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20/27

選ばなかった名前は、白凪ましろが捨てたものではなかった

 翌日の放課後、第二準備室は昨日より少しだけ明るかった。


 窓から差し込む光が、古い机の表面を淡く照らしている。

 埃っぽさも、軋む床も、使われなくなった棚も変わらない。

 けれど、そこに四人でいることには少しずつ慣れてきていた。


 陸は鞄から白い封筒を取り出し、机の上に置いた。


 残っているのは二つ。


 薄いピンクの封筒。

 灰色の封筒。


 白凪ましろ。

 律。


 今日は、ましろの番だった。


 ましろは机の前に立ったまま、じっと薄いピンクの封筒を見つめていた。

 昨日までよりも、輪郭は安定している。

 透けてはいるが、もう光の塊には見えない。

 ちゃんと、制服を着た一人の女子生徒としてそこにいる。


 ただ、その表情は少し硬かった。


「……無理しなくていいぞ」


 陸が言うと、ましろは小さく首を横に振った。


「無理、じゃない」

「怖いけど、知りたい」


 静かな声だった。


 栞がそっと頷く。


「昨日も言ってたもんね」

「白凪を選ばなかった名前も、ちゃんと知りたいって」


「うん」


 ましろは指先を、自分の胸元に軽く当てた。


「たぶん」

「知らないままだと、白凪ましろでいることも、少しだけ借りものみたいになる」


 その言葉に、陸は何も言えなくなった。


 白凪ましろは自分で選んだ名前。

 それはもうわかっている。


 でも、選ぶということは、選ばなかったものがあるということだ。

 それを見ないまま、自分の名前だけを抱えていても、どこかで引っかかりが残るのかもしれない。


『返却物の性質上、今回の負荷は白凪ましろ本人に集中する可能性があります』


 律が言う。


「お前、そういうのは先に言うんだな」


『言わない方が不誠実です』


「まあ、そうだけど」


 陸は薄いピンクの封筒をましろの前に置いた。


 中には、昨日確認した一枚のメモが入っている。


 **“白凪”を選ぶ前に、最後まで迷ったもう一つの名前**


 その文を見た時、ましろは強く動揺した。

 けれど今日は、逃げずにその前に立っている。


「触ればいいんだよな」


 ましろが聞く。


『これまでの返却と同じなら、はい』


 律が答える。


 ましろは一度だけ深呼吸した。

 その仕草があまりにも人間らしくて、陸は少しだけ胸の奥が詰まる。


 そして、ましろの指がメモに触れた。


 瞬間、薄いピンクの光が机の上に広がった。


「っ」


 栞が息を呑む。


 光はましろを包むように揺れ、第二準備室の壁や床を淡く染めた。

 だが、昨日の視聴覚室のような激しさはない。

 もっと静かで、もっと深いところへ沈んでいくような光だった。


 ましろは目を閉じる。


「……あ」


 小さな声が漏れた。


 陸は思わず身を乗り出す。


「大丈夫か」


「うん」

「見えてる」


 ましろの声は震えていたが、崩れてはいなかった。


「どこだ」


 栞が静かに聞く。


「保健室」

「じゃない」

「その前」

「図書室の、奥の机」


 ましろは、目を閉じたまま言葉を続ける。


「紙があって」

「ペンがあって」

「栞が、そこにいて」

「陸も、少し離れて見てる」


 陸は眉を寄せた。


「俺もいたのか」


「うん」

「でも、まだあまり近くない」

「見てるけど、踏み込んでこない」


「俺っぽいな」


「うん」

「陸っぽい」


 その返しに、栞がほんの少し笑った。

 だがすぐに表情を戻す。


「名前は?」


 ましろの指先が、メモの上でわずかに震えた。


「……二つ、あった」


「二つ?」


「白凪ましろ」

「もう一つは……」


 そこで、ましろの声が途切れる。


 第二準備室の空気が、少しだけ重くなる。

 窓の外の音が遠のく。


 ましろは苦しそうに眉を寄せた。


「“白凪”は、消えない名前」

「波が引いても、白く残る場所」

「そういう意味で、選ぼうと思った」


 陸は黙って聞く。


「もう一つは」

「もっと、逃げるための名前だった」


「逃げるため?」


 栞が聞き返す。


 ましろは小さく頷く。


「今の名前も、前の名前も、全部捨てて」

「誰にも見つからないようにする名前」

「見つからなければ、奪われない」

「呼ばれなければ、ほどけない」


 その言葉は、あまりに寂しかった。


 陸は無意識に拳を握る。


 名前を選ぶ場面で、ましろは残る名前と、逃げる名前の間で迷っていた。

 白凪ましろは、誰かに見つけてもらうための名前だった。

 もう一つは、誰にも見つからないための名前だった。


「それ、何て名前だったんだ」


 陸が聞く。


 ましろは、長い間黙った。


 そして、ゆっくりと口を開く。


「……空白」


 声が、部屋に落ちる。


「くうはく?」


 栞が繰り返す。


 ましろは頷く。


「名前じゃない、って言われた」

「でも、その時のわたしには、それが名前に見えた」

「何も書かなければ、誰にも取られない」

「何も決めなければ、失敗しない」

「だから、“空白”でもいいって思った」


 前の名前そのものは、もう文字としては戻らなかった。


 それは手放した時点で、本当に過去へ沈んだのだと思う。

 けれど、白凪を選ぶ直前に最後まで迷った“空白”だけは、まだ今のましろへ返ってきた。


 それは、捨てた名前ではない。

 逃げるために選びかけた、もう一つの行き先だった。


 陸は息を止めた。


 空白。


 白い行。

 消された名前。

 名簿に残った不自然な白。

 名前のない側。


 全部が、そこに繋がっていくようだった。


『危険な候補名です』


 律が静かに言う。


「わかる」


 陸も低く返す。


 白凪ましろが“空白”を選んでいたら。

 おそらく、名前のない側にもっと近づいていた。

 いや、もしかしたら、そのまま取り込まれていたのかもしれない。


 ましろは目を閉じたまま、少しだけ涙をこらえるような顔をした。


「でも」

「栞が言った」


「私が?」


 栞の声が小さく揺れる。


 ましろは頷く。


「空白は、名前じゃないって」

「逃げる場所にはなるけど、帰る場所にはならないって」


 栞は息を呑んだ。


「……そんなこと、私が」


「うん」

「そのあと、陸が言った」


 今度は陸の方へ視線が向く。


「白凪でいいんじゃないかって」

「白く凪いでるなら、何もないわけじゃないだろって」


 陸は固まった。


「……俺、そんなこと言ったのか」


 自分で聞いても、妙に自分らしくないような、自分らしいような変な言葉だった。


 律が淡々と補足する。


『記憶断片との照合はできませんが、朝霧陸の発話傾向から大きな矛盾はありません』


「お前な、そういう判定されると恥ずいんだよ」


「でも、わたしは」

「それで、決めた」


 ましろの声が、少しずつはっきりしていく。


「空白じゃなくて」

「白凪ましろにするって」

「誰にも見つからない名前じゃなくて」

「見つけてもらえる名前にするって」


 その瞬間、メモの文字が淡く光った。


 机の上に、薄いピンクの光が一度だけ広がる。

 そして、メモは真っ白に戻った。


 返却が終わったのだと、言われなくてもわかった。


 ましろはゆっくり目を開けた。


 その目元には、涙のような光があった。

 でも泣いてはいない。

 むしろ、何かを置いてきたあとのような、静かな表情だった。


「……思い出した」

「わたし、空白を選ばなかった」


 栞がそっと息を吐く。


「うん」


 ましろは栞を見る。

 それから陸を見る。

 最後に、律のホログラムへ視線を向ける。


「白凪ましろは」

「わたしが、みんなの前で選んだ名前だった」


 その一言で、第二準備室の空気が少しだけ柔らかくなった。


 名前はただ与えられたものではなかった。

 誰かに押しつけられたものでも、現象を仮に呼ぶためのラベルでもない。


 ましろが、空白ではなく、見つけてもらえる名前として選んだものだった。


 陸は机に手をついたまま、小さく息を吐く。


「……よかったな」


 それしか出てこなかった。


 でも、ましろはそれで十分だったみたいに、少しだけ笑った。


「うん」

「よかった」


 その笑顔を見て、栞の表情も少し緩む。


「じゃあ、白凪ましろで間違いないね」


「うん」


 ましろははっきり頷いた。


「もう、間違えない」


 律が静かに言う。


『白凪ましろの固定は、さらに安定しました』


「そういう言い方、ちょっと台無し」


 栞が言う。


『事実ですので』


「でも、今日は少し嬉しそうに聞こえる」


 その言葉に、律はほんの一拍だけ黙った。


『否定はしません』


 陸は思わず律を見る。


「お前、ほんと変わってきてないか」


『継続的な相互作用の結果です』


「便利な言い方だな」


『便利ですので』


 いつもの返し。

 それが今は少しだけ安心する。


 残る封筒は、灰色だけになった。


 律の返却物。


 **朝霧陸を“保留者”ではなく、最初に個体として認識した瞬間**


 机の上に置かれたそれを見た瞬間、空気がもう一度だけ静かになる。


 ましろの返却は終わった。

 名前の分岐は戻った。

 白凪ましろが、自分でその名を選んだこともわかった。


 残るのは、律の起源に関わる欠落。


 そしてそれは、多分、陸自身にも深く関わっている。


「……続けてやるか?」


 陸が聞く。


 律は即答しなかった。


 珍しい沈黙だった。


 そして、少しだけ遅れて言う。


『今日、実行することは可能です』

『ただし、処理影響は私だけではなく、朝霧陸にも及ぶ可能性があります』


「だろうな」


 陸は短く答える。


 最初に個体として認識した瞬間。

 それは律だけの記憶ではない。

 陸が律にとって何だったのか、そして律が陸にとって何だったのか、その始まりに触れることになる。


 栞が慎重に言う。


「今やる?」


 陸は灰色の封筒を見つめた。


 怖い。

 だが、ここで一日置いたからといって、怖さが消えるとも思えない。


 むしろ、今日のましろの返却を見たあとだからこそ、わかることがある気がした。


「……やろう」


 陸は言う。


「ここまで来たら、最後まで返した方がいい」


 律のホログラムが、陸を見る。


『同意確認しました』


「お前の確認、いちいち重いな」


『今回は重いので』


「そうだな」


 陸は灰色の封筒を律の前へ置いた。


 ましろと栞が、静かに見守る。


 第二準備室の外では、放課後のざわめきが少しずつ遠ざかっていた。

 古い部屋の中に、四人だけが残る。


 律が、灰色の封筒へ手を伸ばした。


 その指先が触れる直前、スマホの画面が一度だけ白く瞬いた。


 まるで、これから開くものが、ただの記憶ではないと知らせるみたいに。

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