、じゃ、ない」


 一語ずつ、途切れながら。

 昨日よりもずっと苦しそうに、それでもましろは言葉を押し出した。


「じゃあ、どこだよ」


 光が、椅子ではなく、窓の方へ向く。


 正確には――窓の外。


 陸は近づいて、ガラス越しに外を見た。


 旧校舎の裏庭。

 今は立入禁止になっている区画だ。

 雑草が伸び、使われなくなった花壇が崩れかけている。


 その一角に、ぽつんと白いものが見えた。


「……何だ、あれ」


『拡大します』


 律のホログラム上に、視界が拡大表示される。


 白い、細い標識のようなもの。

 土に半分埋もれていて、文字までは見えない。


 ただ、その場所だけ妙に整っていた。

 雑草が不自然に避けている。


 まるで、最近誰かが触れたみたいに。


「裏庭……?」


『第二準備室は経由地点にすぎない可能性があります』


「最初に言えよ、そういうの」


『今わかったので』


 写真を持ったまま、陸は窓辺に立ち尽くす。


 旧校舎。

 忘れないで。

 ここじゃない。

 裏庭。


 情報だけは増えていくのに、輪郭はむしろ遠ざかっていく。


 その時、廊下の向こうから、微かに人の声がした。


 陸ははっとする。


「やば」


『登校時刻が近づいています』


「知ってる」


 このままここにいたら、誰かに見つかる。


 陸は急いで写真を制服の内ポケットにしまった。

 ましろはすぐにそのあとを追うように胸元のあたりへ寄ってくる。


「裏庭は放課後だ」


 そう小さく告げると、ましろが微かに揺れた。


『了承したように見えます』


「便利な解釈だな」


『便利ですので』


 扉のところまで戻り、陸は最後にもう一度だけ部屋を振り返った。


 窓辺の椅子。

 薄暗い準備室。

 半開きだった扉。


 誰かが先に来ていたのか。

 それとも、最初から待っていたのか。


 わからない。


 ただひとつ確かなのは、これで終わらないということだけだった。


 陸は第二準備室を出て、静かに扉を閉める。


 廊下の先から聞こえる生徒たちの声は、さっきまでよりずっと現実的だった。

 けれど胸の内側には、旧校舎の冷たい空気がまだ残っている。


「……新学期の初日から、面倒ごとが多すぎるだろ」


『青春的には加点要素です』


「お前の青春査定、ほんと信用できねえ」


 そう言いながら、陸は人の気配が近づく前に階段へ向かった。


 放課後、裏庭に行く。


 写真の裏の言葉と、白い標識みたいなものの正体を確かめるために。


 胸元で、ましろの光が小さく揺れた。


 それはまるで、急がなければいけないと、そう言っているみたいだった。

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