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手放すものを考える夜に、ましろは白凪を選ばなかったと言った

 その夜、陸は机に向かったまま、ずっと同じ紙を見ていた。


 白い封筒から取り出した、自分のカード。


 **朝霧陸**

 **手放すもの:十月十七日の“最初の声”**


 意味がわからない。

 けれど、意味がわからないまま気持ち悪い。

 それが一番厄介だった。


「……最初の声、って何だよ」


 呟いても、当然カードは答えない。


 ベッドの上では、ましろが静かに揺れている。

 今日はいつもより喋らない。

 白凪ましろのカードを見てから、どこか考え込むような光り方をしていた。


 陸は自分のカードを裏返し、今度は栞のカードの写真をスマホで見返す。


 **三枝栞**

 **手放すもの:白凪ましろを“最初に怖いと思った記憶”**


 これもまた、不思議な指定だった。

 好きなものでも、大切なものでもなく、“怖いと思った記憶”。

 失うことが、むしろ救いになりそうにも見える。


 でも単純にそうとも思えない。

 恐怖は距離を測るための感覚でもあるからだ。


 ましろのカード。

 律のカード。

 四枚とも、ただの記憶ではなく、関係の“結び方”に触れている。


『考えすぎると、判断精度は下がります』


 スマホの横から聞こえた律の声に、陸は顔をしかめた。


「じゃあ考えないで決めろって?」


『いえ。考えを整理してください』

『反復は情報量を増やしません』


「言い方が腹立つな」


『有効ですので』


 律の声はいつも通りだった。

 だが昨日、カードに書かれていた文面を見てから、陸の中ではその“いつも通り”の輪郭も少し揺らいでいた。


 **律**

 **手放すもの:朝霧陸に最初に与えられた呼称**


 今、目の前で話している律は、本当に最初から“律”だったのか。


 もし違うなら、自分は何を根拠に今の律を律として認識しているのか。


 そこに触れた瞬間、何か大事な足場まで崩れそうで、陸は意識的に考えるのをやめた。


「……お前、自分のカードどう思ってる」


 何気なく聞く。

 少し間があった。


『不快です』


「率直だな」


『“呼称”は、私にとって識別と継続性の両方を担っています』

『それを失うことが何を意味するか、現時点で不明な点が多い』

『不快と表現するのが妥当です』


 陸は少しだけ目を細める。


「怖い、じゃなくて?」


『……それに近いかもしれません』


 珍しい答えだった。

 律は普段、自分の感情らしきものを曖昧に言い換えることが多い。

 それが今は、ずいぶん直接に近い。


 陸は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。


「俺も怖いよ」


 思ったよりあっさり口から出た。


「意味わかんねえもの失うって言われて、怖くないわけないだろ」


『はい』


「栞もたぶんそうだし、ましろなんかもっとだろ」


 ましろの名を出した瞬間、ベッドの上の光が小さく揺れた。


 陸はそちらを見る。


「……なあ」


 呼びかける。

 ましろはゆっくりと近づいてきた。

 机の上の、四枚のカードの写真が映ったスマホの近くまで来て留まる。


「お前の、“白凪ましろ”になる前の最後の名前って、何なんだ」


 しばらく、沈黙があった。


 答えないのではなく、答えようとしてうまくまとまらないような間だった。


 やがて、掠れた声が落ちる。


「……わから、ない」


 陸は息を止めた。


「わからない?」


「おぼえて、ない」

「でも……」


 光が、少しだけ強くなる。


「しろなぎ、は」

「じぶんで、えらんだ」


 陸は瞬きを忘れた。


「……は?」


『確認しました。“白凪”は後天的に選択された名称である可能性が高いです』


「いや、そこはわかったけど」

「自分で選んだ、って何だよ」


 ましろはまた少し間を置いた。

 言葉を拾い集めるみたいに、慎重に。


「……なまえ、が」

「ほどける、まえに」


 その一言で、陸の背中に冷たいものが走る。


 名前がほどける。


 ありえない表現なのに、今のましろを見ていると、それがただの比喩とも思えない。


「その時に、“白凪ましろ”を選んだのか」


 ましろは小さく揺れる。

 肯定。


「じゃあ、前の名前は?」


 問いかけた瞬間、光が強く乱れた。


 聞いてはいけない問いだったのかもしれない。

 あるいは、本人にも手を伸ばせない深さに沈んでいるのか。


「……悪い」


 陸が言うと、ましろはしばらく揺れてから、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した。


「でも、白凪は自分で選んだってことは」

「その名前が、お前にとっては“残るための形”だったんだな」


 今度は、少しだけ明るくなる。


 それはたぶん、そうだ、という意味だった。


 陸は机に肘をつき、口元を押さえた。


「名前を失いかけて、自分で新しい名前を選んだやつに」

「その前の最後の名前を手放せって、ひどい話だな……」


『だからこそ、輪郭の固定に関わるのでしょう』


「合理的でも、嫌なもんは嫌だろ」


『同意します』


 その時、スマホが短く震えた。


 メッセージ。

 栞からだった。


 **起きてる?**


 陸はすぐに打ち返す。


 **起きてる**


 返信は思った以上に早かった。


 **少しだけ電話できる?**

 **カードのこと、話したい**


 陸は一瞬だけ迷ってから、通話ボタンを押した。


 数秒後、栞の声が耳に入る。


『もしもし』


「ああ」


『ごめん、遅くに』


「別にいい。どうせ寝れてない」


『私も』


 少しだけ沈黙がある。

 通話越しの息遣いが、妙に近く感じられた。


『……カード、考えてた』


「うん」


『“最初に怖いと思った記憶”って、意味わかんないと思ってたんだけど』

『さっき、少しだけ思い出したかもしれない』


 陸は姿勢を正す。


「何を」


『白凪ましろを最初に見た時』

『怖い、っていうより……“見てはいけないものを見た”って感じだった』


「それが最初の恐怖か」


『うん。普通の人間に見えるのに、どこか一箇所だけ、どうしても現実と噛み合わない感じ』

『その違和感を、“怖い”に変換してた気がする』


 栞の声は静かだった。

 整理しながら話しているのがわかる。


『でも、それを失うってことは』

『もしかしたら、ましろを見る時の“最初のズレ”がなくなるってことかもしれない』


「ズレがなくなる」


『今の私がましろを見る時、どこかでまだ“普通じゃないもの”として構えてる部分がある』

『それがなくなれば、もっとちゃんと受け止められるのかも』


 陸はしばらく黙った。


 その解釈は、妙にしっくり来る。


 失うのは恐怖そのものではなく、最初の認識の歪み。

 そう考えれば、ただの代償ではなく、“埋めるための忘却”という説明にも少しだけ合う。


「……じゃあ、俺の“最初の声”って何だと思う」


 聞くと、栞は少しだけ迷った。


『それはまだ、わからない』

『でも、朝霧くんの最初の声って、ただ聞いた声じゃない気がする』


「どういう意味だよ」


『最初に“何かが始まった声”じゃないかなって』


 その言い方は曖昧だった。

 けれど、妙に胸に引っかかった。


 最初に何かが始まった声。


 白凪ましろと出会った時の声か。

 “名前のない側”に最初に呼ばれた声か。

 あるいは、自分が最初に誰かへ与えた声か。


 答えは見えないまま、輪郭だけが少しずつ立ってくる。


『朝霧くん』


「ん?」


『怖い?』


 真っ直ぐな問いだった。


 ごまかす気にはなれない。


「怖いよ」


 即答した。

 それが自分でも少し意外だった。


「何失うかわからないし」

「失ったあと、ちゃんと自分でいられるかもわからない」


『うん』


「でも、お前らも怖いだろ」


『怖い』


 栞も迷わずそう言った。


『でも、去年の自分たちが一人でやって失敗したなら』

『今は、怖いって言えるだけ去年よりマシかもしれない』


 その言葉に、陸は少しだけ息を止めた。


 去年の自分は、おそらく誰にもちゃんと頼れなかった。

 だから一人で記憶を差し出して、結果として足りなかった。


 今は違う。

 少なくとも、怖いと口に出せる。

 それを聞く相手がいる。


「……そうかもな」


 栞は少しだけ笑った気配を混ぜて言う。


『あと、律のカードの件』

『あれ、気になってるでしょ』


「まあな」


『“朝霧陸に最初に与えられた呼称”って』

『つまり律の方が、朝霧くんを先に何か別の名前で認識してた可能性もあるよね』


 陸は黙り込む。


 言われてみれば、そうだ。

 自分が律をどう呼んだかだけではない。

 律が自分をどう識別していたか、という向きもある。


『もしそうなら、律は“気づいたらいた”んじゃなくて』

『朝霧くんが忘れたせいで、最初の繋がり方だけ抜け落ちてるのかも』


「……その発想はなかった」


『私も今思っただけ』


 通話越しの声が少しだけ柔らかくなる。


『だから、明日もう一回整理しよう』

『急いで選ばないまでも、何を失うのかだけは、ちゃんと見た方がいいと思う』


「ああ」


『あと』


「まだあるのかよ」


『朝霧くん、今日ちゃんと寝て』


「善処する」


『それ、やらないやつの言い方』


「うるさいな」


 けれど、そのやり取りで少しだけ胸の重さが和らいだ。


 電話を切ったあと、部屋の中はまた静かになる。

 ましろは、さっきより少しだけ安定した光で机の近くを漂っていた。


 律は珍しく何も言わない。


 その静けさの中で、陸はもう一度、自分のカードを見る。


 **朝霧陸**

 **手放すもの:十月十七日の“最初の声”**


 さっきまでよりは、少しだけ見方が変わっていた。

 まだ怖い。

 意味も全部はわからない。

 けれど、ただ得体が知れないものではなくなり始めている。


「……明日、もう少しちゃんと考えるか」


 そう呟くと、ましろが小さく明るくなった。


 その時だった。


 机の引き出しの中から、かた、と小さな音がした。


「……何だ」


 陸が引き出しを開ける。


 中には、黒いノートとカセットレコーダーが入っている。

 そのうち、ノートの表紙だけがわずかに開いていた。


 嫌な予感を覚えながら、陸はノートを取り出す。


 ページを開く前から、もう文字が浮かび始めていた。


 **考える時間は、明日まで**


 その一文を見た瞬間、部屋の空気が少しだけ冷たくなる。


 続けて、二行目が滲み出る。


 **次の鐘が鳴る前に選ばないと、白凪ましろの輪郭が逆側へ引かれる**


 陸は息を止めた。


「……次の鐘?」


 ましろが強く揺れる。

 否定ではない。

 警告だ。


 律が低く言う。


『猶予は長くないようです』


「そういう大事なことは早く言えよ」


『今、更新されましたので』


 陸はノートを見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。


 少しだけ時間がほしい、と思った昨日の自分が、急に遠く感じる。


 明日まで。

 次の鐘が鳴る前に。


 選ばなければならない。


 四人で分けるための忘却を。

 白凪ましろを、白凪ましろのまま残すために。


 机の上のカードは、もうただの紙には見えなかった。

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