第七話
土曜日の午後、病院へ向かうバスは、駅前のロータリーをゆっくり離れた。
冷房は効いているのに、窓際の席だけは七月の熱をまだ残していた。
白石は隣に座っている。
僕の膝の上には、淡い黄色の紙袋。
中には、部屋で預かっていた空き容器が二つと、薄いオレンジ色のセロファンと、コンビニで買った透明なテープ。
七月一日、《ミモザ》の前で白石から預かった容器だ。
昨日の夜、机の端から紙袋へ移した。
ただ置いてあった時とは、重さが違う気がした。
病室に夕焼けを作るための材料。
そう知ってから一日しか経っていないのに、紙袋の中身は、もうただの空き容器ではなくなっていた。
中身は軽い。
容器も、セロファンも、テープも。
それなのに、バスが曲がるたび、僕は紙袋が倒れないように足で押さえていた。
白石はそれを見て、何も言わなかった。
ただ、手の甲で紙袋の持ち手を一度だけ直した。
指先が僕の指に近づく。
触れはしない。
でも、近い。
「緊張してる?」
白石が窓の外を見たまま言った。
「してない」
「紙袋、守備固めされてる」
「中身が重要物資だからな」
「夕焼け戦線、初陣です」
「相変わらず名前が大げさすぎる」
「それくらいがちょうど良いでしょ?」
白石はそう言って、少しだけ肩を落とした。
笑うための声だった。
でも、膝の上の手は固い。
病院前の停留所が近づくと、車内アナウンスが流れた。
白石は鞄から定期入れを出す。
何度も来ている場所なのだと、その動作だけで分かった。
僕は紙袋を持ち上げた。
中で容器が小さく鳴る。
白石の目が、音のした場所へ落ちた。
「割れてない?」
「たぶん」
「たぶん禁止」
「割れてない」
「よし」
バスを降りると、空気が変わった。
駅前の熱や、コンビニの冷房や、部活帰りの声とは違う。
病院の入口の前には、白いタイルが敷かれていた。
そこを歩く人たちは、みんな少しだけ声を低くしている。
自動ドアが開く。
消毒液の匂いが、冷たい空気に混じって流れてきた。
白石はそこで一度、立ち止まった。
「こっち」
声はいつもより小さい。
僕はうなずいて、後ろをついていく。
受付の横を通り、エレベーターへ向かう。
壁も、床も、天井も白かった。
全部が清潔で、全部が静かで、僕だけが場違いに紙袋を持っている。
中身は、プリンの空き容器だ。
昨日まで僕の部屋の机の端にあったもの。
それが今、病院の廊下を移動している。
エレベーターの中で、白石は階数ボタンを押した。
指が少し迷ってから、いつもの階に落ち着く。
扉が閉まる。
鏡みたいな壁に、僕と白石が並んで映った。
白石は自分の顔を見なかった。
僕も、見ないことにした。
病棟の廊下は、さらに静かだった。
遠くで機械の電子音が鳴る。
看護師さんの靴音が、床を滑るように通り過ぎていく。
白石は何度か立ち止まりそうになりながら、病室の前まで歩いた。
扉の横には、名前の札があった。
白石美和子。
その文字を見た瞬間、紙袋の持ち手が指に食い込んだ。
白石は扉に手をかける前に、僕の方を見た。
いつもの軽口はなかった。
「いてね」
短い声だった。
僕はすぐに答えた。
「いる」
白石は一度だけうなずいて、扉を引いた。
病室の中は、思っていたより明るかった。
窓際にベッドがあり、白いカーテンが半分だけ引かれている。
小さな棚。
水の入ったコップ。
丸い時計。
花瓶には、まだ開ききっていない黄色い花が一本挿してあった。
ベッドの上の人が顔を上げる。
白石によく似た目だった。
ただ、白石より少し柔らかくて、笑う前から笑っているように見える。
「ひなた」
「ただいま」
「おかえり」
美和子さんは、次に僕を見た。
「それで」
白石が一歩横へずれる。
僕は紙袋を持ったまま、背筋を伸ばした。
「高瀬陽斗です」
「はい。噂の」
「噂」
「ごめんなさいね。ひなたが、あなたのことを楽しそうに話すものだから」
「お母さん」
「違った? 金曜日係さん」
「合ってるけど、本人の前で言わないで」
「本人じゃないところでは言っていいの?」
「そういう問題じゃない」
白石は俯いた。
カーディガンの袖を、指で小さくつまんでいる。
僕は紙袋を持ったまま、立ち尽くした。
白石が僕のことを、ここで話していた。
その事実だけで、病室の白い空気に、少しだけ別の温度が混ざった。
美和子さんは、そんな僕たちを見て、やわらかく笑う。
「この子、昔から大事なものほど、変な名前をつけるの」
「変な名前じゃない」
「じゃあ、大事な名前?」
白石は答えなかった。
その沈黙が、いちばん答えに近かった。
美和子さんは楽しそうに目を細めた。
けれど、そのあと、ほんの短く息を整える。
笑い終えたあとに残った間を、白石が先に見つけてしまう。
彼女の手が、カーディガンの裾を握った。
僕はそこに入っていいのか分からなくて、紙袋を持ったまま立っていた。
白石がそれに気づく。
「高瀬くん、こっち」
窓際の小さなテーブルを指さした。
僕は紙袋を置く。
中から空き容器を出す時、容器同士がこつんと鳴った。
美和子さんの視線が、そこに留まる。
「本当に持ってきたのね」
「試作一号です」
白石の声が、ほんの少しだけ張る。
「今日はまだ一個だけ。完成版は、もうちょっとちゃんとやる予定」
「予定って言った」
僕が言うと、白石はこっちを見た。
「金曜日係の影響です」
「責任転嫁が早い」
「共同事業なので」
美和子さんは僕たちを見て、また笑った。
「いいわね、共同事業」
その言葉だけ、白石は返さなかった。
白石は鞄からクリアファイルを取り出した。
薄いオレンジ色のセロファンが、病室の白い光の中では頼りなく見える。
白石は容器の内側にそれを当てた。
僕はテープを切ろうとして、端を見失った。
爪で探す。
見つからない。
セロファンを片手で押さえていた白石が、じっと見ている。
「苦戦中?」
「透明な敵が強い」
「テープ開封係、落第候補」
「初業務なんだよ」
「伸びしろ」
美和子さんがベッドの上から言った。
「陽斗くん、不器用なの?」
「高評価らしいです」
「ひなた評価?」
「はい」
「それなら大丈夫ね」
「お母さんまでその制度を信じないで」
白石はそう言いながら、テープの端を見つけて僕に渡した。
指先が触れた。
ほんの一瞬。
白石は何も言わず、セロファンへ視線を戻す。
僕も何も言わなかった。
テープは、思ったより扱いづらかった。
セロファンは薄くて、少し力を入れるとすぐしわになる。
容器の丸みに沿わせようとすると、端が浮く。
貼り直そうとすると、余計に波打つ。
白石は口を開きかけて、閉じた。
たぶん、笑わないようにしている。
「言えよ」
「しわしわ」
「知ってる」
「でも、頑張ってるしわしわ」
「慰め方が雑」
「褒めています」
「どこが」
「諦めてないところ」
その言い方が思ったよりまっすぐで、僕はテープを貼る手を止めかけた。
止めるとまたしわになる。
だから続けた。
ようやく容器の内側にセロファンを留め終える。
薄いオレンジの膜が、容器の中で不格好に丸まっていた。
白石はそれを両手で持ち上げる。
窓際へ運び、カーテンを少しだけ開けた。
午後の光が入る。
強い夕焼けではない。
まだ夕方にもなりきっていない、白い光だった。
それでも、セロファンを通ると、壁に薄い色が落ちた。
病室の白い壁の一部だけが、ほんのり変わる。
しわの影がいくつも入って、まっすぐではない。
上手とは、とても言えない。
けれど、美和子さんはそれを見て、静かに息を吸った。
「きれいね」
白石の肩が止まった。
僕は美和子さんを見た。
美和子さんは壁を見ていた。
その目は、作品を見る目ではなかった。
たぶん、そこに映っている時間を見ていた。
「本当に?」
白石が聞く。
「本当」
「しわしわだよ」
「しわしわね」
「そこは否定して」
「でも、きれい」
美和子さんは笑った。
今度は、笑ったあとに咳が少し混じった。
白石がすぐにベッドの方へ近づく。
「水」
「平気」
「平気じゃなくても飲む」
「はい」
白石はコップを取って、ストローを美和子さんの口元へ寄せた。
その手つきは慣れていた。
慣れていることが、痛いくらいに分かる動きだった。
僕は一歩下がった。
下がるしかなかった。
今の二人の間に、僕が入る場所はない。
紙袋の取っ手を指でつまむ。
もう一つの空き容器が、袋の底で傾いている。
「高瀬くん」
白石が言った。
僕は顔を上げる。
白石はこっちを見ていた。
「いて」
病室前の声より、はっきりしていた。
僕は下がった足を戻した。
美和子さんは水を少し飲み、息を整える。
「ごめんね」
誰に向けた言葉なのか、最初は分からなかった。
美和子さんは白石の手に自分の指を重ねた。
「ひなたの普通、私が持っていっちゃって」
病室の時計の秒針が動く。
白石はコップを棚に置いた。
「持っていかれてない」
「でも」
「私が一緒にいたいの」
その声には、軽口がなかった。
白石は美和子さんの手を、両手で包む。
「お母さんが病院にいるから、私がここに来てるんじゃない」
美和子さんが白石を見る。
「私が、お母さんといたいから来てる」
その言葉のあと、白石は急にこっちを向いた。
「あと、今日は金曜日係もいる」
「急に巻き込むな」
「証人です」
「何の」
「私が勝手に来ている証人」
美和子さんは僕を見た。
「証人さん」
「はい」
「ひなた、勝手に来てる?」
白石が無言で僕を見る。
圧があった。
僕は少し考えてから答える。
「たぶん、かなり勝手です」
「たぶん禁止」
白石が即座に言った。
美和子さんが笑う。
「いい証人ね」
白石は頬を少し赤くして、カーテンの方へ戻った。
「試作一号、もう少し改良します」
「今日は一号だけじゃなかったのか」
「一号改です」
「開発速度が早い」
「夕焼け部門なので」
白石はセロファンの位置を直そうとした。
僕も手伝う。
指先が近い。
容器を挟んで、二人の手が何度か迷う。
白石の指が先に止まり、僕の指がその横を通る。
壁の色は少しだけ変わった。
しわは減らなかった。
むしろ、別の場所に増えた。
「技術は明日に期待だね」
美和子さんが言った。
「明日?」
「完成版、作るんでしょう」
白石は容器を見た。
それから、僕を見る。
「明日も、来られる?」
「来る」
「予定、あるんじゃないの」
「これが予定」
白石は目を伏せた。
すぐに何か言い返すと思ったのに、何も言わない。
その代わり、容器を両手で持ち直した。
美和子さんが、そんな白石を見ている。
「陽斗くん」
「はい」
「ひなたの普通に、混ざってくれてありがとう」
返事を探すより先に、白石が声を出した。
「お母さん」
「大事なことは先に言っておかないと」
「今じゃなくても」
「今がいいの」
美和子さんは、壁のしわしわ夕焼けへ視線を戻した。
「上手な夕焼けが見たかったんじゃないの」
白石の手が、容器の縁を押さえる。
「あなたが、誰かと一緒に作った夕焼けが見たかったの」
白石は何も言わなかった。
僕も、何も言えなかった。
だから、テープの切れ端をまとめた。
セロファンの端を押さえた。
空き容器を紙袋に戻した。
できることは、それくらいだった。
帰る時間になると、病室の光は少しだけ色を変えていた。
本物の夕焼けには、まだ足りない。
でも、壁には試作一号の淡い影が残っている。
白石はそれを片付ける前に、スマホで一枚だけ写真を撮った。
「記録?」
僕が聞くと、白石は画面を確認した。
「証拠」
「何の」
「今日、ちゃんと作った証拠」
美和子さんがベッドの上で手を振った。
「またね、金曜日係さん」
白石がすぐに振り向く。
「だから、その呼び方」
「いいじゃない。分かりやすい」
「分かりやすさにも限度があります」
「陽斗くんは嫌?」
急に振られて、僕は答える。
「嫌ではないです」
白石がこちらを見た。
「そこで否定しないんだ」
「事実だからな」
「強い」
「証人なので」
美和子さんは満足そうに笑った。
「また来てね」
今度はからかいではなかった。
僕は紙袋を持ち直す。
「はい」
廊下へ出ると、病室の中より少し寒かった。
白石は扉を閉める前に、もう一度だけ中を見た。
「また明日」
「また明日」
美和子さんの声が返ってくる。
扉が閉まる。
白石はしばらく動かなかった。
廊下の白い光が、彼女の横顔に落ちている。
「帰ろう」
僕が言うと、白石はうなずいた。
病院の外へ出ると、空はもう夕方だった。
入口の白いタイルが、昼間より少し暗く見える。
バス停には、僕たち以外にも何人かが並んでいた。
誰も大きな声では話さない。
白石は紙袋を僕に預けたまま、時刻表を見上げていた。
「疲れた?」
聞きかけて、やめた。
大丈夫って聞きすぎない。
それに似た質問も、たぶん同じだ。
白石は僕の方を見ずに言った。
「聞かなかった」
「何を」
「疲れた?って」
「顔に出てたか」
「高瀬くん、分かりやすい」
「そっちこそ」
「私は隠蔽工作に定評があります」
「ないだろ」
白石は小さく息を吐いた。
「でも、助かった」
「何が」
「聞かないでくれたこと」
バスが来た。
ドアが開く。
僕たちは後ろの席に並んで座った。
紙袋は僕の膝の上。
白石は窓側で、外を見ている。
走り出したバスが病院の敷地を出る時、車体が小さく揺れた。
紙袋を押さえようとして、僕の手が横へずれる。
同じタイミングで、白石の手も伸びた。
指先が触れた。
白石はすぐに手を引かなかった。
僕も引かなかった。
一秒にもならない時間。
次の揺れで、手は自然に離れた。
白石は窓の外を見たまま言う。
「割れてない?」
「割れてない」
「よかった」
その声は、容器の話だけをしているみたいだった。
僕も、そういうことにした。
紙袋の中で、しわしわの試作一号が静かに揺れている。
上手ではなかった。
たぶん、完成でもなかった。
それでも今日、病室の白い壁に、たしかに夕焼けは一度だけ生まれた。




