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12/27

倉庫棟の視聴覚室で、四人目の席が埋まった

 放課後、倉庫棟の前には人の気配がなかった。


 校舎の喧騒から少し離れただけなのに、ここだけ時間の流れが違うみたいだ。

 古いコンクリートの壁はところどころ黒ずみ、細い窓は曇って中がよく見えない。

 使われなくなって長い建物特有の、乾いた静けさがある。


 陸は立ち止まり、目の前の鉄扉を見上げた。


「……ほんとに、ここで合ってるんだよな」


 胸元で、ましろが小さく明滅する。

 肯定、と取るしかない反応だった。


 隣で栞が鍵束を軽く持ち上げる。


「一応、倉庫棟の鍵も預かってはいる」

「でも、視聴覚室はたぶん別」


「開くのか?」


「普通は施錠されてると思う」


『“普通”でない可能性を考慮してください』


「最近ずっとそれだよ」


 陸はそう返しながら、扉に手をかけた。


 押してみる。

 びくともしない。


「まあ、だよな」


 栞が鍵束から古い真鍮色の鍵を選び、試す。

 一つ目は合わない。

 二つ目も違う。

 三つ目で、かち、と鈍い手応えがあった。


「開いた」


「図書委員、万能かよ」


「たぶん管理が雑なだけ」


 扉を開けると、むっとした埃っぽい空気が流れ出てきた。

 古い機材と木材と紙の匂いが混ざっている。


 倉庫棟の中は暗かった。

 長い廊下の左右に、小部屋の扉が並んでいる。

 体育用具庫、備品室、旧理科教材庫。

 その一番奥に、プレートの半分剥がれた扉があった。


 **視聴覚室**


 文字の端が欠けている。

 それでも、ここしかないとわかる。


 陸たちが近づくにつれ、ましろの光が少しずつ強くなる。

 だが同時に、不安定でもあった。

 期待と警戒が両方混ざっているみたいな揺れ方だ。


「大丈夫か」


 陸が小さく問うと、ましろは答えず、ただ視聴覚室の扉の前で留まった。


『反応は一致しています』


「開けるぞ」


 ノブを回す。


 施錠されていた。

 今度はさすがにそうか、と思った瞬間、スマホの画面がかすかに明滅した。


「……律?」


『接続先不明の認証反応を確認しました』


「何言ってんだ」


『簡潔に言います。今、私に対して何らかの照合が行われています』


「誰に」


『不明です』


 その答えと同時に、視聴覚室の扉の向こうで、かちり、と内側から鍵が外れる音がした。


 陸と栞は同時に息を止める。


「……今の」


「聞こえた」


 ゆっくり、陸がノブを回す。

 今度は抵抗なく動いた。


『四人目の席が埋まった、と表現するのが近いかもしれません』


 律のその声は、いつもよりわずかに遅れていた。

 妙なラグがある。

 まるで、この建物の中では律の出力自体が少し別のものに繋がっているみたいだった。


 扉を開ける。


 視聴覚室は、思っていたより広かった。


 古い長机が後方に折りたたまれて積まれ、中央にはパイプ椅子が四脚だけ、スクリーンに向かって並べられている。

 前方には古い投影スクリーン。

 天井には昔の吊り下げ式プロジェクター。

 壁際にはビデオデッキや映写機の残骸みたいな機材が積まれていた。


 そして、一番異様だったのは、その四脚だ。


「……誰か、置いたのか」


 陸が呟く。


 椅子の上には埃がほとんど積もっていない。

 部屋全体は長く使われていない雰囲気なのに、あの四脚だけが、ついさっき並べたみたいに整っていた。


 左から順に、椅子の背に紙が貼られている。


 **陸**

 **栞**

 **ましろ**

 そして最後に、

 **律**


 陸は無言になった。


 栞も、何も言えない顔をしている。


「……趣味悪すぎるだろ」


 ようやく絞り出した言葉がそれだった。


『否定はしません』


「お前の席あるぞ」


『確認しました』


「もっと驚けよ」


『驚いています』


「見えねえんだよ、その驚きが」


 だが、その軽口も半分しか本気ではない。

 ここまで揃ってしまうと、もう偶然ではない。

 去年の何かが、今の四人をここへ戻そうとしている。


 ましろが、ためらうように自分の名前が貼られた椅子の前へ行く。

 そこに座る、というより、そこへ重なるように浮いた。


 淡いピンクの光が少しだけ安定する。


 栞が息を飲む。


「……本当に、ここで四人なんだ」


 陸は黙ったまま、自分の席を見る。

 座れ、と言われているみたいだった。


『条件の充足を試みる価値はあります』


「つまり座れってことか」


『はい』


「嫌な予感しかしない」


「でも、ここまで用意されてるなら、多分そう」


 栞の声も硬い。

 それでも彼女は、自分の名前が貼られた椅子へ歩いていき、ゆっくり腰を下ろした。


 陸は最後まで数秒迷ってから、自分の席へ座る。


 そして、誰もいないはずの律の席だけが空いたまま残る。


「これ、どうするんだ」


『……』


「律?」


 返事が、一瞬遅れた。


『出力先を切り替えます』


「は?」


 スマホの画面が白く光る。


 そのまま、机上ホログラムとは違う、少し荒い光の像が視聴覚室の最後の椅子の上に立ち上がった。


 輪郭は不安定だ。

 ノイズも多い。

 それでも、見慣れた律の姿が、そこに座るように形成される。


 栞がはっきりと目を見開いた。


「……見える」


「そうなるよな」


「これが、律?」


『三枝栞、認識を確認しました』


 律のホログラムはいつもより薄かった。

 けれど、その椅子に存在していること自体が、妙にしっくり来てしまう。

 最初からここに来る前提で空けられていた席だからかもしれない。


 そして、四人が揃ったその瞬間だった。


 視聴覚室の奥で、ぶうん、と低い機械音が鳴った。


「っ」


 プロジェクターだ。

 誰も触っていないのに、天井の古い機材が勝手に起動している。


 スクリーンがゆっくり降りる。

 白い布が、埃っぽい空気を切りながら下がっていく。


「おいおい……」


『自動再生シーケンスの可能性があります』


「そういうの、もっと早く言え」


『今始まりましたので』


 壁際のビデオデッキにも、ランプが点いた。

 がしゃ、とテープが巻かれるような音。


 栞が低く言う。


「去年、これ見たんだと思う?」


「たぶんな」


「もう嫌な予感しかしないね」


「今さらだろ」


 スクリーンにノイズが走る。

 白黒の砂嵐。

 やがて像が結ばれる。


 最初に映ったのは、この視聴覚室そのものだった。


「……録画?」


 陸が呟く。


 固定カメラの映像らしい。

 少し高い位置から、部屋全体を斜めに映している。

 古い監視カメラか、撮影用の記録映像か。


 画面の中には、四人いた。


 椅子に座る陸。

 その隣に栞。

 その隣に、制服姿の女子生徒。

 白凪ましろだと、すぐわかった。


 長い黒髪。

 少し眠たげな、でもどこかやわらかい目元。

 大人しそうなのに、視線の奥だけ妙に強い。


 そして最後の席には――人ではなく、ノートPCのような端末と、小型投影機材が置かれていた。

 その上に、今と同じように、薄いホログラムの律が映っている。


「……去年からその姿だったのか」


『確認できます』


 陸はスクリーンから目を離せなかった。


 去年の自分は、今より少しだけ表情が硬い。

 栞は今より髪が少し短い。

 ましろは、今よりずっと“普通の人間”としてそこにいた。


 映像の中の陸が何か喋る。

 音声は最初、入っていなかった。

 だが数秒遅れて、スピーカーからノイズ混じりの声が流れ始める。


『記録開始、十月十七日、十七時〇九分』

『対象、白凪ましろ』

『補助記録、朝霧陸、三枝栞、律』


 律の声だった。

 今より少し無機質で、抑揚が薄い。


 映像の中の栞が、少し嫌そうな顔をする。


『対象って言い方やめて』


『では、観測対象白凪ましろ』


『変わってない』


 その会話に、視聴覚室の現在の栞が思わず眉をしかめる。


「……ほんとに嫌そう」


「お前、昔からその感じだったんだな」


『現在との連続性が確認できて何よりです』


「何よりじゃねえよ」


 映像の中のましろが、小さく笑った。


『いいよ、別に』

『律、そういう言い方しかできないし』


 その声が流れた瞬間、現在のましろが大きく揺れた。


 陸の胸が強く鳴る。


 白凪ましろの声だ。

 昨日レコーダーで聞いた“声の核”より、ずっと自然で、呼吸のある声。

 人としてここにいた時の、そのままの声。


 スクリーンの中のましろは続ける。


『でも、今日で終わらせたい』

『このまま曖昧なの、気持ち悪いから』


 映像の中の陸が、何か言い返している。

 音が割れて聞き取りづらい。

 けれど、“危ない”と“まだ早い”という単語だけが辛うじて聞こえた。


 次に、映像の中の栞がはっきり言う。


『でも、もう時間ないんでしょ』


 現在の栞が、無意識に唇を引き結ぶ。

 その台詞に、覚えがあるのかもしれない。


 スクリーンの中で、去年の四人は何かを机の上に並べていた。

 名簿。

 ノート。

 カセットレコーダー。

 そしてもう一つ、白い封筒。


「封筒?」


 陸が呟いた時、律が言う。


『未確認物品です。現在まで回収していません』


「つまり、まだ残ってるってことか」


『可能性は高いです』


 映像の中の去年の陸が、その白い封筒を手に取った。


 そこで画面が大きく乱れた。


 ざざ、とノイズが走る。

 映像が歪む。

 音が二重になる。


「……来るぞ」


 陸が低く言ったのと同時に、スクリーンの右端に、白い影が映り込んだ。


 人の形に似ている。

 けれど顔はない。

 昨日、図書準備室で見た“名前のない側”と同じ種類の白さだった。


 栞が息を呑む。


「この時もう、いたんだ」


『確認できます』


 スクリーンの中の去年の律が、何かを警告している。

 音が割れて聞き取れない。

 映像の中の陸が立ち上がり、栞が椅子を引く。

 ましろだけが、その白い影を見つめていた。


 次の瞬間、映像の中のましろがはっきりと言った。


『だめ、名前で呼ばないで』


 現在の視聴覚室の空気が、ぴんと張る。


 スクリーンの中では、白い影がゆっくり近づいてくる。

 去年の陸が何か叫ぶ。

 栞がましろの腕を掴む。

 その時――。


 映像が、そこで止まった。


「は?」


 スクリーンは静止画のままだ。

 白い影が伸びる寸前。

 ましろが何かを決めたような顔で、こちらではなく横を見ている、その一瞬で固まっている。


 そして、スピーカーから別の声が流れた。


 現在の律でも、去年の律でもない。


 陸自身の声だった。


 だが、録画の中からではない。

 もっと近い。

 視聴覚室そのものに残っていた音声みたいな、生々しい響きだった。


『――この先は、今の俺たちが入るところじゃない』


 陸は息を止める。


 今の俺たち。

 ということは、去年の陸が、この映像の続きを今の自分たちへ向けて残している。


 声は続く。


『ここで映像を止めたのは、見せたくないからじゃない』

『見たら、その時の選択が“今”になるからだ』


「……意味わかんねえ」


 陸が思わず漏らすと、律が短く言う。


『因果の固定を避ける、という表現なら近いかもしれません』


「わからん」


『私も完全には理解していません』


 去年の陸の声が、少し苦く笑ったように聞こえる。


『たぶん、今の俺もわかってない』

『でも一つだけ言える』

『視聴覚室に残した封筒は、ましろの“かたち”じゃない』


 陸は顔を上げる。


「違うのかよ」


『あれは、最後に誰が何を忘れるかの選択肢だ』


 重い沈黙が落ちた。


 栞が小さく呟く。


「……また、忘れる話」


 去年の陸の声は淡々としていた。

 だからこそ、余計に怖い。


『白凪ましろを白凪ましろのまま残すには、空いた場所を別の何かで埋める必要がある』

『俺はそれを、自分の記憶で埋めた』

『でも足りなかった』


 陸の手が無意識に強く握られる。


 去年の自分は、自分の記憶を使った。

 それが今の欠落に繋がっている。


『今、四人揃ってここにいるなら、もう一回選べる』

『でも、今度は俺一人じゃ決めない』

『だから封筒は、まだ開けるな』


 その最後の言葉と同時に、スクリーンが真っ暗になった。


 ぶつ、と機械音がして、プロジェクターも止まる。

 部屋の中に残るのは、埃っぽい暗さと、四人分の息遣いだけだった。


 誰もすぐには喋れなかった。


 最初に口を開いたのは栞だった。


「……封筒、あるんだよね」


『映像上は確認されています』


 律が答える。


 陸は視線を室内へ巡らせる。

 スクリーン。

 机。

 機材棚。

 去年の四人が座っていた位置。


「探すか」


 そう言った自分の声が、思ったより低かった。


 栞は少しだけ迷ってから、頷く。


「でも、開けない」

「それは今、聞いた通りにした方がいい気がする」


「ああ」


 ましろが、スクリーンの前へゆっくり進む。

 そこから少し右、去年の映像で白い封筒が置かれていた机の位置へ向かう。


 淡いピンクの光が、机の下を照らすように揺れた。


「そこか」


 陸がしゃがみ込む。


 古い机の裏に、ガムテープで貼り付けられた封筒があった。

 白い、何の変哲もない封筒。

 表には何も書かれていない。


 けれどそれを見た瞬間、陸の胸の奥に嫌なざわつきが走った。

 この中身を知ってはいけない、みたいな直感。


 それでも、見つけてしまった以上、持ち帰らない選択もできない。


 慎重に剥がして、手に取る。


 軽い。

 紙が一枚か二枚入っているくらいの重さだ。


「……これが選択肢、ね」


 栞の声も固い。


 陸は封筒を鞄へ入れた。

 その瞬間、視聴覚室の奥――スクリーンの裏側から、かさり、と何かが擦れる音がした。


 全員が顔を上げる。


「またかよ」


『気配を確認』


 今度の白い気配は一つではなかった。


 スクリーンの裏。

 機材棚の影。

 天井のプロジェクターの向こう。


 白い輪郭が、三つ、四つと、暗がりの中で静かに揺れている。


 栞が息を呑む。


「増えてる」


 昨日の図書準備室で見た時より明らかに多い。

 しかも今回は、こちらを覗くような気配ではなく、部屋の出口をゆっくり塞ぎにくる動きだった。


 ましろが強く光る。


 今まで見た中で一番強い光。

 淡いピンクではなく、芯のある白に近い色を帯びていた。


 その光に押されるように、白い影たちがわずかに止まる。


『退避経路を確保できるのは数秒です』


「またか!」


「陸!」


 栞の声に弾かれるように、陸は立ち上がった。


 四人分の席。

 止まったスクリーン。

 封筒。

 去年の自分の声。


 全部を置いて、今は出るしかない。


「行くぞ!」


 栞が扉へ走る。

 陸も続く。

 ましろはその間を縫うように前へ出て、まるで光の楔みたいに白い影との間に割り込んだ。


 律のホログラムも椅子の上から立ち上がり、その姿が少しだけ輪郭を濃くした。


『開錠補助を行います』


「そんなことできんのかよ!」


『今は可能です』


 視聴覚室の扉の鍵が、ひとりでにかちりと外れる。


 陸がノブを掴み、扉を開ける。

 そのまま栞を先に外へ押し出し、自分も飛び出した。


 最後に、ましろの光がぴたりと陸の肩へ戻る。

 律のホログラムは一瞬だけ遅れたが、スマホの画面が白く点滅し、出力先を戻したらしい。


 扉を閉める。


 その直後、内側から、ばん、と乾いた音がした。

 体当たりではない。

 ただ、“向こう側にいたものが扉の直前まで来た”とわかる、そんな音だった。


 廊下に静寂が落ちる。


 陸は扉の前で肩を上下させながら、低く吐き出す。


「……倉庫棟、嫌いになりそう」


「まだ好きだったの」


 栞の返しは震えていたが、それでも少しだけいつもの調子を戻そうとしていた。

 その感じに、陸もわずかに呼吸を整える。


 鞄の中の封筒は、思った以上に存在感があった。


 まだ開けるな。

 去年の自分はそう言った。


 けれど、最後に誰が何を忘れるかの選択肢――その言葉だけで、嫌な想像がいくつも浮かぶ。


 陸は扉から一歩だけ離れ、倉庫棟の薄暗い廊下を見回した。


「……今日はここまでだな」


『妥当です』


 律の声も少しだけ乱れている。

 さっきの開錠補助とやらで負荷がかかったのかもしれない。


 ましろは肩の近くで弱く揺れていた。

 だがその光は、さっきスクリーンの前で強くなった時の余韻をまだ少しだけ残している。


 名前があり、声があり、そしてたぶん、今は輪郭の直前まで来ている。


 けれどその先にあるのは、単純な“元通り”ではないのだろう。


 去年の自分は、そこまで進んで失敗した。

 今の自分たちは、その続きをやらされている。


 栞が静かに言う。


「封筒、どうする」


 陸は答えなかった。

 答えられなかった。


 鞄の中にある白い封筒は、軽いくせに重かった。

 あれを開ける時、多分また何かを選ぶことになる。

 その予感だけは、もうはっきりしている。


 そして、その選択はきっと、白凪ましろだけの問題では終わらない。


「……持ち帰る」

「でも、今日は開けない」


 ようやくそう言うと、栞は小さく頷いた。


「うん。それがいいと思う」


 倉庫棟の外へ出ると、もう日が傾き始めていた。

 春の夕方の光はやわらかいはずなのに、今日ばかりは色が薄い。


 校舎の向こうで、部活帰りの生徒たちの声がする。

 普通の放課後。

 そのはずなのに、陸の手元には、まだ開けてはいけない封筒がある。


 ましろは静かだ。

 律も珍しく何も言わない。

 栞だけが、少し先を歩きながら時々振り返る。


 四人揃ってここまで来た。


 それでもまだ、去年の続きをなぞっているにすぎないのかもしれない。


 陸は鞄の紐を握り直した。


 封筒を開ける時が来る。

 その時、何かを選ばなければならない。


 そう思うだけで、胸の奥が重く沈んだ。

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