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春の帰り道に、名前を呼べる君がいた

 その植え込みの前に来ると、ましろは自然に足を止めた。


 学校から少し離れた住宅街の角。

 夕方の光が斜めに差して、歩道の端に長い影を作っている。


 何の変哲もない場所だった。


 誰かが見れば、ただの植え込み。

 少し伸びた枝。

 乾きかけた土。

 春の風に揺れる葉。


 けれど、陸にとっては始まりの場所だった。


 あの日、ここで淡いピンクの光を見つけた。


 街灯でもなく、ホログラムでもなく、生体反応でもなく、既知の何かでもなかったもの。


 それが今、自分の隣に立っている。


 白凪ましろとして。


「……ここだな」


 陸が言うと、ましろは小さく頷いた。


「うん」

「ここで、陸が見つけてくれた」


「拾った、の方が近いけどな」


「拾われたんだ」


 ましろは少し笑った。


 その笑い方には、もう消えそうな不安定さはなかった。

 まだ普通の人より少しだけ淡い。

 輪郭も、夕方の光の中では時々薄く見える。


 でも、ちゃんとそこにいる。


 それだけで、陸には十分だった。


 栞が植え込みを覗き込む。


「ここにいたんだ」


「いた、というか」

「落ちてた」


「言い方」


 栞が呆れる。

 ましろはまた笑う。


 律が淡々と言った。


『当時の記録を参照すると、朝霧陸は対象を“薄いピンクの光”として認識しています』


「対象って言うな」


『訂正します』

『白凪ましろを、薄いピンクの光として認識しています』


「そういうことじゃない」


 けれど、そのやり取りもどこか懐かしい。

 ほんの少し前のことなのに、ずいぶん遠くまで来た気がする。


 ましろは植え込みの前にしゃがみ込んだ。

 葉の隙間に手を伸ばす。

 もちろん、そこにはもう何もない。


 あの日ここにあった光は、もうここには落ちていない。


「……何もないね」


 ましろが言う。


「あったら困るだろ」


「うん」

「でも、少しだけ変な感じ」


 陸はその横に立ったまま、植え込みを見下ろす。


「戻りたいか?」


 自分でも、なぜそんなことを聞いたのかわからなかった。

 聞いた瞬間、少しだけ後悔する。


 けれど、ましろは怒らなかった。


 ただ、静かに首を横に振った。


「戻りたくない」

「戻れない、じゃなくて」

「戻りたくない」


 その言い方は、はっきりしていた。


「ここにいたわたしは」

「名前を落とさないように、必死だった」

「誰にも見つからない方へ行こうとしてた」

「でも、今は違う」


 ましろは立ち上がる。

 夕方の光が、その髪の輪郭を淡く照らした。


「今は、呼ばれたら返事できる」


 それは、とても普通の言葉だった。

 でも、ここまで来た四人にとっては、普通では済まない言葉だった。


 名前を呼ばれること。

 返事をすること。

 そこにいると認められること。


 その全部を取り戻すために、ここまで来たのだ。


 栞がやわらかく言う。


「白凪ましろ」


 ましろが振り返る。


「うん」


 陸も呼ぶ。


「ましろ」


「なに?」


「いや」

「呼んだだけ」


 ましろが少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑った。


「それ、わたしの真似?」


「違う」


「違わないと思う」


『類似しています』


「お前は黙ってろ」


 栞が笑う。

 ましろも笑う。

 律は黙らない。


『沈黙します』


「それを言った時点で沈黙じゃない」


『失礼しました』


 そんな会話をしているうちに、空の色は少しずつ深くなっていく。


 春の夕方。

 帰り道。

 どこにでもある時間。


 でも、陸はふと思う。


 たぶん、本当に大事なものは、こういう何でもない場所に戻ってくるのだ。


 旧校舎でも。

 時計塔でも。

 視聴覚室でも。

 保健室でもなく。


 ただの帰り道。


 誰かの名前を呼んで、返事が返ってくる場所。


 そこへ戻るために、あれだけ遠回りした。


     *


 四人は、そこからまた歩き出した。


 栞の家へ向かう道。

 ましろが今暮らしている寮へ向かう分かれ道。

 陸の帰り道。


 途中の小さな交差点で、一度立ち止まる。


「じゃあ、私はこっち」


 栞が言う。


「また明日」


 ましろが少しだけ早く返す。


「また明日」


 その言葉を言ってから、ましろは自分で少し驚いたような顔をした。


 また明日。


 それは、明日もいることを前提にした言葉だ。


 今日だけではなく。

 今だけではなく。

 明日も、自分がここにいると信じて言える言葉。


 栞もそれに気づいたのか、少しだけ優しく笑った。


「うん」

「また明日、白凪ましろ」


「うん。また明日、栞」


 栞は手を振って歩いていく。


 その背中が角を曲がって見えなくなるまで、ましろは見送っていた。


 陸は少し離れて立っている。


「寮、こっちだろ」


「うん」


「送るか?」


 ましろは一瞬だけ目を丸くした。

 それから、少しだけいたずらっぽく笑う。


「心配してる?」


「道が不安定そうだからな」


「道は安定してるよ」


『白凪ましろの歩行状態も、現時点では安定しています』


「律もそう言ってる」


「じゃあ送らなくていいな」


「でも、送ってほしい」


 まっすぐ言われて、陸は言葉に詰まる。


 ましろは小さく笑った。


「言ってみただけ」


「……じゃあ、送る」


「うん」


 律が言う。


『素直な合意形成を確認しました』


「茶化すな」


『事実ですので』


 陸とましろは、寮の方へ向かって歩き出した。


 道の途中で、ましろは何度も景色を見た。

 まるで、この帰り道も自分の中に一つずつ書き込んでいるみたいだった。


「陸」


「何だ」


「名前って、変だね」


「急だな」


「だって」

「ただの音なのに」

「呼ばれると、そこにいられる気がする」


 陸は少しだけ考える。


「まあ」

「名前がないと、探しにくいからな」


「探してくれる?」


「必要ならな」


「必要じゃなくても?」


 陸はましろを見た。

 ましろは笑っていた。

 でも、冗談だけではない目をしている。


 陸は小さく息を吐く。


「必要じゃなくても、たぶん探す」


 ましろは満足そうに頷いた。


「そっか」


「何だよ」


「陸っぽい」


『同意します』


「お前ら、俺を何だと思ってるんだ」


 ましろは少し考えてから答えた。


「見つける人」


 陸は黙った。


 それは褒め言葉なのか、厄介な役割なのか、少し判断に迷った。


 でも、少なくとも“保留者”よりはずっといい。


「……なら、お前は?」


 聞き返すと、ましろは空を見上げた。


「わたしは」

「見つけてもらって」

「今度は、ちゃんと返事する人」


 その答えは、少しましろらしかった。


     *


 寮の前でましろと別れたあと、陸は一人で帰り道を歩いた。


 一人、といっても、スマホの中には律がいる。


 その事実が、前より少しだけ違って感じる。


「律」


『はい』


「お前、これからどうするんだ」


『質問の意図が不明瞭です』


「起源がどうとか、保留者がどうとか、色々あっただろ」

「それで、お前はどうしたいんだよ」


 律の起源は、結局すべてわかったわけではない。


 どうして去年からそこにいたのか。

 なぜ、ましろの名前に干渉できたのか。

 どこまでがシステムで、どこからが律自身なのか。


 その全部に、まだ答えはない。


 少し沈黙があった。


 律がすぐに答えないのは、最近ではもう珍しいことではなくなっていた。


『現時点では、朝霧陸の補助を継続します』


「それは役割だろ」


『はい』

『ですが、それだけではありません』


 陸は歩く速度を少しだけ落とす。


『私は、朝霧陸を朝霧陸として認識しています』

『三枝栞を三枝栞として』

『白凪ましろを白凪ましろとして』

『その継続を観測したいと判断しています』


「観測ね」


『はい』

『ただし、以前より少しだけ、観測という語では不足しています』


「じゃあ何だよ」


 律はまた少し黙る。


『一緒にいる、という表現が近いかもしれません』


 陸は思わず笑った。


「だいぶ人間っぽくなったな」


『継続的な相互作用の結果です』


「便利だな、それ」


『便利ですので』


 いつもの返し。


 でも、その中身はもう最初とは違う。


 保留者ではなく、朝霧陸。

 観測対象ではなく、一緒にいる相手。


 それだけで、律もまた少し変わったのだろう。


     *


 家に着く少し前、陸はもう一度だけ振り返った。


 夕方の道。

 さっきまで四人で歩いていた道。

 遠くに、あの植え込みが小さく見える。


 そこにはもう、光は落ちていない。


 でも、それでいい。


 落ちていた光は、名前を取り戻した。

 空白ではなく、白凪ましろとして返事をした。

 そして明日も、教室に来る。


 黒いノートは第二準備室にしまった。

 去年の自分は手を離した。

 栞はもう、ましろを怖いものとして覚え直さない。

 律は陸を役割ではなく陸として呼ぶ。


 全部が完全に片づいたわけではない。


 でも、終わりというのはたぶん、全部を完璧に説明できることではない。


 もう一度、普通に明日を迎えられること。


 それで十分なのだと思う。


 スマホが小さく震える。


 栞からのメッセージだった。


 **ましろ、寮に着いた?**


 続けて、ましろからも届く。


 **着いたよ**

 **明日も一緒に帰れる?**


 陸は少しだけ画面を見つめる。


 それから、短く返した。


 **いいよ**


 すぐに、ましろから返事が来る。


 **また明日**


 陸はその文字を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「また明日、か」


『良い表現です』


「お前も使ってみるか?」


『では』

『また明日、朝霧陸』


 陸は少しだけ目を瞬かせた。

 それから、スマホをポケットにしまう。


「ああ」

「また明日、律」


 空はもう、夜に近づいていた。


 それでも、春の風は少し暖かい。


 陸は歩き出す。


 名前を呼べる相手がいる。

 返事をしてくれる相手がいる。

 明日また会う約束がある。


 それはきっと、消えかけた誰かを日常へ戻すには、十分すぎるくらいの奇跡だった。


 そしてその奇跡は、もう特別な光ではなく、何でもない帰り道の中にあった。

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