春の帰り道に、名前のある光を拾った
校門から少し離れたところで、陸は足を止めた。
手の上では、ましろが相変わらず淡く揺れている。
逃げる様子はない。
けれど安心しているとも言い切れない、そんな曖昧な光だった。
『行き先未定のまま徒歩を継続するのは、あまり効率的ではありません』
「わかってるよ」
『でしたら、少なくとも観察に適した場所へ移動を提案します』
「観察って言い方がちょっと嫌だな」
『未知の発光体を拾っておいて、その感想は今さらです』
言い返せず、陸は小さく息を吐いた。
少し考えてから、学校から十分ほど離れた川沿いの遊歩道へ向かうことにした。
夕方前の時間帯で、人通りは少ない。
制服姿で一人座っていても、不審さはぎりぎり薄い場所だった。
ベンチに腰を下ろし、陸は手のひらをそっと膝の上に乗せる。
ましろはその上で、相変わらず丸いようで丸くない光のままだった。
『では、簡易的な確認を始めます』
「勝手に仕切るなよ」
『主導権を譲られていると認識しています』
「してねえよ」
律は気にした様子もなく、空中に表示された薄いインターフェースを操作する。
陸には見慣れた光景だったが、手の上のましろはそれを見て、わずかに明滅を速めた。
『まず、音声理解の確認を』
「お前がやれよ」
『了解しました』
律は一歩ぶんだけ前へ出た。
ホログラムのくせに妙に所作が自然なのが、たまに腹立たしい。
『あなたの名前は、ましろ、でよろしいですか』
数秒の沈黙。
それから、ましろがふる、と揺れた。
肯定にも否定にも見える、曖昧な反応。
だが完全な無反応ではない。
『呼称への反応は継続しています』
「つまり、たぶんそうなんだろ」
『精度の低い要約ですが、概ね同意します』
陸は少しだけ身を乗り出した。
「ましろ」
呼ぶ。
光がわずかに強まる。
「……俺は、陸」
そう言った直後だった。
手の上の光が、ぴくりと震えた。
次の瞬間。
「……り、く」
かすれた、小さな声。
陸は思わず固まった。
「え」
『音声確認。先ほどより明瞭です』
「お前、今……」
ましろは、返事の代わりみたいにふわりと浮かび上がった。
膝の上から胸の高さまで上がり、そこで静かに揺れる。
「俺の名前、言ったのか」
ましろはまた、小さく明るくなった。
それだけのことなのに、不思議と胸の奥がざわついた。
ただの発光体なら、名前を覚えたりはしない。
『言語模倣能力、あるいは対話学習の可能性があります』
「便利な言い方だな」
『便利ですので』
陸はベンチの背にもたれたまま、しばらくましろを見ていた。
春の風が吹く。
川面がきらりと光る。
遠くで電車の通る音がした。
その静かな時間の中で、ましろだけが、どこか違う場所のものみたいにそこにいた。
「……お前、どこから来たんだ」
何気なく聞いたその言葉に、律がすぐ反応する。
『その質問は有効かもしれません』
「今さら便乗すんな」
けれど、ましろはさっきまでとは違う反応を見せた。
光が、すっと細くなる。
縮んだと思った次の瞬間、薄い膜みたいなものが空中に広がった。
「……何だ?」
『投影反応です』
ましろの光の前に、ぼんやりと景色が浮かぶ。
輪郭は曖昧だった。
色も不安定で、ところどころノイズが混じっている。
それでも、陸にはわかった。
「これ……学校か?」
白い壁。
古い窓枠。
夕方の斜めの光。
見覚えのある場所だった。
いや、正確には“見覚えがありそうな”場所だ。
毎日通る校舎ではない。
けれど、入学したばかりの頃に一度だけ見たことがある。
『校内構造との照合を開始します』
律の声が少しだけ真面目になる。
投影は不安定に揺れながら、次々に別の断片を映した。
錆びた手すり。
立入禁止の札。
半開きの扉。
そして――
窓辺に置かれた、一脚の古い椅子。
『照合完了。旧校舎北棟三階、第二準備室付近の可能性が高いです』
「旧校舎……?」
思わず声が低くなる。
そこは今、ほとんど使われていないはずだった。
文化祭前に備品確認で開くことはあっても、普段は鍵が閉まっている。
「なんでそんな場所が出るんだよ」
『それは、こちらが聞きたいことです』
ましろの光がまた細く揺れる。
投影が一瞬だけ乱れ、途切れた。
だが、その直前。
陸はもう一つ、はっきり見た。
椅子のすぐそば。
窓際の床に、何か白いものが落ちていた。
布、みたいにも見えたし、花びらにも見えた。
判別できるほど長くは映らなかった。
「今の、見たか」
『一部記録しました。拡大は後ほど可能です』
「後ほどって……」
言いかけたところで、ましろが急に強く明滅した。
びくりと肩が揺れる。
「おい、どうした」
ましろは苦しそうに光っていた。
さっきまでの穏やかな揺れじゃない。
何かを伝えようとして、うまくいかないみたいな、不規則な明滅だった。
『出力が乱れています。無理な投影の継続は負荷が高いのかもしれません』
「ましろ」
陸が呼ぶと、光は少しだけ落ち着いた。
それから、掠れた声がする。
「……い、かな……きゃ」
陸は息を止めた。
「行かなきゃ?」
問い返しても、続きはない。
ただ、ましろは震えるように揺れながら、もう一度だけ光った。
「……わすれ、る」
その一言で、空気が変わった。
春のやわらかい光も、川の音も、急に遠くなる。
「忘れる?」
『記憶喪失、消失、時間制限。解釈候補は複数あります』
「そのどれも嫌な候補だな」
『同意します』
陸はベンチから立ち上がった。
胸の奥が、嫌にざわついている。
ただの好奇心じゃなかった。
ましろの声は、助けを求める声に近かった。
そして一度そう聞こえてしまった以上、見なかったことにはできない。
「……律」
『はい』
「明日、学校行く前に旧校舎寄れるか」
『時間的には可能です』
「鍵は?」
『正攻法では難しいでしょう』
「お前が言うと不穏だな」
『ですが、方法がないとは言っていません』
「言い方がもっと不穏だわ」
思わずそう返すと、律はほんのわずかに口元を緩めた。
気のせいかもしれないが、こういう時だけ妙に人間くさい。
手を差し出すと、ましろは今度は迷わずその上に戻ってきた。
さっきより光が弱い。
けれど、陸の指先に触れるように寄ってくるその動きには、もうはっきり意志があるように思えた。
「今日はもう帰るぞ」
そう言うと、ましろの光が小さく揺れる。
『保護対象として扱うのですね』
「うるさい」
『いえ、確認です』
陸はスマホをポケットに戻しながら、空を見上げた。
夕方にはまだ早い。
けれど今日の帰り道は、始業式の朝よりずっと遠い場所まで来てしまった気がした。
新しいクラスも、担任も、そんなものがどうでもよくなるくらいには。
手のひらには、名前のある未知がいる。
旧校舎。
忘れる。
行かなきゃ。
それだけで十分すぎるほど、面倒な匂いがした。
「……ほんと、始業式の帰り道に拾うもんじゃねえだろ」
『青春的には高得点です』
「基準が終わってるんだよ」
陸はそうぼやきながら、ましろを連れて歩き出した。
明日の朝、旧校舎へ行く。
その決断だけが、やけにはっきりしていた。




