第六話
七月七日の金曜日、屋上へ続く扉は閉まっていた。
鍵穴の上に、小さな紙が貼られている。
《立入禁止》
赤い文字は、思っていたより強かった。
僕は扉の前で止まったまま、スマホの画面を消した。
天気予報は見た。
夕方の雲の量も見た。
屋上なら風が抜けるだろうと思って、プリンが傾かないように紙袋の底まで確認した。
放課後に屋上で夕焼けプリン。
白石の『普通の高校生っぽいリスト』を実行予定のはずだった。
「予定、外れたね」
後ろから白石が言った。
僕は鍵のかかった扉を見たまま答える。
「悪い」
「謝るところ?」
「一応」
白石は階段を一段上がり、僕の横に並んだ。
今日は制服の上に薄いカーディガンを羽織っている。
七月なのに、校舎の階段は日陰だけ少し冷えていた。
白石は立入禁止の紙を見て、うなずく。
「では、踊り場採用」
「採用基準がゆるい」
「予定どおりじゃない方が、あとで覚えてることもあります」
白石はそう言って、階段の途中にある踊り場へ戻った。
屋上へは行けない。
けれど、屋上へ行く途中の場所ならある。
踊り場には大きな窓があった。
校庭の端が見える。
空はまだ明るく、雲のふちだけが薄く焼け始めていた。
窓の下には、掃除用具入れと、使われていない古い掲示板。
貼られているのは去年の防災訓練のポスターだった。
白石はその前に腰を下ろした。
「まあまあ青春」
「屋上に比べるとだいぶ妥協してるけどな」
「青春は妥協にも宿ります」
「名言っぽく言うな」
僕も一段下に座った。
紙袋を膝の上に置く。
中には《ミモザ》の夕焼けプリンが二つ。
金曜日限定。
プリン泥棒事件から六回目の金曜日。
「ちゃんと二つある」
白石が袋の中を覗いた。
「あるよ」
「金曜日係、優秀」
「買うだけなら誰でもできる」
「でも、高瀬くんが買うから業務になります」
「制度が雑だな」
「雑でも回れば制度です」
白石はそう言って、スプーンの袋を一つ取った。
今日は自分で開けた。
先週より、指の動きは落ち着いている。
僕はプリンを一つ渡す。
白石は容器を両手で受け取った。
その手つきだけが、やっぱり少し丁寧になる。
ふたを開けると、薄いオレンジ色のジュレが窓の光を受けた。
教室でも、駅前でも、家の冷蔵庫でも見た色。
でも、階段の踊り場で見ると、少しだけ違って見える。
白石は一口目を食べる前に、ほんの短く目を伏せた。
僕はもう、その沈黙を急かさなかった。
スプーンがジュレを割る。
白石が食べる。
飲み込むまで、階段の下から聞こえる声だけが残った。
「おいしい?」
今度は僕から聞いた。
白石はスプーンを持ったまま、こっちを見る。
「質問が普通」
「普通で悪かったな」
「悪くないです。普通、貴重なので」
その返しだけ、軽口の形をしているのに、軽くなかった。
僕は自分のプリンを食べた。
冷たさが舌に広がる。
金曜日の味だった。
一人で食べていた頃より、少しだけ忙しい味でもあった。
白石が横にいると、突っ込む準備をしておかなければならない。
白石はプリンの容器を膝の上に置いていた。
「金曜日、あといくつだと思う?」
僕はすぐに答えなかった。
七月七日。
七月十四日。
七月二十一日。
終業式の日。
その先にも金曜日はある。
でも、この町で、この学校で、放課後に《ミモザ》へ行ける金曜日は、多くない。
「この町では、あと三つ」
「数えてたんだ」
「……一応な」
白石はプリンの表面をスプーンでならした。
「私も数えてる」
「そうか」
「数えない方がいい気もしたんだけど」
窓の外で、野球部の掛け声が遠くに響いた。
白石はそちらを見ない。
「数えたら、ちゃんと大事にできる気がする」
その言葉は、階段の壁にぶつかって、小さく戻ってきた。
僕はスプーンを容器に置いた。
「……そうだな」
白石がこちらを見る。
僕は膝の上の紙袋を見た。
淡い黄色の袋。
《ミモザ》のロゴ。
何度も見ているのに、今は少し違うものに見えた。
「白石。あの日、僕が怒ったのさ」
「うん」
「プリンを食べられたからだけじゃなかったんだと思う」
白石は何も言わなかった。
スプーンも動かさない。
「部活を辞めてから、放課後が長かった」
自分の声が、踊り場に置かれていく。
大きくはない。
でも、戻せないくらいには、はっきりしていた。
「前は、放課後になったらグラウンドへ行けばよかった。着替えて、走って、ボール蹴って、帰る。それで一日が終わった」
白石は、茶化さなかった。
「でも辞めたら、何もなくなった。教室に残る理由もない。すぐ帰る理由もない。どこかへ行きたいわけでもない」
窓の外で、誰かが笑った。
階段の下から、女子の声が上がって、すぐ遠ざかった。
「金曜日だけ、《ミモザ》に行く理由があった。並んで、買って、帰りに食べる。誰に説明するほどでもないけど、そこだけ予定になってた」
白石の指が、容器の縁を軽く押さえる。
「だから、取られた気がしたんだと思う」
僕は、白石ではなく、閉まった屋上の扉を見た。
「プリンじゃなくて、金曜日ごと」
しばらく、音がなくなった。
白石は容器を持ち直した。
それから、いつもより小さい声で言う。
「ごめん」
その謝罪は、プリン一個分より重かった。
「今さら弁償されても困るけどな」
「利息、つける?」
「何が出るんだよ」
「踊り場利用権」
「すでに使ってる」
「じゃあ、白石の反省ポイント」
「使い道が分からない」
「十ポイント貯まると、謝罪が少し上達します」
「まだ上達前なのか」
白石は口元だけで笑った。
でも、目は笑っていなかった。
それでよかった。
今は、全部を軽くしなくていい。
「私も」
白石が言った。
「プリンだけじゃなかった」
僕は顔を向ける。
白石は鞄を開けて、小さなクリアファイルを取り出した。
中には、薄いオレンジ色のセロファンが数枚入っている。
端が少し丸まり、光を受けると頼りない色になる。
「それ」
「夕焼けの材料、試作前」
「本当に材料だったのか」
「白石法は、たまに本当のことも言います」
白石はセロファンを一枚だけ取り出した。
窓にかざす。
踊り場の白い壁に、薄い色が落ちた。
本物の夕焼けには遠い。
でも、ただの壁ではなくなった。
「お母さんの病室、窓の向きがあんまりよくないの」
白石は壁に落ちた色を見たまま続ける。
「夕方になっても、空が少ししか見えない。見える日もあるけど、ベッドからだと角度が悪い。だから、夕焼けが見えるって言っても、ちゃんとは見えない」
僕は何も言わなかった。
「昔、お母さんが《ミモザ》のプリンを見て、ひなたに見せたい夕焼けみたいって言ったんだって。私、覚えてるような、覚えてないような感じなんだけど」
白石はセロファンを少し下げる。
「でも、容器は覚えてる。食べ終わったあと、窓の光にかざしたら、底に色が残ってる気がした」
あの日、始まりの放課後。
僕のプリンを食べたあと、白石が容器を洗っていた手つきが、ここへつながった。
「だから、集めてたのか」
「うん」
「病室に夕焼けを作るために」
白石はうなずいた。
「本物じゃないよ。セロファンだし、テープだし、容器だし。たぶん、近くで見たら工作」
「でも、遠くから見たら?」
「……お母さんが、病室でも見られる夕焼け」
白石はそう言って、セロファンを膝の上に戻した。
僕は、自分の空になりかけた容器を見た。
僕は中身を見ていた。
白石は、食べ終わったあとの形を見ていた。
同じ夕焼けプリンなのに、必要としていた場所が違う。
僕は金曜日を埋めるために買っていた。
白石は、病室に夕方を持ち込むために集めていた。
白石は、いつもの調子に戻ろうとして、少し失敗した声を出した。
「有罪の理由、増えた?」
「増えたな」
「減刑は?」
「容器の使い道による」
「厳しい」
「金曜日係だから」
「職権乱用」
「そのための係だろ」
白石はそこで、やっと息を抜いた。
セロファンをファイルに戻し、鞄へしまう。
その動作は、プリンの容器を洗う時と同じくらい丁寧だった。
僕は食べ終えた容器を持ち上げた。
「じゃあ、集めよう」
白石の手が止まる。
「何を?」
「夕焼けの材料」
その言葉を口にした瞬間、最初に聞いた時よりも、ずっとはっきり意味があった。
白石はまばたきをした。
一度。
それから、もう一度。
視線を容器へ落として、口元を引き結ぶ。
「金曜日係」
「うん」
「業務拡大だね」
「労基は?」
「白石法では合法です」
「便利すぎる」
「でも、今回は福利厚生があります」
「何」
白石は僕の手元の容器を指さした。
「夕焼け」
僕は返事をしなかった。
白石も、それ以上は言わなかった。
踊り場の窓から、夕方の色が入ってきていた。
セロファン越しではない、本物の空の色。
けれど、白石が鞄にしまった薄いオレンジの方も、もう偽物には見えなかった。
僕たちは容器を洗うために、階段を下りた。
教室の流しは、放課後の終わりかけで誰もいなかった。
水を出す。
透明な容器の底を、指でなぞる。
白石は隣で、自分の容器を洗っている。
「割らないでね」
「分かってる」
「空き容器、重要物資なので」
「重要物資って言うと急に戦時中みたいだな」
「夕焼け戦線です」
「弱そう」
「でも士気は高いです」
白石は水を止めた。
ハンカチで容器を拭く。
僕も同じように拭いた。
二つの容器を並べると、ただの空き容器に見えた。
けれど、もうただの空き容器ではなかった。
「明日」
白石が言った。
「うん」
「病院、来る?」
僕はハンカチを持つ手を止めた。
「僕が?」
「高瀬くん以外に誰がいるの」
「地球とか」
「それ、私のやつ」
「著作権あるのか」
「あります。白石法で」
白石は容器を紙袋へ入れた。
淡い黄色の紙袋が、いつもより慎重に扱われている。
「試作一号を作ります」
「僕、役に立つか分からないぞ」
「しわしわ担当」
「もう失敗前提かよ」
「高瀬くん、不器用枠なので」
「高評価じゃなかったのか」
「不器用枠は高評価です」
白石は紙袋の口を折った。
折り目を指で押さえる。
「お母さんに、紹介するほどの関係名がまだないので」
「金曜日係でいいだろ」
「そうする」
あっさり言われて、逆に困った。
白石は鞄を肩にかける。
夕方の教室に、机の影が長く伸びていた。
七月の金曜日は、まだ明るい。
でも、終わる準備だけは、少しずつ始めている。
「じゃあ、明日」
「駅?」
「病院の最寄りまで。そこからは、逃げたい場合のみ申告制」
「逃げない」
白石は、ほんの短く僕を見た。
「即答、強いね」
「逃げる予定は入れてない」
「書類選考、通過済みです」
「まだそこなのか」
「面接は明日」
「お母さん相手に?」
「はい」
白石は教室の扉へ向かった。
出る直前、振り返る。
「今日の踊り場」
「うん」
「まあまあ青春でした」
「まあまあか」
「上出来に近いまあまあ」
それは、前にも聞いた評価だった。
でも、今日は少し違う場所に届いた。
白石が廊下へ出ていく。
鞄の中で、空き容器が小さく鳴った。
家に帰って、僕はメモ帳を開いた。
白石から送られてきたリストの一番上。
放課後の屋上。
線を引いて、その横に書く。
踊り場。
そして、その下に書き足す。
病院。試作一号。
予定は外れた。
でも、消す気にはならなかった。
机の端には、昨日までただ置いていた空き容器の場所がある。
今日はそこが空いている。
明日、持っていくからだ。




