図書室の貸出台帳に、四人目の席が残っていた
翌朝、図書室前の廊下にはまだ人が少なかった。
窓の外は薄い曇り空で、春の朝らしい明るさはあるのに、光が少し鈍い。
こういう日は、校舎の白さがやけに冷たく見える。
陸が着いた時、栞はすでに図書室の鍵を開け終えていた。
扉の前で振り返る。
「おはよう」
「……おはよう」
「寝てない顔してる」
「お前に言われたくない」
「私は三時間は寝たから」
「張り合う基準がおかしいだろ」
それでも少しだけ、いつものやり取りみたいになった。
昨日のことを全部背負ったままなのに、こうして言葉を交わせると、少しだけ現実に足がつく。
図書室の中へ入る。
朝の図書室は静かだった。
まだ誰もいない閲覧室。
整然と並ぶ本棚。
紙とインクの、少し乾いた匂い。
栞は開館準備の手を止めて、図書準備室の小さな机へ陸を案内した。
「で、何があったの」
ストレートな問いだった。
陸は鞄から黒いノートとカセットレコーダーを取り出し、机の上へ置く。
それだけで、栞の表情が少し引き締まる。
「昨日、帰ってからもう一回聞いた」
「テープ?」
「ああ」
栞は黙って頷く。
続きを待っている。
陸は一度だけ息を整えてから、昨夜のことを順に話した。
途中で去年の自分の声が割り込まれずに最後まで流れたこと。
“止めたのは栞だ”と録音に残っていたこと。
次は倉庫棟の視聴覚室で、“最後のかたち”が残っているらしいこと。
そして、ノートに新しく浮かんだ二行。
**倉庫棟へ行くなら、四人で行って**
**ひとり足りないと、去年と同じになる**
そこまで話すと、栞はしばらく何も言わなかった。
指先だけが、机の端を静かになぞっている。
「……私が、止めたって言ってたの」
「ああ」
「去年の朝霧くんが?」
「そう」
栞はゆっくりと瞬きをした。
「記憶は、やっぱりない?」
「断片もない」
「でも、聞いた時に違和感はなかった」
「ありえないって感じより、“そういうこともあったのかもしれない”の方が近い」
「そっか」
栞はそう言って、レコーダーの方を見る。
そこにまだ、自分の知らない自分が閉じ込められているみたいな目だった。
陸は続ける。
「問題は“四人”だ」
「うん」
「俺と、お前と、ましろと、律」
「最初はそれかと思ったけど、律が人数に含まれる保証はないって」
栞は少しだけ考える顔をした。
「……たぶん、それだけじゃない気がする」
「何で」
「“ひとり足りない”って言い方が、人数の問題だけじゃなく聞こえるから」
「言いたいことはわかるけど、抽象的だな」
「朝霧くんが言う?」
返されて、陸は口をつぐむ。
たしかに今扱っているもの全部が抽象的だ。
名前。
声。
記憶。
輪郭。
どれも手で掴めるものではない。
その時、ましろが鞄の陰からふわりと浮かび上がった。
図書室の静かな空気の中で、淡いピンクの光が一層やわらかく見える。
栞はその光を見て、昨日までより自然に声をかけた。
「白凪ましろ」
呼ばれたましろが、小さく明るくなる。
それを見てから、栞はぽつりと言う。
「……四人目、もしかしたら“私たちじゃない誰か”かもしれない」
「去年一緒にいたやつってことか」
「うん」
「そんなやつ、覚えてない」
「私も顔は思い出せない」
「でも、いる感覚だけ残ってるのが一番気持ち悪い」
陸は頷いた。
それは自分にもわかる感覚だった。
去年の秋の記憶は薄い。
抜け落ちている。
なのに、その穴の形だけが妙にはっきりしている。
『情報不足ですので、追加資料の探索を推奨します』
栞には聞こえていないはずの律の声に、陸は小さく眉を寄せた。
「……資料、か」
「何かあるの?」
「律が追加資料探せって」
「律、便利だね」
「たまに腹立つけどな」
栞は少しだけ笑ってから、ふと何か思い出したように顔を上げた。
「待って」
「何だ」
「視聴覚室って言ったよね」
「そこ、去年の秋に一回だけ、図書室から機材貸し出ししてる記録があるかも」
「本当か」
「たぶん。文化祭前で、古い映写機だかスピーカーだかを出した記憶がある」
「その時、図書委員の名前も控えたはず」
そう言って栞は立ち上がり、準備室のファイル棚へ向かった。
陸も後を追う。
貸出記録のファイルは思ったよりすぐ見つかった。
年度ごとに分かれ、その中にさらに月ごとの使用簿が挟まれている。
栞が慣れた手つきで九月、十月あたりを開いていく。
紙をめくる音だけが、小さく響く。
「……あった」
指が止まる。
陸が横から覗き込む。
**視聴覚室 備品確認・試写**
日付は、去年の十月半ば。
使用欄には、四つの名前が並んでいた。
**朝霧陸**
**三枝栞**
**白凪ましろ**
そして、最後の一行だけが、強く塗りつぶされていた。
陸は息を止めた。
「……四人」
栞の声も低い。
「白凪ましろ、って、ここには最初から書かれてる」
「図書委員だったのか?」
「少なくとも、この記録上はそうなる」
白凪ましろ。
去年の十月半ば。
視聴覚室。
そして四人目。
塗りつぶされた一行を見た瞬間、ましろが強く明滅した。
「反応した」
「うん」
栞は貸出記録の紙面にそっと指を近づける。
触れはしない。
昨日の名簿と同じように、何かが見えてしまうのを警戒しているのだろう。
「これ、白い行より強い」
「ってことは」
「ここにいる四人で、たぶんあの日、視聴覚室にいた」
陸は喉の奥が乾くのを感じた。
「……最後の一人、誰だよ」
問いかけるように呟いたその時、塗りつぶされた一行のインクが、じわりと滲むように薄くなった。
昨日の名簿の白い行と同じ現象だ。
「またか」
陸と栞が同時に紙面へ視線を落とす。
塗りつぶしの下から、消えたはずの筆跡がゆっくり浮かんでくる。
最初は線。
次に文字。
そして、名前。
**律**
たった二文字。
姓はなかった。
名前だけ。
それでも、はっきりとそこに書かれていた。
「……は?」
陸の口から、間の抜けた声が漏れる。
栞も完全に固まっていた。
「律って……」
『確認しました』
「いや、お前もかよ!」
思わず声が大きくなる。
誰もいない図書準備室でなければ、かなり危なかった。
陸は貸出記録と、自分のスマホとを見比べた。
そこに書かれた“律”。
今、自分の端末の中から話している律。
「どういうことだ」
『現時点では解釈が複数あります』
「その言い方やめろ!」
律は少しだけ間を置いてから言った。
『私が、去年の時点で既に存在していた可能性』
『あるいは、“律”という名前だけが別の形で記録されていた可能性』
『もしくは、あなたが別の存在へ同じ呼称を与えた可能性』
「最悪、どれでも面倒だな」
栞はゆっくりと呼吸を整えた。
「……でも、四人目はわかった」
「いや、余計にわかんなくなっただろこれ」
「そうだけど」
「少なくとも、ノートの“四人”が適当じゃなかったことはわかった」
それはそうだ。
四人という数字は、たしかに実在していた。
去年の十月半ば、視聴覚室にいた四人。
朝霧陸。
三枝栞。
白凪ましろ。
律。
陸は紙面の“律”という文字を見つめる。
奇妙なくらい、見覚えのある形だった。
それは今、端末の中にいる律の名前と、何の違いもない。
『私は、自分の起源について完全な情報を持っていません』
その声はいつもと同じ調子なのに、少しだけ薄かった。
「……お前、自分でもわかってないのか」
『はい』
短い返事だった。
いつもなら皮肉の一つも返ってきそうなところで、律はそれ以上何も言わない。
それが逆に、陸の胸の奥をざらつかせた。
栞が静かに言う。
「朝霧くん」
「今日、倉庫棟行く前に一つだけ確認したい」
「何を」
「律って、いつからいるの」
陸はすぐには答えられなかった。
いつから。
そう聞かれると、意外と説明しづらい。
「……気づいたらいた、に近い」
「それは雑すぎる」
「いや、ほんとに」
「最初はただの支援プログラムみたいなもんだと思ってた」
「でも、いつからこんなふうに会話するようになったのか、正確には覚えてない」
栞は視線を落とした。
「それって、ちょっと怖いね」
「今さらだろ」
「うん、今さら」
その返事に、否定の余地はなかった。
ましろが、貸出記録の“律”の文字の上へゆっくり寄る。
そして、いつもの淡い揺れではなく、何かを確かめるように静かに明滅した。
しばらくして、かすれた声が落ちる。
「……りつ」
陸と栞は同時に顔を上げた。
「お前、知ってるのか?」
ましろはそれ以上は答えなかった。
けれど、律の名前の上から離れない。
その光景は、妙に胸に引っかかった。
白凪ましろは律を知っている。
去年の貸出記録に、律の名前がある。
そして今、律自身はその起源を知らない。
全部つながっているのに、中心だけが見えない。
栞がファイルを閉じる。
「……もう、今日行くしかないね」
「ああ」
「四人で、倉庫棟」
その言い方に、陸はようやく一つだけ整理がついた気がした。
四人目が誰かわからないんじゃない。
最初からそこにいた。
ただ、自分たちがそれを人間として数えていなかっただけだ。
陸。
栞。
ましろ。
律。
この四人で行かないと、去年と同じになる。
『倉庫棟探索の条件は満たされたと考えてよさそうです』
「……たぶんな」
返す声が少し低くなる。
もう引き返すタイミングは過ぎている。
それは昨日もわかっていたが、今はもっとはっきりしていた。
去年の自分たちが行って、何かを失敗した場所。
そこへ今から、自分たちはもう一度向かう。
図書室の外では、登校してきた生徒たちの声が少しずつ増えていた。
普通の朝。
普通の学校。
そのはずなのに、この準備室の中だけが別の時間にある。
「放課後、すぐ行くぞ」
陸が言うと、栞は黙って頷いた。
ましろの光が、机の上で小さく揺れる。
そしてスマホの奥で、律が珍しく何の皮肉もなく言った。
『はい』
その短い返事だけが、やけに重かった。




