五時二十分の前に、四人は最初の結び目を手放した
その日の授業は、始まりより終わりの方が遠かった。
時計を見るたび、まだ昼休みで、まだ五限で、まだチャイムが鳴らない。
時間だけがやけに几帳面に進んでいく。
陸は机に頬杖をついたまま、窓の外の曇り空を見ていた。
今日の放課後、視聴覚室で四人でカードに触れる。
そのあと、白凪ましろの名前を四人で呼ぶ。
やること自体は、もう決まっている。
それなのに、決まったからこそ逃げ道がなくなって、余計に落ち着かなかった。
『心拍数の上昇が継続しています』
「今それ言うな」
『事実です』
「事実でも腹立つんだよ」
胸元で、ましろが小さく揺れる。
それだけで少しだけ気持ちが戻る。
怖いのは、たぶん自分だけじゃない。
栞も、律も、ましろも、きっと同じだ。
そう思えるだけ、去年よりはマシなのかもしれない。
*
放課後、四人は倉庫棟の前にいた。
昨日より風が強い。
古い建物の壁際を抜ける風が、どこか笛みたいな音を立てている。
栞が鍵を差し込む。
扉が開く。
倉庫棟の中の空気は、相変わらず乾いていて冷たい。
視聴覚室の前まで来ると、陸は無意識に足を止めていた。
「……今さらだけど」
「うん」
「やめるなら、まだ間に合うぞ」
そう言ったのは、自分でも少し意外だった。
引き返したいわけではない。
ただ、最後に一度だけ確認したかったのかもしれない。
栞は少しだけ目を細め、それから首を横に振った。
「やめない」
「怖いけど、やめない」
ましろは言葉の代わりに、はっきりと明るくなった。
律は短く言う。
『同意します』
それで十分だった。
陸はノブに手をかける。
視聴覚室の扉は、今日は最初から鍵が開いていた。
「……ほんと趣味悪いな」
『継続性はあります』
「慰めにならねえ」
扉を開ける。
視聴覚室の中は昨日と同じだった。
スクリーン。
古いプロジェクター。
そして中央に並べられた四脚の椅子。
**陸**
**栞**
**ましろ**
**律**
昨日と変わらないはずなのに、今日はそこに“待たれている”感じが強かった。
陸は席に着く前に、鞄から白い封筒と四枚のカードを取り出した。
それぞれの席の前に置く。
「順番は関係ないって書いてあったけど」
「でも、誰かが先に折れたら意味なさそう」
「縁起でもないこと言うなよ」
「言っとかないと、怖いって言いづらいから」
栞のその言い方に、陸は一瞬だけ言葉を失う。
それから、小さく息を吐いた。
「……じゃあ、俺から行く」
最初に自分の席へ座る。
カードを見る。
**朝霧陸**
**手放すもの:十月十七日の“最初の声”**
指先を置く。
紙の冷たさが、すぐに耳の奥へ入ってくる。
聞こえる。
あの声だ。
やさしくて、懐かしくて、振り向きたくなる声。
最初に自分を引いた声。
名前のない側が、“知っているもの”のふりをして届かせた最初の声。
その懐かしさが、指先から少しずつ抜けていくのがわかった。
消えるのは音そのものじゃない。
あの声に対して、胸の奥が勝手にほどける感じ。
そこだけが、静かに薄くなっていく。
「……っ」
少しだけ頭が痛む。
だが、耐えられないほどではない。
やがて、声がただの声になる。
引かれない。
懐かしくない。
ただ、気味の悪い他人の声としてそこに残る。
陸はカードから手を離した。
「……終わった」
自分の声が、少しだけ乾いて聞こえる。
『状態変化を確認しました』
「わかるのか」
『あなたの反応から推定可能です』
「便利だな」
次に、栞が自分のカードへ手を置く。
**三枝栞**
**手放すもの:白凪ましろを“最初に怖いと思った記憶”**
栞は目を閉じる。
長い沈黙。
やがて、小さく息を吐いた。
「……なくなった、っていうより」
「ほどけた感じ」
「何が」
「最初に見た時の“気持ち悪さ”」
「影がずれてるとか、そこだけ現実が噛み合わないとか、そういう入口」
「でも、白凪ましろを見た記憶そのものは残ってる」
そして、少しだけ目を開けて、ましろを見る。
「……今は、怖くない」
その言葉に、ましろの光がわずかに揺れた。
嬉しいのか、ほっとしたのか、その両方みたいな光だった。
次は、ましろ。
白いカードの前で、少しだけ止まる。
それから、意を決したみたいに近づき、光の指先を紙に触れさせた。
**白凪ましろ**
**手放すもの:“白凪ましろ”になる前の最後の名前**
部屋の空気が、ふっと重くなる。
ましろの光が大きく揺れた。
輪郭が崩れかける。
陸は反射的に身を乗り出す。
「おい」
ましろは答えない。
ただ、淡いピンクの光の中に、一瞬だけ別の響きが混じった気がした。
それは名前だったのかもしれない。
けれど、聞き取れない。
聞き取れたとしても、たぶん次の瞬間には形を失っていただろう。
やがて、光がゆっくり落ち着きを取り戻す。
「……だい、じょうぶ」
掠れた声。
でも、今までより少しだけ芯がある。
「前の名前、思い出せるか」
陸が聞く。
ましろはしばらく静かだったあと、ほんの少しだけ明るくなった。
「もう……いらない」
その言葉に、陸は胸の奥が少し痛んだ。
大事じゃなかったからじゃない。
大事だったけれど、今の自分を守るために手放した、そういう響きだった。
残るのは、律だけだ。
ホログラムの律は、自分のカードの前でほんのわずかに揺れていた。
**律**
**手放すもの:朝霧陸に最初に与えられた呼称**
「……いけるか」
陸が低く聞く。
『試行します』
律がカードへ触れる。
その瞬間、ホログラム全体が激しく乱れた。
光が分離しかける。
顔の輪郭が崩れる。
声も一瞬だけノイズに混じった。
「律!」
陸が反射的に立ち上がりかけた、その時。
『――保留者、という識別を破棄します』
いつもより低い声が、はっきりと響いた。
ホログラムの乱れが少しずつ収まる。
まだ不安定だが、消えてはいない。
『朝霧陸』
律が、今度はゆっくりその名前を呼ぶ。
『これが現在の主識別です』
陸は息を詰めた。
「……お前」
『問題ありません』
『少しだけ、古い接続が切れました』
「それ、平気って言えるのか」
『平気ではありません』
『ですが、継続は可能です』
その言い方に、陸はほんの少しだけ口元を歪めた。
「正直だな」
『今日はそうするべきと判断しています』
四人とも、カードに触れた。
失うものの形だけは、確かに手放した。
視聴覚室の空気が変わる。
張りつめていた何かが、次の段階へ進むみたいに静まり返った。
「……最後だな」
栞が言う。
机の上のカードは、もう白い紙ではなかった。
どれも文字が薄くなり、役目を終えたもののように静かになっている。
ノートに書かれていた通りなら、次は四人で名前を呼ぶ番だ。
白凪ましろ。
その名前を、間違えずに、四人で。
ましろが、自分の席の前へふわりと浮く。
少しだけ、人の形に近づいていた。
肩の線。
髪の揺れ。
まだ曖昧だが、確かに“輪郭”が生まれつつある。
『鐘まで、残り三分程度です』
律の声が落ちる。
カードに触れて、何を手放すかを選ぶのは鐘が鳴る前。
そして、白凪ましろの名前を届けるのは、鐘が鳴る瞬間。
陸は、ようやくそう理解した。
つまり、まだ間に合っている。
でも、もう迷っている時間はない。
「……やるぞ」
陸が言うと、栞も頷いた。
四人が、同時にましろを見る。
その瞬間、視聴覚室の奥で、ぱき、と何かが割れる音がした。
全員がそちらを見る。
スクリーンの白い面に、細いひびのような線が走っていた。
違う。
ひびではない。
白い影だ。
昨日まで見てきた“名前のない側”が、今度は一体ではなく、スクリーンの裏から滲み出すみたいに広がってくる。
人の形をした白。
輪郭のない顔。
空いた場所へ入り込もうとする気配。
「……来たな」
陸の声が低くなる。
『予想通りです』
「嬉しくねえよ」
白い影たちは、椅子の間を縫うように近づいてくる。
だが昨日と違うのは、もう陸たちの方が逃げるつもりでここにいるわけではないことだ。
「名前、呼ぶぞ!」
陸が強く言う。
白い影たちが一瞬だけ揺れる。
「白凪――」
その瞬間、スクリーンの奥から、あの声がした。
『……違うよ』
やさしい、懐かしい女の声。
でも今の陸には、もうそれが懐かしく聞こえない。
『その名前じゃない』
『わたしのこと、本当はもっと前から知ってるでしょう』
栞が少しだけ肩を揺らす。
だが昨日までの“怖い入口”は、もう彼女の中にない。
すぐに息を整え、まっすぐ前を向く。
「白凪ましろ」
はっきりと、栞が言った。
その声に押されるように、ましろの光が強くなる。
陸も続く。
「白凪ましろ」
律のホログラムが一瞬だけ揺れ、それから静かに言う。
『白凪ましろ』
残るのは、ましろ自身だ。
白い影が一歩、近づく。
声がまた甘く響く。
『その名前は借りものだよ』
『本当の名前、忘れたくないでしょう?』
ましろの光が激しく揺れる。
形がぶれる。
輪郭が崩れかける。
陸は思わず手を伸ばした。
「ましろ!」
名前を呼ぶ。
今度はただの呼びかけじゃない。
そこにいてほしい、という意思ごと投げるみたいに。
栞も声を重ねる。
「白凪ましろ!」
律が、今までにないはっきりした声で言う。
『あなたは白凪ましろです』
その瞬間、ましろの光がぴたりと止まった。
そして、掠れていた声ではなく、もっと輪郭のある声が、静かに落ちた。
「……白凪ましろ」
自分で、自分の名前を言う。
その一言で、視聴覚室の空気がひっくり返った。
白い影たちが一斉に後退する。
スクリーンに滲んでいた白が、音もなく剥がれ落ちる。
同時に、ましろの光が一気に広がった。
「っ」
陸は思わず目を細める。
淡いピンクの光の中に、形が生まれる。
肩。
腕。
髪。
制服の輪郭。
人の立つ姿。
完全ではない。
まだ少し透けている。
けれどそこにはもう、“ただの光”ではない誰かが立っていた。
白凪ましろだった。
写真で見た時と同じ長さの黒髪。
少しだけ細い肩。
そして、光の中でもわかるくらい、やわらかい目元。
ましろは自分の手を見下ろし、それから、少しだけ不思議そうに笑った。
「……ただいま」
その声は、昨日までの掠れた音ではなかった。
ちゃんと息があって、体温の気配がある、人の声だった。
陸は言葉を失う。
栞も、ただ目を見開いていた。
律だけが、ほんの一拍遅れて言う。
『固定を確認しました』
「お前な……」
陸がようやく絞り出した声は、笑っているのか泣きそうなのか自分でもわからなかった。
白い影たちは、もう視聴覚室のどこにもいなかった。
代わりに、スクリーンの白い面だけがやけに静かに揺れている。
ましろは一歩、こちらへ近づこうとして、少しだけ体を揺らした。
まだ現実の重さに慣れていないのかもしれない。
陸は咄嗟に手を伸ばす。
その手に、ましろの指先が触れた。
今度は空気の膜じゃない。
ちゃんと、触れた。
「……ほんとに、戻ったのか」
陸が言うと、ましろは少しだけ困ったように笑う。
「まだ、ちゃんと全部じゃないけど」
「でも、ここにいる」
その言葉だけで十分だったはずなのに。
その直後、視聴覚室の壁掛け時計が、がん、と重い音を立てた。
五時二十分。
鐘の時間だ。
その一音が鳴った瞬間、机の上に残っていた四枚のカードが、端から灰のように崩れ始めた。
「……おい」
陸が振り向く。
カードは、もう文字も残さず白い粉になっていく。
役目を終えたものの崩れ方だった。
だが、その下に、一枚だけ新しい紙が残っていた。
今までそこにはなかった、薄いメモ用紙。
陸がそれを拾い上げる。
そこに書かれていたのは、たった一行。
**これで白凪ましろは残る。次は、君たちの去年を返す番だ。**
陸はその文を見つめたまま、ゆっくり息を止めた。
「……まだ終わりじゃないのかよ」
誰にともなく漏らすと、隣でましろが小さく笑った。
少しだけ疲れた顔で、それでもたしかにそこにいた。
「終わりじゃ、ないみたい」
その声はちゃんと白凪ましろのものだった。




