何も起きない放課後に、四人はやっと少しだけ笑えた
翌日も、その次の日も、何も起きなかった。
黒いノートは開かない。
カセットレコーダーも鳴らない。
窓の外から声もしない。
第二準備室の空気も、ただ古くて埃っぽいだけだった。
それが逆に、陸には少し落ち着かなかった。
何も起きないことに慣れていない。
ここ数日で、何かが勝手に浮かび、開き、鳴り、呼ぶことに慣れすぎてしまった。
普通の授業。
普通の休み時間。
普通の放課後。
その全部が、少しだけ不自然に見える。
『通常状態への適応に時間を要している可能性があります』
律が言う。
「要するに、平和ボケの逆か」
『近いです』
「便利だな、お前」
『便利ですので』
いつものやり取りをしながら、陸は教室の斜め前を見る。
白凪ましろは、机に向かってノートを取っていた。
まだ少し遅い。
黒板を写す手が途中で止まることもある。
けれど、前よりずっと自然だった。
隣の席の女子が消しゴムを落とす。
ましろがそれを拾って渡す。
相手が「ありがと」と言う。
ましろが「うん」と返す。
それだけのやり取りを見て、陸はなぜか少し息を吐いた。
ちゃんと、日常の中にいる。
それが確認できるだけで、少し安心する。
*
昼休み、ましろは栞に連れられて図書室へ行った。
陸も何となくついていく。
行く理由は特にない。
けれど、二人だけで行かせるのも少し気になるし、かといって過保護に見えるのも嫌だった。
「ついてきてるね」
栞が言う。
「図書室に用があるだけだ」
「何借りるの?」
「……未定」
「それは用があるって言わない」
ましろが小さく笑う。
「陸、心配してくれてる?」
「してない」
『しています』
「お前は黙ってろ」
律の即答に、栞が笑い、ましろもまた笑った。
図書室は静かだった。
昼休みの割に人は少ない。
窓から入る光が、本棚の影を長く伸ばしている。
ましろは入り口で少し立ち止まった。
「……ここ」
栞がすぐに声をかける。
「大丈夫?」
「うん」
「怖くはない」
「でも、いろいろ残ってる」
それは記憶のことなのだろう。
去年、名前を書けずにしゃがみ込んでいた場所。
栞が手を伸ばし、図書委員バッジを渡した場所。
ましろはゆっくり奥へ進む。
本棚の間。
窓際の机。
そこに触れるように立ち止まる。
「ここで、白凪って書いたんだ」
栞が静かに頷く。
「うん」
「たぶん、ここ」
ましろは机の上に指を置いた。
何かをなぞるように動かす。
「白」
「凪」
「ましろ」
声に出して、一文字ずつ確かめる。
その声はもう掠れていない。
ちゃんと、教室でも、廊下でも、図書室でも届く声だった。
陸は少し離れて、それを見ていた。
前なら、ここで何かが起きたかもしれない。
文字が浮かぶとか。
白い影が滲むとか。
窓の外から声がするとか。
でも、何も起きなかった。
ただ、ましろが自分の名前をなぞっただけだった。
それで十分だった。
「……普通だな」
陸が呟くと、栞が振り返る。
「何が?」
「いや」
「普通に名前書けるって、すごいんだなって」
栞は少し驚いた顔をして、それからやわらかく笑った。
「たまに素直だね」
「たまに余計なこと言うな、お前」
ましろは机から顔を上げて、少し得意げに言った。
「今度、ちゃんとノートにも書く」
「白凪ましろって」
「何回でも書けばいいだろ」
「うん」
「何回でも書く」
その言い方があまりに真面目で、陸は少しだけ視線を逸らした。
*
放課後、四人は第二準備室に集まった。
用事はない。
手がかり探しでもない。
ただ、なんとなくそこへ来ていた。
机の上には、黒いノートが置かれている。
けれどもう開かない。
ましろがそれを見て、不思議そうに言った。
「これ、もう使わないのかな」
「使わない方がいいだろ」
陸が即答する。
「勝手に開くノートなんか、日常にいらない」
『同意します』
「お前が同意すると、ちょっと不安になる」
『なぜですか』
「お前もまあまあ日常から外れてるから」
『不当評価です』
「妥当だろ」
栞が笑う。
ましろも、ノートを見ながら少しだけ笑っていた。
その笑い方には、もう怯えがなかった。
陸は椅子に座り、机に肘をつく。
「で」
「これからどうする」
栞が首を傾げる。
「何を?」
「ましろのこと」
「学校には戻った」
「でも、全部わからないままだろ」
「寮とか、生活とか、家族とか」
ましろは少しだけ視線を落とした。
「うん」
「まだ、よくわからないことは多い」
「不安か?」
陸が聞く。
ましろは少し考えてから、正直に答えた。
「不安」
「でも、前みたいに空白になりたいとは思わない」
その言葉だけで、十分大きな変化だった。
栞が言う。
「寮のことは、私も一緒に確認する」
「先生に聞ける範囲で聞いてみる」
「無理に全部説明しようとしなくていいと思う」
律が続ける。
『学校内記録に矛盾が発生していないか、可能な範囲で観測します』
『ただし、不要な干渉は避けます』
「お前、成長したな」
『継続的な相互作用の結果です』
「またそれか」
ましろは三人を見て、少しだけ表情を緩めた。
「ありがとう」
「わたし、たぶん一人だったら、また考えすぎる」
「考えすぎたら言え」
陸が言う。
「俺たちも、考えすぎて変な方向行く時あるから」
「その時は止めろ」
「陸は止めても行きそう」
「否定はしない」
『そこは否定してください』
律の声に、栞が吹き出した。
なんでもない会話だった。
それが、なぜかひどく大事なものに思えた。
去年の四人は、たぶんこういう会話を十分にできなかった。
時間がなくて、怖くて、誰かが一人で抱え込んで、最後は届かなかった。
今は違う。
完全ではない。
不安も残っている。
わからないことも多い。
でも、何かが起きる前に話せる。
怖いときに怖いと言える。
一人で背負わないと決められる。
それだけで、去年とは違う。
*
夕方、第二準備室を出る前に、ましろが黒いノートを手に取った。
「持っていかなくていいのか」
陸が聞く。
「うん」
「ここに置いておきたい」
「何で」
ましろは少し考えた。
「これは、去年の陸が残してくれたものだから」
「持ち歩くより、ここにあった方がいい気がする」
「始まった場所に」
陸はノートを見る。
去年の自分が、一人で失敗して、それでも今の自分たちへ残した道しるべ。
腹は立つ。
でも、感謝していないわけではない。
「……そうだな」
陸は机の引き出しを開け、そこにノートを入れた。
同じ場所に、空になった白い封筒も入れる。
カセットレコーダーも、写真も、メモも。
全部を一つにまとめて、そっと奥へしまった。
栞が言う。
「鍵、かける?」
「いや」
「たぶん、必要な時しか開かないだろ」
『根拠は不十分ですが、経験則としては妥当です』
「じゃあいいだろ」
引き出しを閉める。
それだけで、何かの区切りがついた気がした。
ましろは閉じられた引き出しを見つめて、小さく言う。
「ありがとう」
誰に向けた言葉なのかは、聞かなかった。
たぶん、去年の陸へ。
去年の栞へ。
去年の律へ。
そして、空白になりかけた自分へ。
その全部へ向けた言葉だった。
*
帰り道、四人はいつもの道を歩いた。
学校の門を出て、坂を下り、住宅街へ入る。
夕方の空は少し赤い。
風は柔らかく、昨日より暖かい。
ましろは相変わらず、周囲をよく見ていた。
電線に止まった鳥。
道端の小さな花。
遠くを走るバス。
コンビニの前で立ち話する生徒たち。
その一つ一つを、確かめるように。
「そんなに珍しいか」
陸が聞くと、ましろは頷いた。
「うん」
「全部、少しだけ新しい」
「毎日見てたら飽きるぞ」
「飽きるくらい見たい」
その返事に、陸は黙った。
栞が横で少しだけ笑う。
「じゃあ、明日も一緒に帰ろう」
ましろは嬉しそうに頷いた。
「うん」
陸は何も言わなかった。
でも、その沈黙を否定とは誰も取らなかった。
律が小さく言う。
『明日の帰宅予定を仮登録します』
「するな」
『冗談です』
「お前、冗談覚えたのか」
『継続的な相互作用の結果です』
「便利すぎるだろ、それ」
ましろが笑う。
栞も笑う。
陸も、少しだけ笑った。
何も起きない放課後。
ただ帰るだけの道。
でも、その普通の時間が、今の四人にはまだ少し眩しかった。
角を曲がると、春の帰り道がまっすぐ伸びている。
あの日、陸が淡いピンクの光を見つけた植え込みが、この先にある。
ましろも、そこに気づいたのかもしれない。
歩く速度が少しだけゆっくりになった。
次にそこを通る時、たぶん本当にこの話は終わる。
そんな予感が、陸にはあった。




