未知との遭遇
春の風は、まだ少し冷たい。
二年の始業式を終えた帰り道。
朝霧陸は、配られたばかりのクラス分けの紙を鞄へ突っ込みながら、一人で校門を出た。
後ろでは、同じように下校する生徒たちの声が広がっている。
新しいクラスがどうだとか、担任がどうだとか、部活の勧誘がどうだとか。
浮ついた空気がそこら中にあって、いかにも新学期初日という感じだった。
陸はスマホを取り出して、時間を見た。
「……まだ早いな」
その独り言に反応するみたいに、端末が短く震える。
『始業式帰りの高校二年生にしては、ずいぶん枯れた感想ですね』
「うるさいな」
画面も見ずに返すと、スマホのスピーカーから小さく律の声が続いた。
『もう少しこう、期待とか希望とかはないんですか』
「新学期に何期待すんだよ」
『青春的な何かです』
「雑だな」
律は人間じゃない。
だからこうしてスマホの中から平然と話しかけてくる。
本人は効率的だとか合理的だとか言うが、慣れていないやつから見たら普通に怖いと思う。
『少なくとも、帰り道に一人でぼやくよりは建設的かと』
「一人じゃないだろ、一応」
『端末内存在を人数に数えるのは解釈が分かれます』
「そういう言い方すんな」
いつもの調子で軽口を返しながら、並木道を歩く。
足元に散った桜の花びらを避けた、その時だった。
視界の端に、何かが見えた。
植え込みの影。
道の脇。
何か、小さな光みたいなものが浮いている。
陸は足を止めた。
「……律」
『はい』
「あれ見えるか」
少しの間があって、律が答える。
『見えています』
「何だと思う」
『現時点では不明です』
「役に立たねえな」
『未知に対して即答しないのは、むしろ誠実です』
そう言われても困る。
目の前のそれは、どう見ても普通じゃなかった。
薄いピンクの光。
丸いようで丸くなく、霧のようでいて芯がある。
ふわ、と浮いている。
サイズとしては両手に包めそうなくらいしかない。
風に流されているようにも見えない。
自分でそこに留まっているみたいに、静かに浮いていた。
「……発光体?」
『表現としては近いです』
「近いってなんだよ」
『少なくとも、街灯でもホログラムでもありません』
陸は少しだけ近づいた。
光は逃げない。
それどころか、近づく陸をじっと見ているような気さえした。
「見てる……?」
『視線器官は確認できません』
「でもなんか、そういう感じしないか」
『否定はしません』
気味が悪いはずなのに、なぜか目を離しづらい。
薄いピンクの光は、不安定に揺れているようで、その実ずっとそこにある。
まるで、何かを待っていたみたいに。
陸はしゃがみ込んだ。
「おい」
呼びかける。
返事はない。
けれど、その光がほんの少しだけ近づいた。
『反応しています』
「見ればわかる」
『一応、補足です』
陸はそっと手を伸ばした。
指先が触れるか触れないかの距離まで近づいた瞬間、ピンクの光がふるりと揺れる。
逃げるかと思った。
だが、逃げなかった。
触れる。
冷たいわけでも、温かいわけでもない。
何かに触れている感触はあるのに、質感だけが曖昧だった。
空気の中に、薄く膜を張ったみたいな妙な手応え。
「……何だこれ」
『通常の生体反応とは一致しません』
「またそれか」
『通常の思念体パターンとも一致しません』
陸は眉をひそめる。
「思念体でもないのか?」
『少なくとも、既知の形式ではありません』
既知じゃない。
その言葉が妙に引っかかった。
ピンクの光が、また少し揺れる。
さっきより近い。
気のせいじゃなく、こちらへ寄ってきている。
「お前、意思あるのか」
今度は、少し長く沈黙した。
そのあとだった。
「……ましろ」
かすれた声がした。
陸は固まった。
「え」
光の中心が、かすかに明滅する。
「今、しゃべった?」
『音声を確認』
「いやお前じゃなくて」
『承知しています』
律が珍しく少しだけ早口だった。
それだけ、向こうも驚いているのだろう。
陸はもう一度、目の前のピンクの光を見る。
「ましろ、って言ったのか?」
光が小さく揺れた。
頷いた、ように見えた。
「名前か、それ」
今度は返事がない。
けれど、さっきより少しだけその光の存在が近くなった気がした。
「……ましろ」
陸がそう呼ぶと、ピンクの光はまた微かに明るくなった。
『呼称への反応を確認しました』
「つまり名前ではあるんだな」
『可能性は高いです』
それだけで、急に放っておきにくくなった。
名前のあるものは、ただの現象じゃない。
少なくとも陸にとってはそうだった。
ましろはまだ、植え込みの脇に浮いたままだ。
頼っているのか、怯えているのか、それとも何も考えていないのかもわからない。
「……どうする」
『選択肢の提示は可能です』
「いや、そういう意味じゃなくてな」
陸は少しだけ空を見上げた。
春の光はまだ明るいのに、今いるこの場所だけ妙に現実感が薄い。
通報するか。
教師に言うか。
警備に連れていくか。
でも、その全部に先回りして浮かぶ疑問がある。
これは何だ。
それに答えられないまま誰かに渡して、終わる気がしなかった。
ましろは黙って浮いている。
ただ、離れようとはしない。
「……律」
『はい』
「出られるか」
『可能です』
陸はスマホを持ち直し、端末を地面と平行に傾けた。
その上に淡い光が立ち上がる。
小さなホログラムの律が現れ、空中に静かに浮かんだ。
律は無表情のまま、ましろを見た。
『興味深いですね』
「便利な言葉だな、それ」
『便利ですので』
ホログラムの律に見つめられても、ましろは逃げない。
ただ、少しだけその光が小さく縮んだ。
『警戒はしています』
「でも逃げない」
『はい』
陸はため息をついた。
「……じゃあ、一回連れてくか」
『どこへ?』
「まだ決めてない」
『見切り発車ですね』
「今さらだろ」
ピンクの光――ましろは、陸の言葉に反応するみたいに、また少し近づいた。
意思があるのかないのかも、よくわからない。
でも少なくとも、置いていかれたくはなさそうだった。
陸は手を出す。
「来れるか」
ましろはしばらく揺れていたが、やがてふわりと浮き上がり、その手の上へ静かに寄ってきた。
軽い。
というより、まだ重さがない。
「始業式の帰り道に拾うものじゃねえだろ、普通……」
『イベント発生としては申し分ありません』
「お前ちょっと楽しんでるだろ」
『否定はしません』
陸は小さく息を吐いた。
手の上で、ましろの光がかすかに揺れる。
まだ形もない。
正体もわからない。
それでも、もうただの“何か”ではなかった。
春の帰り道。
陸はその未知なる光を連れて、ゆっくり歩き出した。




