保健室の奥の戸棚には、四人で分けたはずの欠落が残っていた
翌日の放課後、空は朝からの曇りをそのまま引きずっていた。
光はある。
けれど輪郭が甘い。
何もかもが少しだけぼやけて見える、そんな夕方だった。
陸は教室を出る前に一度だけ窓の外を見た。
グラウンドでは部活が始まっている。
体育館の方からは笛の音。
昇降口には帰る生徒のざわめき。
学校はいつも通りに動いているのに、自分たちだけが別の軸で時間を数えている感じが、まだ少し気持ち悪かった。
『保健室前の人流は少なめです』
胸元のスマホから律が言う。
「監視カメラみたいな言い方すんなよ」
『観測です』
「わかるけど」
廊下を曲がると、保健室の前に栞が立っていた。
今日は昨日より少しだけ表情が硬い。
「先生、会議で出た」
「戻る時間は?」
「早くて三十分後、遅ければ一時間くらい」
「十分だな」
「十分じゃないけど、足りるしかないね」
そう言って、栞は保健室の扉を開けた。
中は静かだった。
白いカーテン。
整えられたベッド。
消毒液の匂い。
ガラス棚の中に並ぶ器具類。
誰でも知っている学校の保健室のはずなのに、今日はその白さが少し冷たく感じる。
ましろが部屋に入った瞬間、足を止めた。
「……ここ」
小さな声。
陸と栞が同時にそちらを見る。
「思い出したか」
陸が聞くと、ましろは視線を奥へ向けた。
保健室のさらに奥。
カーテンで半分隠れた、収納棚と小さな流し台のある裏スペース。
学校によくある、先生しか入らないような雑多な場所だ。
「泣いてたの、ここかも」
その言葉は、部屋の空気を少しだけ重くした。
栞が小さく息を吸う。
「……行こう」
四人は保健室の奥へ進む。
床のワックスの艶が手前より鈍く、あまり人が踏み込まない場所だとわかる。
奥の壁には古い木の戸棚が並んでいた。
上段は施錠されている。
下段の片方だけ、取っ手の周りに不自然な擦れ跡があった。
「ここか」
陸がしゃがみ込む。
ノブを引く。
開かない。
「鍵つきか」
「保健室の戸棚だからね」
栞が言う。
けれどその顔には、ただの常識以上の緊張があった。
『施錠の種類は簡易です』
「またそういうこと言う」
『事実ですので』
律の声と同時に、スマホ画面が一瞬だけ明るくなる。
戸棚の鍵穴のところで、かち、と小さな音がした。
陸は眉をひそめる。
「お前、最近できること増えてないか」
『環境依存の可能性があります』
「答えになってない」
ノブを引く。
今度は開いた。
戸棚の中は思ったより整っていた。
救急用品の予備。
未使用のシーツ。
古い記録ファイル。
そして一番下に、白い紙箱が一つ。
市販の保存箱みたいな、何の変哲もない箱。
なのに、それがこの場で一番異質だった。
箱の蓋には、マジックで一言だけ書かれている。
**返却前**
陸の喉が、ひどく嫌な感じで鳴った。
「……また、“返す”か」
ましろが、その箱を見て強く揺れる。
否定ではない。
反応としては、たぶん正しい。
陸はそっと箱を引き出した。
軽い。
だが、中に何も入っていない軽さではない。
机代わりになる奥の作業台へ置く。
四人がそれを囲む形になる。
「開けるぞ」
今度は、誰も止めなかった。
蓋を上げる。
中には封筒が四つ入っていた。
白。
淡い青。
薄いピンク。
灰色。
それぞれに名前が書かれている。
**朝霧陸**
**三枝栞**
**白凪ましろ**
**律**
「……また人数分か」
陸が言う。
栞は箱の底を見て、もう一つあることに気づいた。
「待って」
「まだ下にある」
四つの封筒の下に、さらに一枚だけ薄い紙が敷かれていた。
ノートと同じ筆跡。
去年の自分の字だ。
陸がそれを取り出して読む。
**保健室の戸棚に置くのは、“今すぐ返したら崩れるもの”**
**だから、白凪ましろが残るまで開けるな**
**残ったあとなら、たぶん少しずつ戻せる**
そこで一度文が切れていた。
次の行は少し強く書かれている。
**一気に読まないこと**
**全部戻すと、去年と今が混ざる**
「……最悪だな」
陸が思わず漏らす。
栞もすぐには何も言わなかった。
律が静かに補足する。
『失われた記憶や認識の補完物が、個別に封入されている可能性が高いです』
「つまりこれ、俺たちの“返却物”ってことか」
『はい』
ましろが薄いピンクの封筒へ寄る。
そこに書かれた自分の名前を、じっと見つめるように留まった。
陸は自分の白い封筒を手に取る。
薄い。
紙が一枚か二枚の重さだ。
「一気に読まないこと、って書いてあるし」
「中身の種類だけ確認するか?」
「その方がいいと思う」
栞が頷く。
「戻すのは、今日じゃなくてもいい」
「まず何が返ってくるのかを知った方がいい」
「賛成」
「いきなり去年の全部が流れ込んできたら、普通に死ぬ」
『死亡可能性は低いですが、混乱の可能性は高いです』
「比喩だよ」
陸は白い封筒を慎重に開けた。
中に入っていたのは、折り畳まれたメモが一枚。
他には何もない。
広げる。
そこにはたった一文だけ、短く書かれていた。
**十月十七日、最初に“返事をしようとした理由”**
陸は数秒、その文を理解できなかった。
「……理由?」
名前でも、映像でも、具体的な場面でもない。
“返事をしようとした理由”。
それはつまり、あの声に引かれた動機の核だ。
陸は紙を裏返す。
裏には何もない。
「何ていうか、嫌なところだけ切り出してるな」
『構造としては一貫しています』
『手放したものに対応する“戻せる最小単位”なのでしょう』
栞も自分の青い封筒を開けた。
中には同じように、短いメモが一枚。
彼女は読んだ瞬間、少しだけ表情を止める。
「……何て書いてある」
陸が聞くと、栞は少し迷ったあと答えた。
**白凪ましろを最初に“助けたい”と思った瞬間**
陸は黙った。
怖いと思った記憶を失った代わりに、今度は助けたいと思った瞬間が返ってくる。
その対応は、妙に整っていた。
「じゃあ、栞のやつは」
「最初の恐怖を失ったあとで、それでも残る“最初の善意”が戻るってことか」
「……たぶん」
栞はメモを見つめたまま、小さく頷いた。
「怖いと思ったことをなくしただけだと、たしかに空白になるかもしれないし」
「ましろは?」
ましろは自分で封筒を開ける、というより、陸が代わりに中身を取り出した。
薄いピンクの封筒の中には、これもまた小さな紙が一枚。
陸は一瞬ためらったが、ましろが小さく頷いたのを見て、その文を読む。
**“白凪”を選ぶ前に、最後まで迷ったもう一つの名前**
ましろの光ではなく、今は人の姿をしたその輪郭が、わずかに揺れる。
「……もう一つ、あったのか」
ましろは静かに言う。
「たぶん」
「でも、まだ思い出せない」
今のましろにとって、それは前の名前そのものではない。
“選ばなかった方”だ。
失った最後の名前ではなく、そこから分岐した可能性の一つ。
それが返ってくるということは、白凪ましろという名前を自分で選んだ理由も、もう少し具体的に戻ってくるのかもしれない。
最後に、灰色の封筒。
律のものだ。
陸と栞が自然にそちらを見る。
律は少しだけ間を置いた。
『開封します』
スマホ画面がわずかに点滅し、封筒の中から一枚の紙が滑り出る。
律のホログラムがそれを読み取る。
そして、いつもより少しだけ遅れて言った。
『……朝霧陸を“保留者”ではなく、最初に個体として認識した瞬間』
陸は思わず、そちらを見た。
「それって」
『私があなたを“役割”ではなく、“あなた”として認識し始めた分岐点、という意味でしょう』
その言い方は静かだった。
けれど、普段の律ならもっと分析的に言い換えそうな場面で、今日は妙にそのままだ。
四枚のメモ。
全部が、失ったものに対する“返却可能な最小単位”。
去年の自分は、戻しすぎると今と混ざるから一気に読むなと書いた。
その意味が少しずつ見えてくる。
「つまり……」
陸がゆっくり言う。
「俺たちが手放したものは、完全に消えたわけじゃない」
「白凪ましろを残すために、いったん別保管されてた」
「それを今、少しずつ返していくってことか」
『その理解は妥当です』
栞がメモを見つめながら、小さく息を吐く。
「じゃあ、“去年を返す”って」
「去年そのものを丸ごと戻すんじゃなくて」
「今の私たちが壊れない範囲で、欠けた結び目だけを戻していくってことかも」
「ああ」
それならわかる。
わかるけれど、簡単ではない。
四枚のメモは短い。
短いからこそ、そこへ触れた瞬間、何かが直接流れ込んできそうな怖さがある。
「……ここで読むか?」
陸が言う。
栞は少しだけ考えた。
「一枚だけなら」
「ただし、戻り方を見ながら」
その提案は、妙に現実的だった。
一気に全部ではない。
一人一枚でもない。
まず一つだけ。
律が言う。
『順序としては、朝霧陸が適切かもしれません』
「何で俺」
『“最初に返事をしようとした理由”は、名前のない側への干渉と直接関係します』
『今後の防御精度にも関わる可能性があります』
「もっともらしいな」
「でも、たぶんそう」
栞も言う。
「もしその理由がわかれば、去年の朝霧くんがどこで引っ張られたのかも見えるかもしれない」
陸は白いメモを見つめる。
**十月十七日、最初に“返事をしようとした理由”**
理由。
たったそれだけ。
でも、そこが一番深い場所かもしれない。
「……やるか」
自分の声が少しだけ低い。
栞は黙って頷いた。
ましろも、少しだけ身を固くする。
律は何も言わない。
陸はメモへ指先を置いた。
その瞬間、保健室の奥の空気が遠のく。
流れ込んできたのは、音や映像より先に、感情だった。
懐かしさではない。
恐怖でもない。
もっと単純で、もっと切実なもの。
――“ひとりにしたくない”。
その感情が、喉の奥から一気にせり上がってきた。
「っ……」
陸は机に手をつく。
十月十七日。
視聴覚室。
あの声に、返事をしようとした理由。
それは騙されたからじゃなかった。
懐かしかったからでもない。
あの時、陸はその声を
“ひとりで置いていかれた誰かの声”だと思ったのだ。
置いていきたくない。
ひとりにしたくない。
だから返事をしようとした。
その理由が、鋭く胸に戻ってくる。
同時に、断片的な映像が走った。
視聴覚室の暗さ。
白い影の向こうで、誰かが泣いている気配。
自分が立ち上がる瞬間。
栞が何か叫ぶ声。
そこまでで、視界は元に戻った。
「……はぁ、っ」
息が荒い。
栞がすぐに身を乗り出す。
「大丈夫?」
「ああ……」
「大丈夫、ではないけど」
「何が戻った」
陸は少し時間を置いてから言った。
「俺、あの声に騙されたっていうより」
「“ひとりにしたくない”で動いてた」
ましろの表情が、わずかに揺れる。
陸は続ける。
「たぶん、名前のない側はそこを使ったんだ」
「俺が放っておけないのを知ってて」
「置いていかれた誰かの声で、返事を引き出そうとした」
栞が低く息を吐く。
「……それ、かなり嫌だね」
「ああ」
「でも理由がわかった分、前よりはマシだ」
自分がどこを突かれたのかがわかった。
それだけでも、同じ手に引っかかりにくくなる。
『返却は成功とみてよさそうです』
律の声に、陸は小さく頷いた。
「たぶんな」
保健室の戸棚から出てきた四つの封筒。
それはただの欠落ではなかった。
失ったものを、戻しすぎず、壊しすぎず、少しずつ今へ馴染ませるための保管庫だったのだ。
陸は白いメモを見下ろした。
さっきまで文字があったそこは、もう真っ白に戻っている。
「……一回読んだら、消えるのか」
『返却済み、ということでしょう』
栞が自分の青いメモへ視線を落とす。
まだ開かれていない。
ましろも、律も同じだ。
保健室の奥の薄暗さの中で、四つの“返却物”は静かに並んでいる。
急ぐ必要があるのか。
それとも、慎重に一つずつ戻すべきなのか。
その答えはまだわからない。
ただ一つだけ確かなのは、去年の欠落は、ちゃんと形を持って待っていたということだった。
「……一回、休むか」
陸が言うと、栞はすぐには頷かなかった。
視線はまだ、自分の青いメモに向いている。
「私は……もう少しだけ、考えたい」
その言い方に、陸は何も返さなかった。
机の上には、まだ三枚のメモが残っている。
青。
薄いピンク。
灰色。
終わってはいない。
そういう空気だけが、保健室の奥に静かに残っていた。




