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栞に返ったのは、怖さより先に伸びた手だった

 保健室で陸の返却を終えたあと、四人は一度、第二準備室へ移動していた。


 あの白い部屋でこれ以上続けるには、少し空気が重すぎたからだ。

 保健室の奥に残っていた箱と封筒だけを持ち出し、四人はいつもの古い準備室へ戻ってきた。


 陸の白いメモが真っ白に戻ったあとも、第二準備室の空気はしばらく動かなかった。


 机の上には、まだ三枚のメモが残っている。


 青。

 薄いピンク。

 灰色。


 どれも小さい紙なのに、見ているだけで神経が削れる感じがする。


 陸は自分の胸の内側を確かめるように、そっと息を吐いた。

 “最初に返事をしようとした理由”は戻った。

 完全な記憶ではない。

 でも、あの声に引かれた自分の弱い場所だけは、はっきり輪郭を取り戻している。


 ひとりにしたくない。

 置いていきたくない。


 その感情が利用されたのだとわかった今、昨日までよりは、あの声に対する距離が少しだけ測れる。


「……どうする」


 陸が言う。


「今日はもう一枚までにするか」


 それが妥当な提案のはずだった。

 さっきの返却だけでも、頭の奥がまだ少し熱い。


 けれど、栞は青いメモを見つめたまま、静かに首を横に振った。


「私も、今やる」


 陸が顔を上げる。


「大丈夫か?」


「大丈夫じゃないかもしれない」

「でも、今の朝霧くんの見てたら、返ってきたものの意味を先に知った方がいい気がする」


 その言い方は、少しだけ硬かった。

 怖がっていないわけじゃない。

 むしろちゃんと怖がっている。


 それでも、やると決めた声だった。


 ましろが栞のほうを見る。

 そして、ほんの少しだけ近づいた。


「……いいの?」


 人の声になってからのましろの問いは、前よりずっと真っ直ぐだ。


 栞はその光……ではなく、今はもう人の形をしたましろの輪郭へ視線を向けて、小さく笑った。


「たぶん、ここで引いたらまた変に構えるから」

「それは嫌」


 その答えに、ましろは少しだけ安心したように見えた。


 栞は青いメモを自分のほうへ引き寄せる。


 **三枝栞**

 **手放すもの:白凪ましろを最初に“怖いと思った記憶”**


 その文の下に、まだ返されていないもう一枚。


 **白凪ましろを最初に“助けたい”と思った瞬間**


「……いく」


 誰にともなくそう言って、栞が青いメモへ指先を置く。


 紙の表面が静かに冷たくなった。


 栞の肩がわずかに揺れる。

 目は閉じていない。

 けれど視線は、もう第二準備室にはなかった。


「……図書室」


 小さく、そう呟く。


 陸も律も口を挟まない。

 ましろだけが、ほんの少しだけ身を固くした。


 栞の声が、少しずつ記憶の向こう側へ落ちていく。


「放課後で……」

「まだ、窓の光が残ってて」

「本棚の間、いつもより暗くて……」


 そこで栞の指が少しだけ震えた。


「最初に見た時、やっぱり、怖かった」

「影がずれてたから」

「そこだけ現実にうまく乗ってない感じで……」

「だから、一回、見なかったことにしようとした」


 陸は黙って聞く。


 手放したはずの“怖いと思った記憶”の形だけを、今は外側からなぞっているようだった。

 すでに自分の中からは切り離されているのに、どんなものだったかはわかる。

 妙な感覚だ。


「でも……」


 栞の声が少しだけ変わる。

 緊張の底に、別の熱が混じる。


「本棚の角を曲がったら」

「その子、床にしゃがんでた」


 ましろが、机の上でぴくりと揺れた。


「泣いてる、っていうのとも違った」

「声は出してないし、顔も下向いてて、ただ、何かを必死に抱えてた」


 栞の眉が少しだけ寄る。


「最初、ノートかと思った」

「でも違った」

「……名前」


 その一言に、第二準備室の空気が少しだけ張る。


 陸が低く聞く。


「名前を抱えてた?」


 栞は小さく頷く。

 視線はまだ遠いまま。


「紙に、何回も書こうとしてた」

「でも、最後まで書けないみたいで」

「“白”までは見えた」

「でもその先が、何度書いても崩れてた」


 ましろが、はっきりと息を呑んだ。

 人の姿になってから、その反応も前よりずっとわかりやすい。


 栞は続ける。


「私、その時思ったの」

「怖い、とか、変、とかより先に」

「この子、放っておいたらほんとに一人になるって」


 その声は静かだった。

 でも、強かった。


「だから、手が出た」

「声かけようとか、正しいことしようとかじゃなくて」

「先に、本をどかしてた」

「机の上を空けてた」

「座れるようにしてた」


 陸はその情景を想像する。


 放課後の図書室。

 本棚の影。

 まだ人だった頃の白凪ましろ。

 その前で、理由も整理できないまま手を動かす栞。


 たぶん、それが“最初に助けたいと思った瞬間”なのだろう。


「……それで、何て言ったんだ」


 陸が聞く。


 栞の喉が小さく動く。


「“名前、書けないの?”って」


 その言葉に、ましろの光……ではなく、今の輪郭が、ひどく静かに揺れた。


 栞はそこで、ほんの少しだけ笑うような、泣きそうな顔をした。


「今思うと、もっとマシな聞き方あったと思う」

「でも、その時はそれしか出てこなかった」


「十分だろ」


 陸が言うと、栞は目を開けた。

 記憶から戻ってきたらしい。

 呼吸が少しだけ乱れている。


「……そうかな」


「少なくとも、俺よりはマシだと思う」

「俺なんか最初、“発光体?”だぞ」


 その言葉に、栞は一瞬だけ呆れた顔をして、それから本当に少しだけ笑った。


「確かにそれは雑」


『分類としては誤っていません』


「お前は黙ってろ」


 やり取りが少しだけ空気を緩める。

 だが、そのあとで栞は机に手をつき、真面目な顔に戻った。


「……もう一個、戻ってきたかも」


「何が」


 栞は自分の青いメモを見下ろした。

 さっき陸の白いメモがそうだったように、もう文字は真っ白に戻っている。


「その時、私」

「ましろに、席だけじゃなくて、自分の図書委員バッジも渡してる」


 陸が眉をひそめる。


「バッジ?」


「うん。名前が書けないなら、今日はそれでいいって」

「“三枝じゃなくていいから、とりあえずここにいて”って」

「そう言った記憶が、今ちょっとだけ戻ってる」


 その言葉は、陸の胸に小さく引っかかった。


 とりあえずここにいて。


 名前が定まらない相手へ、先に“場所”を渡した。

 それが栞の最初の助け方だったのだ。


 ましろが、ほんの少しだけ前へ出る。


「……しおり」


 呼ばれて、栞が顔を上げる。


「そのバッジ」

「おぼえてる」

「青くて、少しだけ、はげてた」


 栞の目が、わずかに見開かれた。


「……うそ」


「ほんと」

「それ、つけてると、まだだいじょうぶ、って思えた」


 それは昨日の“ありがとう”より、もっと深く栞に届いたらしい。

 彼女は少しだけ言葉を失って、それからゆっくり息を吐いた。


「そっか」


 その一言の中に、いろんな感情が混ざっているのがわかる。


 怖さより先に伸びた手。

 名前より先に渡した場所。

 その小さな善意が、ちゃんと白凪ましろの中に残っていた。


 陸はそんな二人を見ながら、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。


「……返却って、ただの記憶戻しじゃないんだな」


『関係の復元に近いのでしょう』


 律が言う。


『欠落していた結び目を、今の状態に合わせて再接続している』

『そのため、一気に戻すのではなく、最小単位での返却が必要だった』


「つまり、壊れないように、ってことか」


『はい』


 栞は青いメモをそっと机の端へ寄せた。


「たぶん、もう私は」

「ましろを“最初に怖かったもの”として見る入口は、完全に閉じた」


「助けたいと思った側だけが戻った、ってことか」


「うん」

「そういう感じ」


 ましろが、今度ははっきりと笑った。


 写真で見た時より少し控えめで、でも確かにその人のものだとわかる笑い方。


「……うれしい」


 その一言が、静かな部屋に落ちる。


 陸はそれを聞きながら、残る二枚へ視線を向けた。


 薄いピンク。

 灰色。


 ましろの“もう一つの名前”。

 律の“保留者ではない最初の認識”。


 どちらも、今の二つよりさらに核に近そうだった。


「……残り二つ、今日やるか?」


 陸が言うと、今度は栞もすぐには答えなかった。


 ましろが少しだけ考える顔をする。

 律もまた、いつものようにすぐ合理性を口にしない。


 その沈黙の重さだけで、次の二つが別格なのだとわかる。


 やがて、律が低く言った。


『今日は一つまでにしておいた方がいいと考えます』


「珍しいな」


『現在の白凪ましろの固定は安定していますが、完全ではありません』

『“もう一つの名前”への接触は、今の輪郭に直接影響する可能性があります』


 陸は頷いた。

 納得できる理由だった。


「じゃあ、今日はここまでか」


 ましろが少しだけ残念そうに見えたが、すぐに頷いた。


「……うん」

「でも、あしたは、やる」


 その声は静かだけれど、はっきりしていた。


「白凪でいたいんだもんな」


 陸が言うと、ましろはまっすぐこちらを見る。


「うん」

「でも、えらばなかった名前も、ちゃんと知りたい」


 その言葉に、陸は少しだけ息を呑んだ。


 ただ白凪でいられればいい、ではない。

 今のましろは、自分が何を選んだのか、その分岐そのものを知りたいのだ。


 それはたぶん、人として自然な欲求だった。


「……じゃあ、明日だな」


 そう言うと、栞も頷く。


「明日、ましろ」

「その次に、律」


「順番もそれでいいと思う」


『異論はありません』


 四人の答えが、ようやく揃う。


 白い封筒から出てきた四つの返却物。

 今日はそのうち一つと、もう一つが今へ戻った。


 十月十七日に返事をしようとした理由。

 そして、怖さより先に伸びた手。


 それだけでも、去年の欠落は少しずつ形を取り戻し始めている。


 第二準備室の窓の外は、いつの間にか薄暗くなっていた。

 春の夕方は長いようで短い。


 陸は立ち上がり、机の上のメモとノートをまとめる。


「帰るか」


「うん」


 栞も立つ。

 ましろも、それに合わせて自然に動いた。


 そして、第二準備室を出る直前、栞がふと振り返る。


「ねえ、朝霧くん」


「何だ」


「昨日までよりは、ちょっとだけ怖くない」


 その言葉に、陸は少しだけ目を細めた。


「俺も」

「まだ怖いけど、昨日までよりはマシだ」


 律が小さく言う。


『進展を確認しました』


「最後までその言い方なんだな」


『私はそういう存在ですので』


 でも、その声も昨日までより少しだけやわらかく聞こえた。


 四人は廊下へ出る。

 その足音は、昨日より少しだけ揃っていた。


 明日、ましろの“選ばなかったもう一つの名前”を返す。

 その次に、律の最初の識別を返す。


 そうやって一つずつ、去年の欠落を今へ馴染ませていく。


 終わりはまだ見えない。

 けれど少なくとも、進み方だけは、昨日よりはっきりしていた。

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