倉庫棟の影で、白凪ましろは自分の声を聞いた
その日は、時計塔のあとで深追いはしなかった。
したくても、できなかった、の方が正しいかもしれない。
カセットレコーダーに残されていた去年の自分の声。
そこへ途中から割り込んできた、あの女の声。
そして最後に、ましろが示した倉庫棟の方角。
情報だけが増えていくのに、答えはむしろ遠ざかっていく感じがする。
陸と栞は、校門の手前で一度立ち止まった。
「今日は解散でいいのか」
陸が聞くと、栞は少し考えてから頷いた。
「うん。これ以上やると、たぶん判断が雑になる」
「朝霧くん、今かなり疲れてるし」
「それはお前もだろ」
「私はまだ、寝不足ではあるけど冷静だから」
「寝不足なのは同じなんだな」
栞は小さく肩をすくめた。
「今朝、図書準備室行く前にちゃんと寝れてるように見えた?」
「……見えなかった」
「でしょ」
その返し方に、少しだけ空気が緩む。
こういう時に、栞は必要以上に深刻な顔をしない。
それがありがたいと、陸は思った。
栞は続ける。
「レコーダーの続き、もし聞くなら一人で聞かない方がいい」
「あと、ノートも。余白にまた何か出るかもしれないし」
「家で窓の外から呼ばれるイベントは、できればもう勘弁してほしいんだけどな」
「イベントって言い方すると軽く聞こえるね」
「軽く言わないとやってられない」
そう答えると、栞はほんの少しだけ笑った。
それから真面目な顔に戻る。
「明日、朝もう一回会える?」
「教室行く前なら」
「じゃあ図書室前で」
「わかった」
それだけ決めて、二人は別れた。
栞が駅とは反対方向へ歩いていくのを見送りながら、陸は胸元の光をちらりと見る。
白凪ましろは、今日はもうずっと静かだった。
「……お前も疲れたか」
呼びかけると、光が小さく揺れる。
返事の代わりみたいな、それだけの反応。
『出力は落ちています』
「お前、他人事みたいに言うなよ」
『私は他者ですので』
「そういうとこだぞ」
*
その夜、陸の部屋の机の上には、黒いノート、図書準備室から持ち出した名簿の写し、そしてカセットレコーダーが並んでいた。
名簿の現物はさすがに持ち出せなかった。
栞がスマホで必要なページだけ撮ってくれて、そのデータを律が補正して画面上に表示している。
白凪ましろ。
失踪扱い。
返すな 朝霧。
見れば見るほど、去年の自分が自分に残した手がかり、というより、追い詰められた人間が無理やり未来へ投げた綱みたいに見えた。
「……もう一回聞くか」
『推奨はしますが、単独再生は推奨しません』
「じゃあどうしろってんだ」
『少なくとも、ましろの反応を確認できる状態で』
ベッドの上にいたましろが、名前を呼ばれたわけでもないのに少しだけ近づいてきた。
レコーダーの前までふわりと移動し、テープの窓を覗くように留まる。
「お前、自分の声、嫌じゃないのか」
問いかけると、白凪ましろはしばらく揺れていた。
それから、昨日ほど掠れてはいない小さな声が落ちる。
「……ききたい」
陸は息を止めた。
「今、はっきり言ったな」
『確認しました』
「そうかよ、俺も確認したよ」
陸は深呼吸してから、レコーダーの再生ボタンを押した。
古い機械音。
ノイズ。
それから、昨日と同じく去年の自分の声が流れる。
『……これを聞いてるなら、たぶんもうかなり面倒なことになってる』
「そこは知ってる」
『会話への割り込みは記録音声の認識を妨げます』
「黙る」
去年の自分の声は続く。
『まず確認する。そこにましろはいるか』
『いるなら、少なくとも第二段階までは間に合ってる』
『時計塔の下に残したのは、声の核だ』
『名前と記憶だけじゃ足りない。声がないと、ましろは“白凪ましろ”として固定できない』
ここまでは昼に聞いたのと同じだ。
問題は、その先。
『これから言うことを、ちゃんと聞け』
『名前のない側に、ましろの声を返すな』
『あれは空いた場所に入る』
『忘れたところに入る』
『返事をしたら、“知ってる”ことになる』
陸はレコーダーに触れる手を、そっと離した。
昨日はここで止めた。
今日は止めない。
テープの向こうで、去年の自分が一拍だけ息を飲む。
『俺は一回、ましろを返しかけた』
『でも、その時止めたのは――』
ノイズが走る。
昨日なら、ここであの女の声に割り込まれていたはずだ。
だが今日は違った。
ましろが、レコーダーの上でふわりと強く光る。
淡いピンクが、機械の黒い表面を薄く照らす。
その光に押し返されるみたいに、ノイズが一瞬だけ弱くなる。
『……栞だ』
去年の自分の声が、はっきりとそう言った。
陸は目を見開く。
「は?」
『対象名を確認。“栞”です』
「わかってるよ、聞こえた」
レコーダーの向こうの自分は、少しだけ疲れたみたいな声で続けた。
『三枝栞が、止めた』
『あいつがいなかったら、たぶん俺はあの時、返事をしてた』
陸の喉がひどく乾く。
時計塔の下で聞いた時、割り込まれたせいで聞けなかった部分。
そこに、今、一気に名前が落ちてきた。
三枝栞。
今日、一緒に図書準備室へ入って、時計塔まで来たあの栞だ。
『だから、もし今も栞が関わってるなら、まだ間に合う』
『あいつはたぶん、“名前のない側”に全部は引っ張られない』
『理由はわからないけど、少なくとも俺よりは強い』
陸は無意識に、今日の栞の顔を思い出していた。
図書準備室の扉の前で、あれを見ても逃げずに立っていた顔。
時計塔の下で、変に取り乱さずに現実を積み上げようとしていた顔。
たしかに、妙に強い。
少なくとも、自分よりは冷静だった。
レコーダーは続く。
『次は、倉庫棟の古い視聴覚室』
『もしましろがそっちを指すなら、残ってるのは最後の“かたち”だ』
『名前、記憶、声――ここまで揃ったら、最後に必要なのは輪郭』
『あいつが白凪ましろとして、ちゃんとそこにいるための、いちばん外側』
「……輪郭」
陸が呟くと、ましろが小さく揺れた。
『ただし、視聴覚室にはもう一つ残ってる』
『俺が消したはずの、去年の最後』
『できれば見るな』
『でも、お前は見るんだろうな』
そこで、去年の自分はほんの少しだけ笑ったようだった。
乾いた、諦め半分の笑い方。
『朝霧陸は、そういうやつだから』
「うるせえよ」
思わず返したその声は、もう半分くらい自棄だった。
レコーダーの中の声はさらに小さくなる。
『もしここまで来て、それでもましろを残したいと思うなら』
『今度は忘れるな』
『誰を置いて、誰を選ぶのか』
そこで、テープはがしゃ、と大きな音を立てた。
回転が止まり、無機質な終端音だけが残る。
再生は終わりだった。
部屋の中が、やけに静かになる。
「……誰を置いて、誰を選ぶ」
陸はその最後の言葉を、ゆっくり反芻した。
意味はまだわからない。
だが、“選ばなければいけない”局面が去年あったのだということだけは伝わってくる。
『視聴覚室が次の目的地と考えてよさそうです』
「倉庫棟の中か」
『はい』
ましろはレコーダーの上で、少しだけ光を揺らしている。
さっき自分の声を聞いた時より、輪郭がほんのわずかに明瞭になったように見えた。
「……お前、変わったか」
問いかけると、白凪ましろはゆっくり陸の方へ寄ってきた。
そして、掠れた声で言う。
「……しおり」
「栞?」
光が小さく明滅する。
頷いたようにも見えた。
「栞がどうした」
「……しってる」
「わたし、を」
そこまで言って、ましろの声は途切れた。
だが、それだけで十分だった。
去年の自分が言っていた。
三枝栞が止めた、と。
そして今、ましろもまた、栞を知っていると言う。
つながっている。
自分が忘れているだけで、去年の秋のどこかで、白凪ましろと栞と自分は、確かに同じ場所にいたのだ。
『明日、栞へ情報共有が必要です』
「……だな」
陸はレコーダーを止めたまま、その黒い表面を見つめる。
視聴覚室。
最後の“かたち”。
そして、消したはずの去年の最後。
嫌な予感しかしない。
けれど、ここまで来て引き返せる気もしない。
その時だった。
机の上の黒いノートが、ふ、とひとりでに開いた。
「っ」
風はない。
窓も閉まっている。
なのに表紙がめくれ、途中のページで止まる。
陸はゆっくりそちらを見る。
白い余白に、じわりと文字が浮かんでいた。
**倉庫棟へ行くなら、四人で行って**
「……四人?」
陸は眉を寄せる。
「俺と、栞と、ましろと、律か?」
『計算上はそうなります』
「お前、人数に含まれることに今さら感あるな」
ノートの文字はさらに続く。
**ひとり足りないと、去年と同じになる**
陸は息を止めた。
去年と同じになる。
その一文は、今までのどの警告よりもはっきりと怖かった。
「……足りないって、誰が」
問いかけても、ノートはそれ以上何も書かない。
ただ、その二行だけが白く残っている。
律が短く言う。
『“四人”の解釈が必要です』
「それはわかる」
『現在確認できる構成要素は、あなた、栞、ましろ、私』
『ただし、“人数”として数える場合、私が含まれている保証はありません』
陸はゆっくりと椅子にもたれた。
去年の自分は、誰を数えていたのか。
そもそも、その四人は最初から揃っていたのか。
あるいは、どこかで一人が欠けた結果が今なのか。
頭の中で考えが渦を巻く。
「……めんどくさすぎる」
『事実です』
「慰めろよ少しは」
『大変ですね』
「雑すぎる」
それでも、少しだけ肩の力が抜けた。
陸はノートを閉じる前に、もう一度浮かんだ文字を確かめる。
**倉庫棟へ行くなら、四人で行って**
**ひとり足りないと、去年と同じになる**
去年と同じ。
それが何を指すのかはわからない。
でもたぶん、あまりいい結末ではない。
「……明日、まず栞と話す」
『はい』
「そのうえで、倉庫棟だ」
ベッドの上に戻ったましろが、小さく揺れる。
光は弱いままなのに、その存在だけは昨日より少し確かだった。
白凪ましろ。
名前があり、声があり、あと少しで輪郭を持つ存在。
そして去年の自分は、それを取り戻そうとして失敗したらしい。
陸は机の上のノートとレコーダーを見つめながら、静かに息を吐いた。
次は倉庫棟の視聴覚室。
けれどその前に、足りない“四人目”が本当に何なのか、それだけは確かめなければならない。
そうでなければ、去年と同じになる。
その一文だけが、夜の部屋の中でやけに重く残り続けていた。




