翌朝の出席簿には、白凪ましろの名前が戻っていた
翌朝、陸はいつもより早く目が覚めた。
目覚ましより先だった。
カーテンの隙間から薄い朝の光が入っている。
昨日までの重たさは、まだ完全には抜けていない。
けれど、何かが違っていた。
部屋の空気が軽い。
窓の外から名前を呼ぶ声もしない。
机の上の黒いノートも、鞄の中で静かにしている。
陸はしばらく天井を見上げていた。
終わったのかもしれない。
そう思った瞬間、スマホが震えた。
栞からだった。
**朝霧くん、もう起きてる?**
**学校、早めに来られる?**
**ちょっと変なことになってる**
「……最後までそれかよ」
陸は小さく呟き、身を起こした。
『おはようございます』
律の声が、いつも通り聞こえる。
「おはよう」
「で、何か知ってるか」
『現時点では未確認です』
『ただし、三枝栞の文面から緊急度は中程度と推定します』
「便利だな」
『便利ですので』
その返しが少しだけ懐かしくて、陸は短く笑った。
*
学校に着くと、栞は図書室前ではなく、職員室近くの掲示板の前にいた。
朝の廊下はまだ人が少ない。
それでも何人かの生徒が通り過ぎ、掲示物を見たり、友人と話したりしている。
栞は陸に気づくと、無言で一枚の紙を指さした。
「これ」
それは、二年生のクラス別名簿だった。
新学期直後に貼られる、選択科目と連絡用の簡易名簿。
陸は二年B組の欄を見る。
朝霧陸。
見慣れた名前が並んでいる。
そして、その少し下。
**白凪ましろ**
その名前が、何の違和感もないようにそこにあった。
「……戻ってる」
陸の声が低くなる。
栞は頷いた。
「昨日まではなかった」
「少なくとも、私は見た記憶ない」
『私の保持している昨日以前の記録にも、二年B組の名簿内に白凪ましろの名前はありません』
「じゃあ、昨日のあとに変わったってことか」
『可能性が高いです』
陸はもう一度、名簿を見る。
白凪ましろ。
二年A組。
まるで最初からそこにいたみたいに、普通のフォントで印字されている。
白く飛んでいるわけでも、滲んでいるわけでもない。
ただ、そこに名前がある。
栞が小さく言う。
「でも、全部戻った感じじゃない」
「何で」
「この下」
栞が名簿の端を指す。
備考欄。
小さな文字で、こう書かれていた。
**長期療養より復帰。詳細確認中。**
陸は眉をひそめる。
「長期療養」
「現実が、そういうことにしたんだと思う」
栞の言い方は落ち着いていたが、少しだけ複雑そうだった。
「消えた、とか、名前がほどけた、とかは記録できないから」
「学校の中で扱える言葉に置き換わったんじゃないかな」
「……便利だけど、雑だな」
『社会制度上の整合性としては妥当です』
「お前まで現実側に回るな」
その時、廊下の向こうから声がした。
「あ、陸」
呼ばれて、陸は振り返る。
白凪ましろが立っていた。
制服姿だった。
昨日、時計塔の下で見た時より、さらに輪郭がはっきりしている。
まだ少しだけ透けているように見える瞬間はある。
けれど、他の生徒たちは特に驚いた様子もなく、普通に横を通り過ぎていく。
それが逆に不思議だった。
「……お前、普通に登校してきたのか」
「うん」
「家とか、どうなってるんだ」
ましろは少しだけ困った顔をした。
「それが、よくわからない」
「朝、気づいたら学生寮の部屋にいた」
「寮?」
学校の記録上は、遠方の親族の事情で一時的に寮へ入っていることになっていた。
その説明が本当なのか、それとも現実が後から作った帳尻合わせなのか、ましろ自身にもわからない。
けれど少なくとも、今の彼女が明日も学校に来るための場所だけは用意されていた。
栞が聞き返す。
「この学校、寮なんかあったか?」
「あるよ」
「でも、ほとんど使われてない。遠方通学の子用の小さいやつ」
栞が説明する。
陸は初めて聞いたという顔をした。
「そんな設定、急に出すなよ」
「設定って言わない」
ましろは小さく笑った。
「部屋には、わたしの荷物が少しあった」
「教科書と、制服と、歯ブラシと」
「でも、全部新しいみたいで、古い記憶はない」
「帳尻合わせ、ってやつか」
『その可能性が高いです』
律が言う。
『白凪ましろが現在の学校生活に参加できる最低限の整合性が生成されています』
『ただし、過去の人間関係や家庭情報までは完全には復元されていないようです』
「つまり、ましろは戻ったけど、全部元通りじゃない」
栞が静かに言う。
ましろは頷いた。
「うん」
「でも、それでいいと思う」
陸はましろを見る。
「いいのか」
「全部元通りになったら」
「たぶん、今のわたしがどこかに混ざっちゃう気がする」
「去年の白凪ましろでも、空白でもなくて」
「今ここにいる白凪ましろでいたい」
その言葉は、昨日時計塔の下で聞いたものより、少しだけ日常に近かった。
空白を迎え入れたあと。
名前を固定したあと。
それでもなお、自分をどう扱うかを選んでいる。
「……そっか」
陸はそれ以上、何も言わなかった。
*
朝のホームルームで、担任は普通に言った。
「それから、今日から白凪が復帰する。長期療養明けだから、しばらく無理はしないように。みんなも適当に気を遣ってやれ」
教室が少しだけざわつく。
だが、誰も大きく驚かない。
何人かが「そうなんだ」「よろしく」くらいの反応をする。
まるで、白凪ましろという名前を聞いたことはあるが、深く覚えてはいない、というような空気だった。
ましろは教室の前に立ち、少しだけ緊張した顔で頭を下げた。
「白凪ましろです」
「……よろしくお願いします」
短い挨拶。
それでも、その声はちゃんと教室に届いた。
陸は自分の席でそれを聞きながら、少しだけ胸の奥が詰まる。
昨日、時計塔の下で名前を届けた。
その名前が、今は教室の中で普通に呼ばれている。
ただそれだけのことが、妙に大きかった。
ましろの席は、陸の斜め前だった。
栞の隣ではない。
陸の隣でもない。
でも、近い。
それもまた、何かの帳尻合わせみたいだった。
『学校生活への再統合は、現時点では成功しているようです』
律が小さく言う。
「再統合って言うな」
「転校生みたいに聞こえるだろ」
『実態としては、それに近いかもしれません』
「まあ、そうかもな」
授業が始まる。
教師が黒板に字を書く。
ノートを開く音。
シャーペンの芯が折れる音。
誰かが小さくあくびをする音。
全部、普通だった。
その普通の中に、白凪ましろがいる。
それが一番不思議で、一番よかった。
*
昼休み、四人は中庭の端に集まった。
正確には、三人と一つのスマホだった。
律は机上ホログラムを出すには少し目立ちすぎるので、今日は音声だけだ。
ましろは購買で買ったパンを両手で持ち、少し困ったように見つめている。
「どうした」
陸が聞く。
「食べるの、久しぶりな気がする」
「昨日まで光だったからな」
「言い方」
栞が軽く睨む。
ましろは少し笑ってから、小さくパンをかじった。
そして、目を丸くする。
「……味がする」
「そりゃするだろ」
「するけど」
「すごい」
その反応が真剣すぎて、陸は少し黙った。
栞も同じように黙り、それからやわらかく笑う。
「おいしい?」
「うん」
「普通のクリームパンなのに、すごくおいしい」
『味覚反応の正常化を確認』
「律、今それ言わなくていい」
『失礼しました』
ましろはそれでも笑っていた。
名前がある。
席がある。
味がする。
たぶん、それだけで今のましろには十分すぎるくらいなのだろう。
陸はふと、昨日のノートの言葉を思い出した。
**あとは、今の四人で決めろ。**
それはきっと、ましろをどう学校に戻すかだけの話ではない。
この先、四人がどう関わっていくか。
ましろの秘密をどこまで共有するか。
去年のことをどこまで追い続けるか。
そういう全部を、もう過去の自分やノートに任せるな、という意味なのだろう。
「……今の四人で決めること、まだあるな」
陸が言うと、栞が頷く。
「うん」
ましろもパンを持ったままこちらを見る。
「何を?」
「お前のこと」
「俺たち以外にどこまで話すか」
「これから困った時にどうするか」
「あと、律が変な挙動した時の対処」
『最後の項目に異議があります』
「大事だろ」
『否定しきれません』
「しきれないのかよ」
栞が少し笑った。
「まず、ましろのことは無理に説明しない」
「学校の記録上は長期療養からの復帰。それで通す」
ましろは頷く。
「うん」
「その方がいいと思う」
「何か思い出したり、身体が不安定になったら、すぐ私たちに言う」
「一人で抱えない」
栞の声は少し強かった。
ましろはその意図をわかったように、まっすぐ頷いた。
「わかった」
陸も言う。
「俺も、一人で抱えない」
「たぶん去年それで失敗したし」
「そこ、ちゃんと覚えてて」
「うるさいな。覚えてるよ」
律が静かに続ける。
『私も、異常を確認した場合は即時共有します』
『独断処理は避けます』
「お前が一番信用ならない時あるからな」
『不当評価です』
「でも、前科あるでしょ」
栞が言うと、律は少しだけ沈黙した。
『否定しきれません』
今度はましろも笑った。
その笑い声を聞いて、陸は少しだけ安心する。
これがたぶん、“今の四人で決める”ということなのだろう。
大げさな儀式でも、運命の選択でもない。
これからどう日常に戻るかを、四人で決める。
失敗しないためではなく。
もう誰か一人を置いていかないために。
*
放課後、第二準備室に行く必要はなかった。
黒いノートも開かない。
カセットレコーダーも鳴らない。
窓の外から声もしない。
ただ、普通に放課後が来た。
それが少しだけ物足りないような、ひどくありがたいような、変な感じだった。
昇降口を出る時、ましろが立ち止まった。
「……帰り道」
「ん?」
「一緒に帰っていい?」
陸は少しだけ目を瞬かせた。
そんな普通のことを、ましろが少し緊張した顔で聞いている。
それが妙におかしかった。
「別にいいけど」
「言い方」
栞が言う。
「いいよ、って言いなよ」
「いいよ」
言い直すと、ましろは嬉しそうに笑った。
律が言う。
『帰宅経路を共有します』
「お前はナビか」
『必要であれば』
「いらん」
四人は校門を出る。
春の夕方。
少しだけ暖かい風。
昨日までよりも、空の色がはっきりして見えた。
ましろは隣を歩きながら、何度も周囲を見ている。
道路脇の花。
通り過ぎる自転車。
電柱の影。
店先の小さな看板。
全部を確かめるように。
陸はそれを横目で見ながら、ふと思う。
これで全部が解決したわけではない。
ましろの生活は、まだ不安定だ。
学校の記録も、どこまで帳尻が合っているかはわからない。
律の起源だって、完全に解けたわけではない。
それでも、今はこれでいいのだと思った。
名前のある日常へ戻る。
きっと、それは一日で完成するものではない。
何度も呼んで。
何度も返事をして。
少しずつ、本当にそこにいることにしていく。
ましろが、ふいに陸を見る。
「陸」
「何だ」
「呼んだだけ」
「……そうかよ」
栞が少し笑う。
律は何も言わない。
その沈黙も、悪くなかった。
春の帰り道を、四人は並んで歩いた。
昨日まで追いかけていた過去ではなく、今日から続く日常の中へ。




