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白凪ましろが残ったあと、去年の欠落だけが静かに戻ってきた

 視聴覚室を出たあとも、しばらく誰もまともに喋れなかった。


 倉庫棟の廊下は相変わらず薄暗い。

 けれど、さっきまでそこに満ちていた“名前のない側”の気配は、もうない。


 残っているのは、ただ古びた建物の匂いと、四人分の足音だけだった。


 四人。


 その数え方が、やっと自然になったことに、陸は歩きながら少し遅れて気づく。


 隣には栞がいる。

 スマホの中には律がいる。

 そして、その少し前を、白凪ましろが自分の足で歩いていた。


 まだ、少し危なっかしい。

 歩幅が身体に馴染んでいないみたいで、時々わずかによろける。

 それでも、ちゃんと人間の歩き方だった。


「……大丈夫か」


 陸が低く声をかけると、ましろは振り返った。


 その動きがあまりにも自然で、陸は一瞬だけ言葉を失う。


「うん。ちょっと、まだ軽いけど」


「軽い?」


「足の裏の感覚が変」

「床がちゃんとあるのに、少しだけ、遅れてくる感じ」


「嫌だなその表現」


 そう言ったのは栞だった。

 けれど声はやわらかい。


 ましろは小さく笑う。

 その笑い方も、写真の中で見たものに少し似ていた。


 陸は視線を逸らすように前を向く。

 見慣れていない。

 昨日まで光だったものが、今はこうして隣で笑っている。


 頭では繋がっているのに、感覚が少し追いつかない。


『身体感覚の再同期には時間が必要と思われます』


 律が言う。


「お前、その辺だけ妙に冷静だな」


『固定が成功した時点で、次は馴染ませる段階ですので』


「お前はほんと、最後まで処理っぽいんだよ」


『事実の整理は重要です』


「でも、少しありがたい」


 陸がそう言うと、律は一拍だけ黙った。

 その沈黙が、いつもより妙に人間っぽく聞こえた。


     *


 倉庫棟を出た四人は、そのまま第二準備室へ戻った。


 他の場所でもよかったのかもしれない。

 けれど結局、ここが一番“始まり”に近い気がした。


 古い椅子。

 薄暗い窓辺。

 ましろを最初に“ただの光ではない”と認識した場所。


 ここへ戻ってきた時、陸はようやく少しだけ呼吸を整えられた。


「……一回、座るか」


 栞が言う。


「賛成」


 陸も頷く。


 第二準備室の中は、あの時と同じように少し埃っぽい。

 なのに今日は、不思議と現実味が強かった。

 さっきまで視聴覚室で起きていたことの方が、むしろ遠い。


 机の上に、カードの下に残っていたメモが置かれる。


 **これで白凪ましろは残る。次は、君たちの去年を返す番だ。**


 その一行を、四人とも何度も見た。


「……“返す”って何だろうね」


 栞がぽつりと呟く。


「普通に考えたら、失った記憶を戻すって意味だけど」


「去年の俺が一人で埋めた穴を、今度はちゃんと回収するってことかもな」


 陸が答える。


 律が補足する。


『ただし、“返す”の主体が不明です』

『誰が、誰に、何を返すのか』

『その関係はまだ曖昧です』


「わかってることの方が少ねえな」


『はい』


「そこは迷わず認めるんだな」


 ましろは机の上のメモを見つめていた。

 いや、正確には、その文字の向こうを見ているようだった。


 陸は少しだけ迷ってから聞く。


「……お前、覚えてること増えたか」


 ましろはしばらく黙っていた。

 その横顔には、昨日までの“光の揺れ”ではなく、ちゃんと考えている人の表情がある。


「少しだけ」


「どのくらい」


「断片」

「でも、前よりはずっと人の形」


 その言い方に、栞が少しだけ目を細める。


「たとえば?」


 ましろは、机の木目を指先でなぞった。

 触れている。

 その当たり前の事実が、まだ少し不思議だ。


「図書室の匂い」

「昼の窓の光」

「栞の声」

「律の、少し変な言い回し」

「あと……」


 そこで、ましろの視線が陸へ向く。


「陸が、最初に“ましろ”って呼んだ時の感じ」


 陸は思わず目を逸らした。


「それは、覚えてるのか」


「うん」

「名前が、ほどけなくて済んだ感じがした」


 その言葉は静かだった。

 けれど重みがあった。


 自分が何気なく口にした名前が、誰かを“現象”ではなく“存在”に留めたのだとしたら。

 それは思っていたよりずっと大きい。


 陸は喉の奥が少し詰まるのを感じたが、結局ごまかすように言った。


「……それは、よかったな」


「うん」


 ましろは素直に頷いた。


 その反応があまりにもまっすぐで、陸は余計に困る。


 気まずい沈黙を切ったのは栞だった。


「じゃあ、次は“去年を返す”ための手がかり探しだね」


 現実的な声。

 少しだけ救われる。


「去年の何が欠けてるのか、まず整理しよう」

「朝霧くんは十月後半が薄い」

「私も、そのあたりの印象が曖昧」

「律は起源の情報が欠けてる」

「ましろは……」


「前の名前と、その前後」


 ましろが静かに補う。


「たぶん、その時に起きたことも」

「全部じゃないけど、まだ抜けてる」


 四人の欠落は、完全に同じではない。

 でも重なっている。

 去年の十月十七日を中心に、何かが起きて、その結果としてそれぞれの“最初の結び目”が歪んだ。


「やっぱり、視聴覚室の続きを見ないと駄目なんじゃないか」


 陸が言う。


「昨日、映像は途中で止まった」

「その先に多分、去年の失敗がある」


 栞は少しだけ迷う顔をした。


「でも、去年の自分が“この先は今の俺たちが入るところじゃない”って」


「言ってたな」


「じゃあ、そのまま映像の続きを見るのは、まだ危ないのかも」


 その懸念はもっともだった。


 去年の自分がわざわざ止めた理由がある。

 ただの演出ではない。

 なら、無理に続きを見ることは、また同じ失敗に近づくことかもしれない。


 律が言う。


『映像そのものではなく、当時の周辺記録を探す方が先かもしれません』


「周辺記録?」


『十月十七日以前、あるいは直後の記録です』

『ノート、名簿、貸出台帳、レコーダー、写真』

『これまでも直接的な場面より、その周辺に手がかりがありました』


 陸は机に肘をつきながら考える。


「去年の失敗そのものじゃなくて、その前後を埋めていくってことか」


『はい』

『“返す番”という表現からも、段階的な回収の可能性が高いと考えられます』


 ましろが、そこで小さく首を傾げた。


「……ねえ」


 三人の視線が向く。


「去年のノート、全部読んだ?」


 陸は一瞬言葉に詰まる。


「いや、全部じゃない」

「必要なとこだけ、追ってた感じだな」


「まだ、後ろの方に何かあるかも」


 その一言で、空気が少し変わる。


 たしかにそうだった。

 黒いノートは、今まで“必要な時に必要なページだけ開く”ような振る舞いをしていた。

 けれど、それが全部ではない可能性は最初からあった。


 陸は鞄からノートを取り出した。

 表紙はいつもより少しだけ静かだ。

 自分から開く気配はない。


「……後ろから見るか」


『合理的です』


「今日はその言葉に助けられてる気がしてきた」


『光栄です』


 陸が後ろの方からページをめくる。


 最初の数頁は空白。

 その次も空白。

 だが、あるところで指先がぴたりと止まった。


 紙の中央に、鉛筆で薄く書かれた走り書きがある。


 インクではない。

 浮かび上がる文字でもない。

 最初からそこに、消し忘れみたいに残っていた文字だ。


 **失敗のあとに残った場所**

 **・第二準備室**

 **・図書準備室**

 **・時計塔の下**

 **・視聴覚室**

 **・保健室の奥の戸棚**


「……保健室?」


 栞が眉をひそめる。


「そんな話、今まで出てきた?」


「いや」


『初出です』


 その下には、さらに小さく書かれている。


 **白凪ましろが残るなら、最後はそこから返す**

 **でも、行くなら先生がいない時に**


 陸はノートを見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。


「次、決まったな」


 栞が少しだけ顔をしかめる。


「保健室か……」

「一番日常に近い場所なのに、一番嫌な感じするね」


「わかる」


 ましろはその単語を口の中で確かめるみたいに、小さく繰り返した。


「……ほけんしつ」


 何か引っかかったのか、少しだけ表情が動く。


「覚えあるか?」


 陸が聞くと、ましろは迷うように揺れた。


「ベッドの白」

「消毒の匂い」

「あと……」


 そこで眉を寄せる。

 今のましろに表情があることに、陸はまた少しだけ見慣れない気持ちになる。


「泣いてた、気がする」


 その言葉に、三人とも一瞬だけ黙った。


「誰が?」


 栞が静かに聞く。


 ましろは首を小さく振る。


「わからない」

「わたしか、だれか、どっちか」


 保健室。

 泣いていた誰か。

 去年の失敗のあとに残った場所。


 そこまで揃うと、次に行くべき理由としては十分すぎた。


「……今日はもう遅いな」


 陸が時計を見る。

 五時二十分はとっくに過ぎている。

 これ以上動くのは危ない。


「明日、保健室か」


 栞が言う。


「ああ」

「できれば昼じゃなく、放課後」

「先生がいない時って条件もあるし」


「なら、私が先生の当番とか確認してみる」

「保健室の先生、水曜は会議で少し早く抜けることがあるから」


「助かる」


 そう返したあと、陸は机の上のメモをもう一度見た。


 **次は、君たちの去年を返す番だ。**


 白凪ましろは残った。

 それはもう確かなことだ。

 でもその代わり、去年の自分たちに空いた穴はまだ残ったまま。


 そこを埋めない限り、本当の意味では終わらないのだろう。


 ましろが、ふいに立ち上がった。


 いや、立ち上がる、という表現でいい。

 ちゃんと自分の足で立っている。


「……かえる?」


 少しだけ首を傾げて聞く。


 その仕草があまりにも普通で、陸は一瞬だけ目を丸くした。


「そうだな」


 そう答えると、ましろは小さく頷いた。


 普通に帰る。

 たったそれだけの言葉が、今の四人には少し特別に聞こえる。


 第二準備室の扉を開ける。

 廊下の先には、夕方の学校がまだ残っていた。


 完全に日常へ戻れたわけではない。

 でも、少なくとも今は、四人で同じ方向へ歩ける。


 その事実だけで、昨日より少しだけましだった。


 廊下を歩きながら、陸は胸の奥で静かに思う。


 明日は保健室へ行く。

 去年の欠落を返すために。


 そして、その先にようやく、本当に終わるための何かがあるのかもしれない、と。

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