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白凪ましろが消えた日の紙は、誰かを責めるための記録ではなかった

 保健室へ向かう廊下は、さっきよりずっと長く感じた。


 夕方の校舎には、人の気配が少しずつ減っている。

 部活へ向かった生徒。

 帰った生徒。

 職員室へ戻った教師。


 その隙間を縫うように、四人は歩いた。


 先頭は栞。

 その少し後ろに陸。

 ましろは陸の隣を歩き、律はスマホの画面の中で静かに周囲を観測している。


 誰も、あまり喋らなかった。


 白凪ましろが学校から消えた日の紙。


 その言葉が、重い。


 怪異でも、名前でも、光でもない。

 学校の記録棚に残された一枚の紙。


 たぶんそこには、白凪ましろという生徒がこの学校からいなくなったことを、誰かが日常の言葉で処理した痕跡がある。


 それが何より怖かった。


 保健室の前で、栞が立ち止まる。

 中に人の気配はない。


「先生、まだ戻ってない」


「入るぞ」


 陸が小さく言うと、栞は頷いて扉を開けた。


 保健室の白い空気が流れてくる。

 消毒液の匂い。

 カーテンの淡い揺れ。

 整えられたベッド。


 昨日と同じはずなのに、今日はもっと現実に近い場所に見えた。


 ましろが一歩入ったところで、少しだけ足を止める。


「……ここ、やっぱり」


「大丈夫か」


 陸が聞くと、ましろは頷いた。


「大丈夫」

「でも、胸の奥が変」


 その言い方が妙に生々しくて、陸は何も返せなかった。


 栞はノートに書かれていた通り、記録棚へ向かう。

 保健室の奥、戸棚とは別の、金属製の古い棚。

 上から二段目。


 そこには年度ごとのファイルが並んでいた。


「出席停止届……」


 栞が背表紙を読む。


 指先が、去年のファイルで止まった。


「これ」


 ファイルを引き抜く。

 思ったより分厚い。

 感染症や怪我、長期欠席に関する書類が、日付順に綴じられている。


 陸は無意識に周囲を見た。


「早く見つけよう」


『右側、十月付近です』


「お前、便利だな」


『はい』


 栞がページをめくる。

 九月。

 十月上旬。

 十月中旬。


 そこで、指が止まった。


 他の紙と違って、その一枚だけ少し色が違っていた。

 提出用の正式な書類ではなく、仮記録のような薄い用紙。


 上部には、赤字でこう書かれている。


 **未処理**


 陸の喉が詰まる。


 栞が紙をゆっくり読み上げる。


「……対象生徒」

「一年C組」

「氏名……」


 そこで、声が止まった。


 陸も横から覗き込む。


 氏名欄には、確かに文字が書かれていた。

 だが、途中で何度も書き直したように、滲みと修正の跡が重なっている。


 最終的に残っている名前は、これだった。


 **白凪ましろ**


 ましろが、少しだけ息を呑む。


 栞は続きを読む。


「十月十七日」

「放課後、図書室付近で体調不良」

「三枝栞、朝霧陸により保健室へ付き添い」

「本人、強い混乱あり」

「氏名確認に時間を要する」


 陸は眉を寄せる。


「俺たち、保健室まで連れてきてたのか」


 ましろが小さく言う。


「……たぶん」

「覚えてる」

「白いベッド」

「カーテン」

「栞の手」


 栞の指が、わずかに紙の端を握る。


「続き」


 そう言って、自分に言い聞かせるようにまた読む。


「記録時点で、本人は休養中」

「担任連絡予定」

「保護者連絡……」


 そこにも修正跡があった。

 何かを書こうとして、消されている。


 そして備考欄。


 そこに、別の筆跡があった。

 保健室の先生のものだろう。


 **本人が何度も“まだ決めていない”と訴える。**

 **氏名、帰宅先、連絡先について確認が取れない。**

 **同行生徒二名も混乱しており、詳細不明。**

 **本人が落ち着くまで保健室で経過観察。**


 陸は息を止めた。


 “まだ決めていない”。


 それは名前のことだ。

 白凪にするか。

 空白にするか。

 その分岐のただ中で、ましろは保健室にいた。


 栞がさらに下を見る。


 最後の欄に、短い一文があった。


 **十七時二十分、本人の姿を確認できず。**


 それだけだった。


 白凪ましろが消えた日の紙。

 そこには、事故も、事件も、誰かの悪意も書かれていなかった。


 ただ、保健室で休んでいたはずの生徒が、五時二十分に確認できなくなった。

 学校の言葉では、そう残っていた。


「……五時二十分」


 陸が呟く。


 昨日、ましろの輪郭を固定した時刻。

 第二準備室で返事をしてはいけなかった時刻。

 時計塔の記録が動いた時刻。


 何度も出てきた時間。


 ましろの顔が白くなる。

 もともと透けている輪郭なのに、今はさらに色を失ったように見えた。


「わたし」

「ここで、消えたんだ」


 その声は震えていた。


 栞がすぐに言う。


「ましろ」


 でも、ましろは紙から目を離せない。


「ここにいた」

「たぶん、まだ名前を決めきれてなくて」

「白凪にするって思って」

「でも、空白も怖くなくて」

「それで……」


 声が途切れる。


 陸は、紙の下の方にもう一つ小さな付箋が貼られていることに気づいた。


「待て」

「これ、まだある」


 付箋には、鉛筆で短く書かれていた。


 **朝霧・三枝には伝えないこと。**

 **二人が自分たちを責める可能性あり。**

 **本人の消失は、二人の離席後。**


 陸はその文を見つめたまま、何も言えなくなった。


 栞も固まっている。


「……二人の離席後」


 栞が掠れた声で繰り返す。


 ましろがゆっくり二人を見る。


「陸と栞は、いなかった?」


 律が静かに言う。


『記録上は、そのようです』


 陸は奥歯を噛んだ。


 離席後。

 つまり、去年の自分たちはましろを置いて保健室を出た。

 その後、五時二十分にましろは消えた。


 責めようと思えば、いくらでも責められる。

 どうして置いていった。

 どうして戻らなかった。

 どうして一人にした。


 だからノートは書いたのだ。


 誰かを責めるために読まないこと。


 栞の手が震えていた。


「私たち……」

「置いていったんだ」


「違う」


 ましろがすぐに言った。


 その声は、意外なくらい強かった。


「違う」

「置いていったんじゃない」


 陸と栞がましろを見る。


 ましろは苦しそうに、でもはっきりと言った。


「わたしが、お願いした」

「少しだけ、一人にしてって」

「名前を決めるのは、自分でやりたいって」


 その瞬間、保健室の空気が揺れた。


 ましろの言葉に反応するように、紙の文字が淡く光る。

 そして、記録用紙の裏側が透けるように浮かび上がった。


『裏面に記述があります』


 律が言う。


 栞が紙を慎重に外し、裏を見る。


 そこには、子どもっぽい文字がいくつか残っていた。

 消えかけている。

 それでも読める。


 **白凪ましろ**

 **空白**

 **白凪ましろ**

 **空白**

 **白凪ましろ**


 同じ名前と、名前ではない言葉が、何度も書かれている。


 最後の一行だけ、少し強い筆圧だった。


 **白凪ましろでいる**


 栞が息を呑む。


 ましろは、その文字を見て小さく笑った。

 泣きそうな笑いだった。


「……決めてた」


「決めてたんだな」


 陸が言う。


 ましろは頷く。


「うん」

「でも、間に合わなかった」


 その言葉と同時に、保健室のカーテンがふわりと揺れた。


 窓は閉まっている。

 風は入っていない。


 陸の背筋に緊張が走る。


『気配を確認』


「だろうな」


 保健室の奥、ベッドを仕切る白いカーテンの向こう。

 そこに、人影のようなものが立っていた。


 白い。

 顔はない。

 でも昨日までの“名前のない側”より、輪郭が薄い。


 まるで、ここに残っていた最後の残滓みたいだった。


『以前の“名前のない側”とは反応が異なります』


 律が低く言う。


『これは外から入り込もうとしているものではありません』

『白凪ましろの中に残っていた未決定領域です』


「要するに、置いてきた迷いだろ」


 陸が言うと、ましろは小さく頷いた。


 カーテンの向こうから、声がする。


『まだ決めていない』


 ましろの声に似ていた。

 でも違う。


『まだ空白でもいい』

『まだ誰にも見つからなくていい』


 陸は一歩前に出た。


「もう決めたんだよ」


 声は答えない。

 ただ、カーテンの向こうで白い影が揺れる。


『白凪ましろでいる』


 今度は、ましろ自身が言った。


 保健室の空気が、ぴんと張る。


『空白は、選ばなかった』

『白凪ましろを、わたしが選んだ』


 白い影がゆっくり歪む。

 怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えない。

 ただ、そこに居場所を失ったものが揺れているだけだった。


 栞が静かに言う。


「あなたは、ましろじゃない」


 律が続ける。


『白凪ましろの未決定領域の残滓です』

『現在の白凪ましろとは一致しません』


「要するに、置いてきた迷いだろ」


 陸が言う。


 ましろは頷いた。


「うん」

「でも、悪いものじゃない」

「わたしが、本当に怖かった時の逃げ場所だった」


 白い影が、少しだけ動きを止めた。


 その言葉が届いたのかもしれない。


 ましろはカーテンの方へ一歩近づいた。


「ありがとう」

「でも、もう空白にはならない」


 声は震えていた。

 けれど逃げてはいなかった。


「わたしは、白凪ましろでいる」


 その瞬間、カーテンの向こうの白い影が、音もなくほどけた。


 消える、というより、ほどける。

 白い糸が空気に溶けるみたいに、輪郭が薄くなっていく。


 最後に、ほんの一瞬だけ、保健室の白いベッドの上に、小さな紙片が落ちた。


 陸が近づき、それを拾う。


 そこには一言だけ書かれていた。


 **帰る場所は、名前のある方へ**


 ましろはその紙を見て、静かに目を伏せた。


 栞が記録用紙を元のファイルへ戻す。

 その手はもう震えていなかった。


「……責めるための記録じゃなかったね」


 栞が言う。


「ああ」


 陸は頷いた。


 この紙は、誰かの罪を示すものではなかった。

 ましろが消えた日の、最後の分岐を示すものだった。


 空白になるか。

 白凪ましろでいるか。


 ましろは選んだ。

 でも、その選択が固定される前に、五時二十分が来た。


 だから去年の自分たちは、あとからそれを取り戻そうとしたのだ。


「終わり方は、わかったな」


 陸が言う。


 ましろは小さく頷く。


「うん」

「わたし、消えたんじゃなくて」

「決めたまま、届かなかったんだ」


 その言葉に、陸は胸の奥が重くなるのを感じた。


 決めていたのに、届かなかった。

 それはたぶん、消えたことよりも少しだけ悔しい。


 律が静かに言う。


『現在は、届いています』


 ましろが顔を上げる。


『白凪ましろは固定されています』

『空白は選択されていません』

『記録との整合性は、今、更新されました』


「……律、そういう言い方しかできないのに」

「今はちょっと、嬉しい」


 ましろがそう言うと、律は一拍置いて答えた。


『光栄です』


 陸は思わず少し笑った。


 保健室の時計を見る。

 五時二十分は、まだ来ていない。

 でも今日は、その時間を待つ必要はなかった。


 終わり方はわかった。

 白凪ましろが消えた日の紙も、確認した。


 これで本当に終わるのかと思った時、黒いノートが鞄の中で小さく震えた。


「……まだかよ」


 陸が取り出すと、ノートはひとりでに開いた。


 新しい文字が浮かぶ。


 **終わり方はわかった**

 **次は、終わらせ方を選ぶ**


 栞が息を呑む。


 続けて、最後の行が浮かぶ。


 **時計塔の下へ**

 **五時二十分、四人で**


 陸は時計を見た。


 五時二十分まで、あと十五分。


 ましろが小さく息を吸う。


「……行こう」


 その声に、迷いはなかった。


 陸はノートを閉じる。


「ああ」

「今度こそ、四人で終わらせる」


 保健室を出る。


 廊下の向こうで、夕方の光が少しずつ薄くなっていた。


 五時二十分。

 時計塔の下。


 去年、届かなかった選択を、今度こそ届かせるために。

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