白い封筒の中には、四人で分けるための忘却が入っていた
その夜、陸は白い封筒を机の上に置いたまま、結局一度も開かなかった。
開けようと思えば開けられる。
ただ紙を裂くだけだ。
それなのに、指先が近づくたびに胸の奥がざわつく。
まだ開けるな。
去年の自分はそう言った。
最後に誰が何を忘れるかの選択肢だ、とも。
その二つが揃った時点で、もはや軽い気持ちでは触れない。
陸は封筒から目を逸らし、ベッドの上のましろを見る。
「……お前は、知ってるのか」
問いかける。
ましろは小さく揺れた。
知っているとも、知らないとも取れる曖昧な反応。
けれど少なくとも、その白い封筒を見た時の光り方は、明らかに普通ではなかった。
『開封を急ぐ合理性はありますが、先送りの合理性も同程度に存在します』
「珍しく両論併記だな」
『どちらを選んでも損失が発生しうる場合、二者択一の単純化は適切ではありません』
「わかりやすく言えよ」
『今はまだ開けない方がよさそうです』
「最初からそう言え」
結局その晩は、封筒を鞄の一番底へ押し込み、ノートもレコーダーも机の引き出しへしまった。
けれど眠りは浅かった。
夢の中で、誰かが何度も名前を数えていた。
陸。
栞。
ましろ。
律。
四つ目のところだけ、毎回少し遅れる。
そのズレが、目覚めたあとも気持ち悪く残った。
*
翌日の放課後、陸と栞は図書準備室にいた。
図書室の閉館作業を終えた栞が鍵をかけ、人気がなくなったのを確認してから、準備室の小机の上へ白い封筒を置く。
夕方の光はまだ少し残っているが、昨日までより陰りが強い。
陸は封筒を見下ろした。
「……開けるぞ」
そう言いながらも、指先は少しだけ迷っている。
栞は黙って頷いた。
その目には緊張がある。
けれど、止める気はないらしい。
ましろは机の真ん中にふわりと留まり、律はスマホから小さなホログラムを出して、椅子の背に腰掛けるように浮かんでいた。
『四人揃っています』
「その確認、今ちょっと重いな」
『事実ですので』
封筒の口は、糊付けされているわけではなかった。
古い差し込み式の蓋を外すだけで開く。
陸が息を整えて、そっと指を差し入れる。
中に入っていたのは、まず一枚の写真だった。
古いインスタント写真。
少し黄ばんでいるが、像はまだはっきりしている。
陸がそれを机に置いた瞬間、栞も息を呑んだ。
映っていたのは、視聴覚室だった。
スクリーンの前。
昨日の映像と同じ部屋。
そこに、四人が並んでいる。
陸。
栞。
そして、人の姿をした白凪ましろ。
今は光でしかないその子が、制服を着てそこにいた。
肩のあたりまで伸びた黒髪。
淡い色のリボン。
写真越しでもわかるくらい、柔らかく笑っている。
その隣には、小さな機材と、その上に投影された律のホログラム。
「……いたんだな、本当に」
陸の口から、気づかないうちに声が落ちる。
知識ではわかっていた。
去年、人としてそこにいたのだと。
それでもこうして写真として見せつけられると、意味が変わる。
白凪ましろは、ただの名前でも、ただの光でもなかった。
ちゃんとここにいた。
栞も写真を見つめたまま、小さく言う。
「私、こんな顔してたんだ」
「そこかよ」
「いや……なんか、笑ってるから」
たしかにそうだった。
写真の中の栞は、今より少し幼く見える。
けれど表情はやわらかい。
視聴覚室で得体の知れないものを相手にしていたはずなのに、四人とも、ただ怯えている顔ではない。
何かを信じていた顔だ。
陸は視線を写真の端へ動かす。
律のホログラムの下、投影機材の横に、小さな文字が書き込まれていた。
**十月十七日 やりなおし前**
「……やりなおし前?」
『示唆的です』
「お前の語彙、そういう時だけ便利だな」
封筒の中には、もう一枚、折られた紙が入っていた。
今度はノートの筆跡と同じ、整った字だ。
陸はそれを慎重に開く。
最初の一行を見た瞬間、顔が強張る。
**四人揃った状態で、これを読んでいるなら、去年よりはマシだ。**
「去年よりは、って……」
栞も横から覗き込む。
紙には続けてこう書かれていた。
**去年は、俺一人の忘却で穴を埋めようとした。**
**結果として、白凪ましろは“白凪ましろ”として残りきれず、代わりに空いた場所へ別のものが入り込める状態を作った。**
**あれが“名前のない側”。**
陸は無意識に紙を持つ手へ力を込める。
去年の自分がやったこと。
その結果が、今も続いている。
文面は淡々としているのに、一行ごとの重みがひどい。
**だから、今度は一人で背負うな。**
**四人がそれぞれ、ひとつずつ手放す。**
**それで埋める。**
**そうすれば、白凪ましろの輪郭は固定できる。**
栞が小さく呟いた。
「……四人で分ける」
律はしばらく無言だった。
それから、いつもより少しだけ遅れて言う。
『分散処理、と表現すれば近いのかもしれません』
「その機械っぽさ、今ちょっと助かる」
陸は紙の続きを読む。
**ここでいう“手放す”は、全部を失うことじゃない。**
**でも、ただ痛くないわけでもない。**
**何を失うかは、人によって違う。**
**そして、それは四人が揃った時にしか定まらない。**
その次の一文で、陸は息を止めた。
**だから、この紙の下に入っている四枚は、それぞれ本人が触れた時にだけ開く。**
「……四枚?」
封筒を覗くと、たしかに薄い紙片が四つ重なっていた。
今まで気づかなかったのは、写真と手紙に挟まれていたからだろう。
陸はそれらを机へ並べる。
何の変哲もない、白いカードだった。
表には何も書かれていない。
四枚。
ちょうど人数分。
ましろが、そのうちの一枚へふわりと寄った。
栞も黙って見ている。
陸は手紙へ目を戻した。
**順番は関係ない。**
**でも、一人だけ先に読んで勝手に決めるな。**
**たぶんそれも、去年の失敗に近い。**
そこで文は終わっていた。
沈黙が落ちる。
昨日までの“最後の誰が何を忘れるかの選択肢”という言葉が、今ようやく形を持ち始める。
一人が全部を失うのではない。
四人で分ける。
けれどその四人それぞれが、何かを手放す。
「……読むか」
陸が言う。
栞は少しだけ迷ったあと、頷いた。
「一緒に、だね」
「ああ。一人ずつじゃなく」
『その方が望ましいでしょう』
陸は四枚のカードのうち、一番左のものへ手を伸ばした。
触れた瞬間、白い紙の中央に、じわりと文字が浮かび上がる。
**朝霧陸**
**手放すもの:十月十七日の“最初の声”**
「最初の声……?」
意味がすぐにはわからない。
だが、何かとてつもなく具体的なものを失うのだという感覚だけは伝わってくる。
栞も、自分の前のカードへ指先を置く。
浮かんだ文字を見た瞬間、彼女の目が少しだけ揺れた。
「……私」
「何て書いてる」
栞は一度だけ息を整えてから、読んだ。
**三枝栞**
**手放すもの:白凪ましろを“最初に怖いと思った記憶”**
陸は眉を寄せる。
「怖いと思った記憶?」
「……たぶん、最初に会った時のことだと思う」
「でも、それを手放したら、何が残るんだろ」
『恐怖の切断、あるいは認識の再構成の可能性があります』
「急に難しく言うな」
そう返しながらも、陸の視線は三枚目へ向かう。
ましろが、恐る恐る、その一枚へ触れた。
光の指先みたいなものが紙面に重なる。
すると、カードに文字が浮かび上がった。
**白凪ましろ**
**手放すもの:“白凪ましろ”になる前の最後の名前**
その文を見た瞬間、ましろの光が大きく揺れた。
「おい」
陸が思わず呼ぶ。
だがましろは答えない。
ただ、ひどく動揺しているのだけは伝わる。
“白凪ましろ”になる前の最後の名前。
つまり、今の名前になる以前の何か。
「それ、どういう意味だよ……」
『現時点では推測の域を出ません』
最後の一枚が残る。
律のカードだ。
陸と栞がそちらを見る。
スマホの画面が、わずかに白く明滅した。
「……律」
『はい』
「触れられるのか」
『試みます』
ホログラムの律が、ゆっくりとカードの上へ手を伸ばす。
指先が紙に触れた瞬間、他の三枚と同じように文字が浮かび上がった。
**律**
**手放すもの:朝霧陸に最初に与えられた呼称**
その文面を見た瞬間、今度は陸が固まる。
「……は?」
栞も、すぐには意味を掴めない顔をしていた。
だが、律だけが沈黙した。
「おい、どういうことだ」
『……』
「律」
返事がない。
スマホの画面が一度だけ暗くなる。
ホログラムの輪郭も、わずかに乱れる。
『記録の一部に、強い衝突を確認しました』
「衝突?」
『“律”という呼称が、最初からの名称ではなかった可能性があります』
その言葉は、今までのどの情報よりも妙に刺さった。
律は自分で自分の起源がわからないと言っていた。
それが、ここへ来て急に具体的な形を持つ。
“朝霧陸に最初に与えられた呼称”。
それはつまり、陸が最初に律をどう呼んだか、ということだ。
今の“律”ではない、もっと別の名前があったのかもしれない。
部屋の空気が重くなる。
四枚のカード。
それぞれに書かれた、失うもの。
どれも単純な記憶ではない。
名前、声、恐怖、呼称。
存在の輪郭をかたちづくる、かなり核に近い部分ばかりだった。
「……これ、やるしかないのか」
陸が低く言うと、栞はすぐには答えなかった。
ましろはまだ揺れている。
律のホログラムは、さっきよりわずかに薄い。
『現時点で、強制ではありません』
律が言う。
『ただし、白凪ましろの輪郭固定には必要条件である可能性が高いです』
「必要条件、ね」
「でも、すぐ決めなくていいと思う」
栞が静かに挟む。
その声は少しだけ硬いが、落ち着いていた。
「何を手放すのかはわかった」
「でも、それが実際にどうなるのかはまだ曖昧すぎる」
「去年の自分も、一人で急いで失敗したんだよね」
陸は頷く。
それは、たしかにそうだ。
去年の陸は一人で背負って、一人で決めて、失敗した。
だからこの封筒が残された。
なら、今ここでまた焦って選ぶのは、たぶん去年と同じだ。
「……一旦、持ち帰るか」
「うん」
「カードは?」
「写真撮ってもいいけど、できれば現物を手元に置きたい」
その言葉に、ましろが少しだけ反応した。
机の上のカードのひとつひとつを、確かめるように光がなぞっていく。
自分の名前。
自分の失うもの。
そしてたぶん、自分が戻るための代償。
陸は白凪ましろのカードをそっと見つめた。
“白凪ましろ”になる前の最後の名前。
それを失うことが、何を意味するのか。
まだ想像もつかない。
その時、図書準備室の外で、遠くチャイムが鳴った。
完全下校を促す放送が、少し遅れて校舎に流れる。
「……今日はもう出よう」
陸がそう言うと、栞も小さく頷いた。
四枚のカードを封筒へ戻す。
写真と手紙も一緒に入れる。
最後に、陸はもう一度だけ、写真の中の白凪ましろを見た。
笑っていた。
今の淡い光ではなく、ちゃんと表情のある顔で。
その笑顔を守るために、今の自分たちは何かを失わなければならない。
そう考えると、胸の奥が重く沈む。
「……最悪だな」
吐き出すように言うと、律が小さく返した。
『はい』
その短い同意が、いつもより少しだけ人間っぽく聞こえた。
栞は机の端を指で軽く叩いてから、言う。
「明日までに、少し考えよう」
「それぞれ、何を失うことになるのか」
「ああ」
「その上で、決める」
白凪ましろは静かに揺れた。
肯定なのか、不安なのかはわからない。
けれど少なくとも、もう逃げる段階ではないことだけは、四人とも理解していた。
図書準備室を出る時、陸は封筒の重みを確かめるように鞄を持ち直した。
軽い。
それなのに、今日まで見つけてきたどの手がかりよりも重い。
四人で分けるための忘却。
それが、去年の続きを終わらせるために必要な代償。
校舎の外は、夕方の風が少し冷たかった。
春の終わりに近づいているはずなのに、その風だけがまだ冬の名残を引いている。
陸は歩き出しながら、胸元のましろへ小さく言った。
「……少しだけ、時間くれ」
ましろは、ほんの少しだけ明るくなった。




