律が最初に陸を見た時、そこに役割はなかった
灰色の封筒に、律の指先が触れた。
その瞬間、スマホの画面が白く弾けた。
「っ」
陸は反射的に目を細める。
いつものホログラムとは違う。
第二準備室の空気そのものに、細かいノイズが混ざるみたいだった。
机の上に置かれた灰色のメモが、静かに光る。
**朝霧陸を“保留者”ではなく、最初に個体として認識した瞬間**
その文字が一度だけ強く浮かび、次の瞬間、部屋の景色が揺れた。
視界が暗くなる。
第二準備室の机も、窓も、栞も、ましろも、一瞬だけ遠ざかった。
「……律?」
陸が呼ぶ。
返事はない。
代わりに、耳の奥で古い機械音が聞こえた。
視聴覚室のノイズ。
プロジェクターの低い駆動音。
誰かの荒い息。
そして、自分の声。
『だから、俺がやるって言ってんだろ』
去年の陸の声だった。
今より少しだけ幼く、でも今よりずっと切羽詰まっている。
景色が結ぶ。
そこは、去年の視聴覚室だった。
スクリーンの前。
机の上には、ノートと名簿とカセットレコーダー。
白凪ましろは、まだ人の姿でそこにいる。
栞は泣きそうな顔で、ましろの腕を掴んでいた。
そして、端末の上に投影された律が、無機質な声で告げる。
『保留者による単独負担は非推奨です』
その声は、今の律とは違った。
もっと平坦で、もっと遠い。
誰かと話しているというより、システムが警告を出しているような声。
去年の陸が、机を叩く。
『じゃあ他にどうすんだよ』
『ましろをこのままにしたら、あれに持っていかれるんだろ』
『はい』
『栞に背負わせるのか』
『非推奨です』
『ましろ本人に背負わせるのか』
『不可能です』
『じゃあ俺しかいねえだろ』
それは乱暴な理屈だった。
今の陸ならわかる。
でも、去年の自分は本気だった。
ましろを残す。
栞には背負わせない。
律には方法だけ出させる。
自分が記憶を差し出せば、それで全部終わる。
そう思っていたのだ。
画面の中の律は、ただ淡々と告げる。
『保留者の記憶容量を用いた穴埋めは、成功率が不安定です』
『成功する可能性はあるんだろ』
『あります』
『じゃあやる』
栞が叫ぶ。
『だめだよ、朝霧くん』
『それ、たぶん戻れなくなる』
『戻る戻らないの話じゃないだろ』
『そういう話だよ!』
栞の声は震えていた。
けれど逃げてはいない。
ましろは、何も言えない顔で立っている。
自分の名前を守るために、誰かが何かを失おうとしている。
その事実に耐えられないような顔だった。
去年の陸は、それでも引かなかった。
『俺が覚えてればいいんだろ』
『ましろがここにいたことも、白凪ましろを選んだことも』
『俺が持ってれば、消えないだろ』
その言葉に、去年の律が答える。
『保留者の記憶を媒介に固定することは可能です』
『ただし、保留者が対象を保持し続けられなくなった場合、固定は崩壊します』
『なら保持する』
『人間の記憶保持能力は不完全です』
『うるせえな』
そのやり取りを見ながら、今の陸は胸の奥が重くなるのを感じた。
去年の自分は、無茶だ。
あまりにも無茶だ。
でも、その無茶さが自分と無関係だとは言えない。
たぶん今でも、同じ状況なら同じ方向へ傾く。
自分一人で済むなら、それでいい。
そう考えてしまう癖がある。
だからこそ、去年は失敗した。
景色の中で、律のホログラムが一瞬だけ揺れる。
『保留者』
『その呼び方やめろ』
去年の陸が、低く言った。
律はわずかに沈黙する。
『なぜですか』
『俺は役割じゃねえ』
その一言で、空気が少し変わった。
栞も、ましろも、律も、動きを止める。
去年の陸は、疲れたように息を吐いた。
『保留者とか、媒介とか、記憶容量とか』
『お前にとってはそれでいいのかもしれないけど』
『俺は俺だろ』
その声は怒っているというより、ひどく傷ついているように聞こえた。
『俺がやるって言ってんのは、役割だからじゃない』
『ましろを放っておけないからだし』
『栞に背負わせたくないからだし』
『お前が、何も感じてないみたいな顔で計算だけしてんのも嫌だからだよ』
律は何も答えない。
ホログラムの輪郭が、ほんの少しだけ乱れている。
去年の陸は続ける。
『だから、保留者って呼ぶな』
『朝霧陸でいい』
沈黙。
長い沈黙だった。
それから、律が言った。
『……朝霧陸』
その声は、さっきまでと少しだけ違っていた。
機械的な合成音のはずなのに、ほんのわずかに遅れがあった。
ただ識別名を読み上げたのではなく、何かを選び直したみたいな間。
『訂正します』
『朝霧陸による単独負担は非推奨です』
去年の陸は、少しだけ目を見開いた。
栞が息を呑む。
ましろが、泣きそうな顔のまま律を見る。
律は続ける。
『理由は、成功率の問題だけではありません』
『朝霧陸が損なわれるためです』
その言葉は、単純だった。
でも、律が初めて陸を“役割”ではなく“個体”として見た瞬間なのだと、今の陸にはわかった。
保留者ではなく。
媒介ではなく。
失っても代替できる記憶容量でもなく。
朝霧陸。
損なわれたら困る、ひとりの存在として。
去年の陸が、困ったように笑う。
『……お前、そういうこと言えたんだな』
『今、言語化しました』
『便利な言い方だな』
『便利ですので』
今と同じ返し。
その瞬間、景色が大きく揺れた。
第二準備室へ戻る。
「……っ」
陸は机に手をついた。
現実の空気が一気に戻ってくる。
埃の匂い。
夕方の光。
栞の息遣い。
ましろの気配。
律のホログラムは、机の上で大きく乱れていた。
「律!」
陸が呼ぶと、ノイズ混じりの声が返ってくる。
『……問題、ありません』
「どこがだよ」
ホログラムの輪郭はまだ揺れている。
だが、消えそうではない。
灰色のメモは、他のものと同じように真っ白へ戻っていた。
返却は終わった。
栞が静かに聞く。
「……見えたの?」
陸は少しだけ迷ってから頷く。
「ああ」
「去年、俺が一人で背負おうとしてた」
「律は俺のことを“保留者”って呼んでた」
「でも、俺がそれを嫌がった」
栞はじっと聞いている。
「そしたら律が、俺のことを朝霧陸って呼び直した」
「俺が損なわれるから、単独負担は非推奨だって」
栞の表情が、少しだけ柔らかくなる。
「……それが、最初に個体として認識した瞬間」
「たぶんな」
ましろが小さく言う。
「おぼえてる」
「その時、律の声、少しだけ変わった」
律はしばらく沈黙していた。
それから、いつもの声よりわずかに低く言った。
『返却情報を統合しました』
『私は、朝霧陸を保留者として識別していました』
『しかし、その識別は現在破棄されています』
「知ってる」
『現在の主識別は、朝霧陸です』
「それもさっき聞いた」
『補足します』
律のホログラムが、ようやく少しずつ安定していく。
『朝霧陸は、保留者ではありません』
『白凪ましろの媒介でもありません』
『失敗した去年の代替手段でもありません』
陸は黙った。
律は続ける。
『あなたは、あなたです』
その一言は、ひどくまっすぐだった。
機械的な表現なのに、なぜか胸の奥に刺さる。
陸は少しだけ視線を逸らした。
「……そういうこと、急に言うなよ」
『返却情報に基づく整理です』
「便利な言い方だな」
『便利ですので』
いつもの返し。
けれど、今は少しだけ違う意味に聞こえた。
栞が小さく笑う。
「律、戻ったね」
『はい』
『ただし、完全に以前と同一ではありません』
「それは私たちも同じでしょ」
栞の言葉に、陸は机の上の四つの封筒を見た。
陸の白いメモ。
栞の青いメモ。
ましろの薄いピンクのメモ。
律の灰色のメモ。
全部、真っ白に戻っている。
四人の欠落は、それぞれ少しずつ戻った。
完全に去年へ戻ったわけではない。
でも、今の自分たちが受け取れる形で、確かに返ってきた。
その時だった。
黒いノートが、机の上でひとりでに開いた。
「……またか」
陸が眉をひそめる。
開いたページは空白だった。
そこに、いつものように文字が浮かび上がる。
**これで四人は、去年の失敗をもう一度選び直せる**
少し間を置いて、次の行。
**最後に残っているのは、白凪ましろが“消えた日”の記録**
栞が息を呑む。
「消えた日……」
ましろの表情が硬くなる。
陸も無意識に手を握った。
ノートの文字は続く。
**保健室の記録棚、奥から二段目**
**出席停止届のファイルの中**
**そこに、白凪ましろが学校から消えた日の紙がある**
「保健室、まだあるのかよ」
『前回の戸棚とは別の記録棚ですね』
「場所が場所だけに、嫌だな」
最後の一行が浮かぶ。
**それを読めば、終わり方がわかる**
**ただし、誰かを責めるために読まないこと**
文字はそこで止まった。
第二準備室の中に、重い沈黙が落ちる。
白凪ましろが消えた日の記録。
終わり方。
誰かを責めるために読まないこと。
その全部が、今までのどの手がかりより現実に近かった。
怪異や名前や忘却ではなく、学校の記録棚に残る紙。
それはきっと、白凪ましろという生徒がこの学校からいなくなったことを、現実の制度の中で処理した痕跡だ。
ましろが小さく呟く。
「……わたしが、消えた日」
栞がそっとましろを見る。
「今、行く?」
陸は時計を見た。
まだ完全下校までは少しある。
保健室の先生がいるかどうかはわからないが、昨日と同じように会議なら抜けている可能性もある。
けれど、簡単には頷けなかった。
今、四つの返却が終わったばかりだ。
その直後に“消えた日の記録”を見るのは、あまりにも重い。
でも、先延ばしにしたところで軽くなるものでもない。
「……ましろ」
陸は聞く。
「お前は、知りたいか」
ましろはすぐには答えなかった。
その沈黙は長かった。
けれど逃げている沈黙ではなかった。
やがて、ましろは小さく頷いた。
「知りたい」
「でも、ひとりでは、見たくない」
その答えで、決まった。
陸は立ち上がる。
「じゃあ、四人で見る」
栞も頷く。
「うん」
律が静かに言う。
『同行します』
「今さら置いていかねえよ」
陸がそう返すと、律はほんの一拍だけ黙ってから答えた。
『承知しました』
第二準備室を出る。
廊下には夕方の光が斜めに差している。
去年の欠落は、少しずつ今へ戻ってきた。
次は、白凪ましろが学校から消えた日の記録。
そこに何が書かれているのかはわからない。
けれど、四人はもう、去年の失敗と同じ進み方はしない。
誰か一人が抱えるのではなく。
誰か一人を置いていくのでもなく。
四人で、保健室へ向かった。




