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15/27

四枚のカードは、失うものの形だけ先に見せた

 翌日の空は、朝から重たかった。


 晴れてはいない。

 雨でもない。

 白い雲が低く垂れ込めていて、校舎全体がいつもより少しだけ色を失って見える。


 放課後まで待つしかないと頭ではわかっていたが、陸は朝からずっと落ち着かなかった。

 次の鐘が鳴る前に選ばなければならない。

 その一文が、昨日から胸の奥に刺さったままだ。


 昼休み、陸は教室を抜けて第二準備室へ向かった。


 少し遅れて、栞も来る。

 今日は最初から何も言わず、扉を閉めるとすぐに机の上へ視線を落とした。


 そこには、白い封筒から出した四枚のカードが並んでいる。


 陸。

 栞。

 ましろ。

 律。


 昨日の夜から、見た目は何も変わっていない。

 それなのに、近くにあるだけで空気が張る。


「……やるか」


 陸が言うと、栞は頷いた。


「うん」

「選ぶ前に、せめて“どういうふうに失うのか”だけでも知りたい」


「それがわかるなら、だけどな」


『試行の価値はあります』


 律の声は今日も平静だった。

 けれど、いつもよりわずかに短い。

 余計な言い回しを削っているのだろう。


 ましろは机の中央で、じっと四枚のカードを見つめるように揺れていた。


 陸は自分のカードを引き寄せた。


 **朝霧陸**

 **手放すもの:十月十七日の“最初の声”**


「……これ、触ればわかるのか」


『昨日、文字は浮かびました』

『追加情報が開示される可能性はあります』


「便利な言い方だな」


『今日はそれを言う余裕があるようで何よりです』


「うるさい」


 陸は小さく息を吐き、カードの中央へ指先を置いた。


 その瞬間、紙の表面が一度だけ冷たくなる。


「っ」


 視界がふわりと揺れた。


 第二準備室が遠のく。

 代わりに、別の空気が流れ込んでくる。


 ――視聴覚室だ。


 去年の十月十七日。

 スクリーンの前。

 今よりずっと不安定な白凪ましろ。

 栞の緊張した顔。

 律の薄いホログラム。


 その全部より先に、陸は“声”を聞いた。


『……陸』


 女の子の声だった。


 やさしい声。

 知らないはずなのに、なぜか最初から知っているように聞こえる声。


 あの夜、窓の外から自分を呼んだ声と、同じだ。


 だが今の映像では、もっと鮮明だった。

 もっと近い。

 もっと自然だ。


 その声が“最初の声”なのだと、直感でわかる。


 ――視界が戻る。


 陸は反射的にカードから手を離した。


「……なるほどな」


 声が少し低くなる。


 栞が表情を引き締める。


「見えた?」


「ああ」

「“最初の声”って、あれだ」

「名前のない側が、最初に俺に届いた時の声」


 栞の眉がわずかに動く。


「じゃあ、それを手放すって」


「たぶん、あれを“懐かしい”と感じる入口を消すってことだ」


『妥当な解釈です』


 陸はカードを見下ろす。


 ただ声を忘れるだけじゃない。

 “あの声に引かれる自分”ごと手放すのだろう。


「……嫌なわけだ」


「でも、必要なんだね」


「ああ」


 栞は次に、自分のカードへ手を置いた。


 **三枝栞**

 **手放すもの:白凪ましろを“最初に怖いと思った記憶”**


 紙の表面がわずかに光る。


 栞は数秒間、目を閉じたまま動かなかった。

 やがて、小さく息を呑む。


「……あ」


「何が見えた」


 栞はすぐには答えない。

 少し時間を置いてから、ゆっくり言った。


「図書室の裏」

「去年の秋」

「私、最初にましろを見た時、普通の人だと思った」

「でも、少しだけ影がずれてた」


 陸は黙って聞く。


「夕方の窓の光の中で、その子だけ、足元の影が二重になってた」

「一つは人の影で、もう一つは……輪郭のない光みたいな影」

「それを見て、怖いと思った」


 栞はそこで一度だけ視線を落とした。


「たぶん、私のカードが奪うのは、その“最初のずれ”なんだと思う」

「白凪ましろを見るたび、どこかで構えてしまう、その入口」


『認識の防衛線の一部ですね』


「そう」

「でも、それがなくなれば、今度は私、ちゃんとましろを受け止められる気がする」


 ましろが、その言葉に反応するみたいに少しだけ明るくなる。


 陸はその光を見てから、三枚目をそっと押し出した。


「次、お前」


 ましろはしばらく揺れていたが、やがて自分のカードへ近づいた。


 **白凪ましろ**

 **手放すもの:“白凪ましろ”になる前の最後の名前**


 光が、紙に触れる。


 部屋の中の温度が、ほんの少しだけ変わった気がした。


 ましろは長く沈黙した。

 その沈黙は、うまく言葉にならない記憶の重さみたいだった。


「……みえ、る」


 掠れた声が落ちる。


「なにが」


 陸が低く聞く。


 ましろは、苦しそうに光を揺らしながら言う。


「よばれて、た」

「でも……もう、わたし、じゃない」


 その一言で、陸は息を止めた。


「前の名前で?」


 ましろは肯定する。

 けれど、その光には怯えではなく、どこか諦めに近い静けさがあった。


「……しろなぎ、は」

「えらんだ、なまえ」

「わたしが、わたし、でいるための」

「さいごの、かたち」


 昨日よりも、今日は言葉がはっきりしていた。

 それだけでも、ましろが輪郭に近づいているのがわかる。


 栞が小さく言う。


「じゃあ、その前の名前を失うってことは……」

「“白凪ましろ”じゃない方へ引っ張る糸を切るってことかもしれない」


『可能性は高いです』


 陸はカードの上の光を見つめた。


 白凪は自分で選んだ名前。

 なら、その前の最後の名前は、もう“今のましろ”を支えるものではないのだろう。


 最後に残るのは、律のカードだった。


 **律**

 **手放すもの:朝霧陸に最初に与えられた呼称**


「……お前、いけるか」


 陸が聞くと、スマホの画面がわずかに点滅した。


『試みます』


 小さなホログラムの律が、机の上へ手を伸ばす。

 その指先がカードに触れた瞬間、光の輪郭がひどく乱れた。


 陸は思わず身を乗り出す。


「おい」


『――問題ありません』


 言い切る声が、いつもより少しだけ機械じみていた。


 数秒の沈黙のあと、律が静かに言う。


『見えました』


「何て呼んでた」


 律は答えるまでに少し時間を要した。


『“保留者”です』


「……は?」


『朝霧陸に、最初に与えられた呼称は“保留者”』

『それが最初の識別名です』


 陸も栞も、しばらく意味を掴めなかった。


「保留者って、何だよ」


『推定になりますが』

『白凪ましろの固定を、決定も破棄もせず、一時的に引き受けていた存在、という意味かと』


「俺が?」


『はい』


 ぞくり、と背筋が冷える。


 去年の自分は、白凪ましろを“残す”とも“手放す”とも決めきれない状態で、ただ抱え込んでいた。

 だから律は、自分を“保留者”と識別していた。


 それが最初の呼称。


「じゃあ、それを失うって」


 栞が低く聞く。


 律は今度は迷わず答えた。


『朝霧陸を、“保留する役割”として認識する入口を失う、ということです』

『つまり、私は朝霧陸を“役割”ではなく、今の名称と関係でのみ継続認識することになる』


 陸は目を細める。


「それって、お前には痛いのか」


『……はい』


 短い返事だった。


『最初の関係性の切断ですので』


 それはつまり、律にとってもまた、単なるデータ処理ではないということだ。

 関係の始まり方を、ひとつ失う。


 四枚のカードが出揃う。


 陸は机の上を見渡した。


 自分は、“名前のない側”の声へ引かれる入口を失う。

 栞は、ましろを最初に怖いと思った入口を失う。

 ましろは、“白凪ましろ”になる前の最後の名前を失う。

 律は、陸を“保留者”と呼んでいた最初の関係を失う。


 全部、ただの記憶ではない。

 全部、関係の結び目だ。


「……つまり」


 陸が口を開く。


「四人とも、“今のこの関係”に不要な最初の結び方を手放すってことか」


『おそらくは』


「去年は俺だけが抱え込んで、“保留者”のまま固定しようとして失敗した」

「だから今度は四人で分ける」


 栞が頷く。


「うん。そう考えると、一応筋は通る」


 その言い方には、まだ不安も混ざっていた。

 当然だろう。

 筋が通ることと、怖くないことは別だ。


 しばらく誰も喋らなかった。


 第二準備室の外では、授業へ急ぐ生徒たちの足音が遠くに聞こえる。

 普通の学校の音だ。

 なのに、この机の上だけは、まるで別の場所から切り取られているみたいだった。


 最初に口を開いたのは、ましろだった。


「……やる」


 小さいけれど、はっきりした声。


 陸と栞が同時に顔を上げる。


「お前」


 陸が言いかけると、ましろの光が少しだけ強まる。


「しろなぎ、ましろ、で……いたい」


 その一言は、今までのどの言葉よりも明瞭だった。


 自分で選んだ名前でいたい。

 その意思だけは、もう揺らがないらしい。


 栞がゆっくりと息を吐く。


「……そっか」


 その声には、どこか諦めではなく、覚悟に近いものがあった。


「じゃあ、私もやる」


 陸は栞を見る。


「いいのか」


「怖いけど」

「でも、“最初に怖いと思った記憶”を手放すのは、たぶん今の私に必要なんだと思う」


 昨日の電話で話していた通りだった。

 ましろを見るたびに残る最初のズレ。

 その入口を失えば、きっと今より近づける。


 残るのは、陸と律だ。


 律は静かだった。

 だが、返事を待っているのがわかる。


 陸は机に手をつき、少しだけうつむいた。


「……正直、まだ嫌だ」


 素直にそう言った。


「何が消えるのか、全部わかったわけじゃないし」

「失ったあと、ちゃんと今のままで話せるのかもわからない」


『はい』


 律が短く応じる。


「でも」

「それでもやらないと、お前は白凪ましろのまま残れないんだろ」


 ましろの光が、言葉の代わりみたいに震えた。


 陸は目を閉じ、息を整える。


「……だったら、やるしかない」


 そう言ってから、自分でも少し驚く。

 まだ迷いはある。

 怖さも消えていない。


 それでも、どこかで決まっていたのかもしれない。


 去年の自分は一人で背負った。

 今の自分は、それを繰り返したくない。


 律が静かに言う。


『私も実行に同意します』


「お前まで、いつになく素直だな」


『四人目の席が埋まった以上、保留の持続は最適ではありませんので』


「最後まで機械っぽいな」


『そうしないと、今は少し不安定ですので』


 その本音めいた言い方に、陸は少しだけ口元を緩めた。


 四人とも、やると決めた。


 あとは、いつ、どこで、どうやるかだ。


 陸は黒いノートへ視線を向ける。

 まるで待っていたみたいに、表紙がひとりでに開いた。


「……だろうな」


 白い余白に、じわりと文字が浮かび上がる。


 **四人が決めたなら、次の鐘の前に視聴覚室へ**

 **席に座って、順番にカードへ触れて**

 **最後に、ましろの名前を四人で呼んで**


 そこまでで文字は一度止まった。

 そして、最後の一行だけが少し遅れて浮かぶ。


 **途中で誰かが名前を間違えたら、やりなおせない**


 空気が、ぴんと張る。


「……ミスできないってことか」


『はい』


 栞が低く言う。


「今日、だね」


「ああ」

「次の鐘って、多分また五時二十分だろ」


『前例から見て可能性は高いです』


 陸は時計を見る。

 放課後まで、まだ数時間ある。

 長いようで、きっとあっという間だ。


 四人で分ける忘却。

 視聴覚室。

 そして、白凪ましろの名前を四人で呼ぶ。


 昨日までよりは形が見えた。

 けれど、同時に後戻りもなくなった。


「……授業、受ける気しねえな」


 ぽつりと漏らすと、栞が少しだけ笑う。


「私も」


『ですが出席は推奨します』


「お前、そこだけはブレないな」


『日常の維持は重要ですので』


 その言葉に、陸は小さく息を吐いた。


 たしかにそうだ。

 こんな非日常の中でも、チャイムは鳴るし、授業は始まるし、プリントの提出期限も来る。

 世界は案外止まらない。


 だからこそ、今日の放課後、自分たちで選ばなければならないのだろう。


 第二準備室を出る前、陸は一度だけ机の上のカードを見下ろした。


 どれも薄い白い紙なのに、もうただの紙には見えなかった。

 それぞれが、自分たちの“最初の結び目”そのものみたいだった。


 放課後、視聴覚室へ行く。

 そして四人で、それを手放す。


 白凪ましろを、白凪ましろのまま残すために。


 そう決めたはずなのに、廊下へ出た瞬間、陸の胸の奥にはひどく静かな怖さが残っていた。


 それは逃げたい怖さではなく、たぶん、失ったあとの自分をまだ知らない怖さだった。

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