時計塔の下で、去年届かなかった名前を四人で届けた
時計塔へ向かう道は、いつもより静かだった。
校舎の裏手を抜ける。
旧校舎の横を通り、倉庫棟の影を越える。
その先に、校庭の端に立つ古い時計塔が見えてくる。
針は、五時十六分を指していた。
あと四分。
「……ぎりぎりだな」
陸が言うと、栞が息を整えながら頷いた。
「でも、間に合った」
ましろは二人の少し前で立ち止まり、時計塔を見上げていた。
夕方の光を受けたその姿は、まだ少し透けている。
けれど、もう消えそうには見えない。
そこにいる。
白凪ましろとして。
『時刻同期を確認。現在、十七時十六分三十二秒』
「細かいな」
『必要ですので』
「そうだな」
今日は、その細かさが少しだけ頼もしかった。
時計塔の下には、以前カセットレコーダーを掘り出した石畳がある。
あの時は、まだ何もわかっていなかった。
去年の自分の声に導かれて、ただ後を追っていた。
今は違う。
白凪ましろは残った。
四人の欠落も返った。
白凪ましろが消えた日の記録も読んだ。
あとは、終わらせ方を選ぶだけだ。
「ノートは?」
栞が聞く。
陸は鞄から黒いノートを取り出した。
表紙に触れた瞬間、ひとりでにページが開く。
白い余白に、文字が浮かんだ。
**五時二十分に、時計塔は一度だけ去年とつながる**
**その時、白凪ましろの選択を届ける**
**名前を届ける相手は、“去年のましろ”ではない**
陸は眉をひそめる。
「去年のましろじゃない?」
栞が続きを読む。
**届ける相手は、空白を選びかけた場所**
**責めず、消さず、否定せず**
**ただ、今の名前を伝えること**
ましろが静かに息を吸った。
「……空白に」
「お前の迷いに、ってことか」
陸が言うと、ましろは頷いた。
「たぶん」
「わたしが怖かった時に、逃げようとした場所」
「そこに、今のわたしを届ける」
律が言う。
『未決定領域への現在情報の上書き、または統合と考えられます』
「お前、それだと情緒が死ぬ」
『では、言い換えます』
『迎えに行く、という表現が近いかもしれません』
栞が少しだけ笑った。
「そっちの方がいい」
『採用します』
そのやり取りの後、時計塔の針が、十七時十九分へ進んだ。
空気が変わる。
夕方の音が遠くなる。
部活の声も、車の音も、風の音も、少しずつ布の向こう側へ押し込まれていく。
時計塔の下だけが、別の時間に切り離されていくようだった。
ましろが胸元に手を当てる。
「……来る」
その声と同時に、石畳の隙間から白い光が滲み出した。
眩しい光ではない。
むしろ、色の抜けた影みたいなものだった。
それがゆっくり広がり、時計塔の足元に人の輪郭を作る。
白い影。
でも、今までの“名前のない側”とは少し違った。
顔はない。
輪郭も曖昧。
けれど、敵意がない。
そこにあるのは、迷いだった。
それは、以前の“名前のない側”ではなかった。
誰かの名前を奪おうとするものではない。
ただ、名前を選べなかったまま残った場所。
白凪ましろの中にあった、空白になりたかった部分だった。
立ち尽くして、どこにも行けず、誰にも呼ばれず、何も決められないまま残った白い空白。
ましろが一歩前に出る。
陸は反射的に手を伸ばしかけたが、止めた。
今、前に出るのは自分ではない。
栞も何も言わない。
律も沈黙している。
白い影が、ましろを見た。
顔はないのに、見たとわかった。
その瞬間、声が響く。
『まだ、間に合わない』
ましろの声に似ていた。
けれど、それは過去の声だった。
『決めても、届かない』
『選んでも、消える』
『名前を持つと、奪われる』
ましろの肩が少しだけ震える。
陸は歯を食いしばった。
声を出したくなる。
そんなことはない、と言いたくなる。
でも、ましろは自分で口を開いた。
「怖かったね」
白い影が揺れる。
「名前を決めるの、怖かった」
「見つけてもらうのも、怖かった」
「呼ばれて、ほどけるのも、怖かった」
ましろは一歩、また近づく。
「でも、空白は帰る場所じゃなかった」
その言葉に、白い影が少しだけ後ずさる。
『空白なら、傷つかない』
「うん」
「そう思った」
『空白なら、誰にも取られない』
「うん」
「でも、誰にも見つけてもらえない」
その声は震えていた。
けれど、折れていなかった。
「わたしは、見つけてほしかった」
「呼んでほしかった」
「ここにいていいって、誰かに言ってほしかった」
栞が小さく息を呑む。
陸も胸の奥が痛くなる。
白い影は、まだ揺れている。
『でも、間に合わなかった』
「うん」
「去年は、間に合わなかった」
ましろはそこで振り返った。
陸を見る。
栞を見る。
律を見る。
「でも、今は間に合った」
陸は頷いた。
「ああ」
栞も、まっすぐましろを見る。
「間に合ったよ」
律が静かに言う。
『白凪ましろは、現在ここに存在しています』
ましろは再び、白い影へ向き直った。
「わたしは、白凪ましろでいる」
「空白は選ばなかった」
「でも、空白になりたかったわたしを、なかったことにはしない」
白い影の輪郭が、少しだけほどける。
消えるのではない。
溶けるのでもない。
まるで、固く握っていた手がゆっくり開いていくみたいだった。
その時、時計塔が鳴った。
一つ目の鐘。
五時二十分。
音が空気を震わせる。
同時に、時計塔の周りの景色が変わった。
夕方の校庭が薄く透け、その向こうに去年の保健室が見える。
白いベッド。
揺れるカーテン。
机の上の紙。
そこに何度も書かれた二つの言葉。
白凪ましろ。
空白。
去年のましろが、ベッドの端に座っている。
顔は伏せている。
手にはペン。
紙には、最後の一行。
**白凪ましろでいる**
でも、その文字がまだ届いていない。
去年のましろの背後に、空白が立っている。
今、時計塔の下にいる白い影と同じものだ。
ましろは、その景色へ向かって言った。
「届いたよ」
声は、鐘の余韻の中でまっすぐ伸びた。
「白凪ましろでいるって、ちゃんと届いた」
「だから、もう一人で空白にならなくていい」
去年の保健室のましろが、ゆっくり顔を上げる。
こちらは見えていない。
それでも、声だけは届いているようだった。
栞が一歩前へ出る。
「白凪ましろ」
去年の栞ではない。
今の栞の声。
「私は、あなたを怖いものとして覚え直さない」
「ちゃんと、助けたいと思った子として覚えてる」
陸も続く。
「白凪ましろ」
自分の声が、思ったより落ち着いていた。
「俺は、お前をひとりにしたくないって理由で返事をしようとした」
「でも、もうあの声には返事しない」
「今ここにいるお前の名前を呼ぶ」
律のホログラムが、スマホから淡く浮かび上がる。
『白凪ましろ』
いつもより、ゆっくりとした声。
『あなたは空白ではありません』
『あなたは記録上の欠落でも、未処理の生徒でもありません』
『現在の主識別は、白凪ましろです』
「最後まで律だな」
陸が小さく言うと、ましろが少しだけ笑った。
その笑いが、鐘の余韻の中で淡く広がる。
去年の保健室の紙に書かれた文字が、ゆっくり光った。
**白凪ましろでいる**
その一行が、今度こそ消えずに残る。
白い影が震えた。
『……帰る場所は』
声が、初めて迷いではなく問いになった。
ましろは答える。
「名前のある方へ」
その瞬間、時計塔の下にいた白い影が、ましろの胸元へ向かって静かにほどけた。
ましろは逃げなかった。
白い影は光になり、糸になり、輪郭になって、ましろの中へ戻っていく。
吸い込まれるのではない。
受け入れられていく。
空白になりたかった自分を、今の白凪ましろが迎え入れる。
それが、終わらせ方だった。
景色が戻る。
保健室の幻が薄れ、夕方の校庭が戻ってくる。
時計塔の鐘の余韻も、少しずつ遠ざかっていく。
ましろはその場に立っていた。
さっきまでより、はっきりと。
透けてはいる。
でも輪郭の揺れがない。
髪も、手も、制服の端も、前よりずっと現実に近い。
陸は息を止める。
「……ましろ」
呼ぶと、ましろが振り返った。
「うん」
その返事は、あまりにも普通だった。
普通すぎて、陸は少しだけ笑いそうになった。
「終わったのか」
栞が聞く。
ましろは胸元に手を当て、少しだけ目を閉じる。
「……たぶん」
「空白は、もう外にいない」
「わたしの中に戻った」
『白凪ましろの固定状態、安定』
『未決定領域の外部残留反応、消失』
律が告げる。
「じゃあ、本当に……」
栞は言葉を途中で止めた。
終わった。
そう言おうとしたのだろう。
けれど、その言葉は最後まで出なかった。
代わりに、黒いノートが陸の鞄の中で小さく震えた。
「……おい」
陸は嫌な予感とともにノートを取り出す。
ページが開く。
でも、そこに浮かんだ文字は、今までとは少し違っていた。
警告ではない。
指示でもない。
ただ、一文だけ。
**ありがとう。これで、去年の俺もようやく手を離せる。**
陸はその文字を見つめた。
去年の自分。
一人で背負って、失敗して、でも手がかりを残して、今の自分たちへ託したもう一人の自分。
その文字が、ゆっくり薄くなっていく。
続けて、最後の一行が浮かんだ。
**あとは、今の四人で決めろ。**
文字はそこで止まった。
ノートは静かに閉じる。
もう、勝手に開く気配はなかった。
陸はしばらくノートを見下ろしていた。
それから、ゆっくり息を吐く。
「……勝手に背負って、勝手に託して、最後は丸投げかよ」
栞が少しだけ笑った。
「朝霧くんっぽいね」
「俺に言うな」
「去年の朝霧くんも朝霧くんでしょ」
「そうだけど、腹立つな」
ましろも笑った。
その笑い声が、夕方の空気にちゃんと響く。
律が言う。
『これで、主要な異常反応は収束したと考えられます』
「主要な、って言うな」
「また何か残ってそうに聞こえる」
『未知の可能性を完全に否定することはできません』
「ほんと最後までお前だな」
『はい』
時計塔の下に、四人の影が伸びている。
陸。
栞。
ましろ。
律。
去年の失敗をなぞって、今度は別の終わらせ方を選んだ四人。
白凪ましろは、空白ではなく、名前のある方へ戻った。
それで全部が元通りになったわけではない。
失ったものも、変わったものもある。
でも、少なくとも今ここには四人がいる。
ましろが空を見上げる。
「……帰ろう」
その言葉が、やけに自然に聞こえた。
陸は頷く。
「ああ」
「帰るか」
栞も小さく頷いた。
「うん」
律が最後に言う。
『帰宅を推奨します』
「台無し」
栞が言い、ましろが笑う。
陸も少しだけ笑った。
四人は時計塔を離れた。
夕方の校庭を横切る風は、さっきまでより少しだけ軽かった。




