第五話
水曜日の放課後、白石は校門の外で待っていた。
病院へ行く日だと聞いていたから、教室で一緒に出るのかと思っていた。
でも彼女は先に靴を履き替え、鞄を肩にかけ、校門の影のところに立っていた。
七月の空気は、もう夏のふりでは済まなくなっていた。
アスファルトは昼間の熱をまだ抱えていて、校門の外へ一歩出るだけで、靴の裏からぬるい温度が返ってくる。
どこかの家の庭で、早すぎる蝉が一匹だけ鳴いていた。
白石はその声を聞いて顔を上げた。
「夏、先に始まってるね」
「学校はまだ終わってないけどな」
「空気がフライングしています」
そう言って、白石は駅の方へ歩き出した。
いつもより、少し遅い。
体調が悪いのかと聞きそうになって、やめた。
金曜日係の仕事内容。
大丈夫って聞きすぎない。
白石が決めた項目だった。
僕は半歩だけ後ろにずらして、速度を合わせる。
隣に並びすぎると、急かしているように見えそうだった。
校門を出た生徒たちは、それぞれの方向へ散っていく。
部活へ向かう声。
自転車置き場のベル。
誰かが笑いながらコンビニのアイスの話をしている。
放課後は、こんなに音が多かったのかと思う。
部活を辞めてから、その音の中に自分がいないことだけを、なるべく考えないようにしていた。
白石は歩道の端をゆっくり歩いた。
その横で、僕はスマホの画面を一度だけ確認する。
十七時十二分。
昨日の夜、調べておいた時間と同じだった。
「電車、間に合う」
「調べてたんだ」
「駅まで来るって言ったからな」
「係っぽい」
白石は口元をゆるめた。
信号の手前で止まる。
青になるまでの間、駅前の通りからバスのエンジン音が流れてきた。
コンビニの自動ドアが開いて、冷房の匂いが歩道までこぼれる。
誰かの制汗剤。
買ったばかりのアイスの甘い匂い。
排気ガス。
そういうものが混ざって、七月の帰り道になっていた。
白石は信号機を見たまま言った。
「普通の高校生っぽいことって、何だと思う?」
急だった。
けれど、それが白石だ。
「宿題に追われる」
「悲しい現実から入った」
「小テストの範囲を忘れる」
「それも現実」
「購買のパン争奪戦」
「やや近い」
「白石基準、厳しいな」
信号が青になる。
白石は一歩踏み出した。
横断歩道の白線の上を慎重に歩いている。
「もっとさ」
白石は言った。
「屋上で放課後を過ごすとか」
「まあ、あるか」
「アイス半分こ」
「あるのか、それ」
「ある。資料では」
「どこの資料だよ」
「たぶん世間」
「たぶん禁止じゃないのか」
「今回は資料不足なので許可」
白石は指を折らなかった。
でも、言葉を一つずつ置いていく。
「海に行く」
「この町の海、駅から少しあるぞ」
「だから、普通っぽい」
「距離で判定するな」
「花火」
「夏っぽいな」
「ファミレスで宿題」
「宿題は逃げられないのか」
「逃げると増えるので」
白石は駅前のアーケードへ入った。
透明な屋根の向こうに、白い空が見える。
湿気を含んだ風が、店先の旗を弱く揺らしていた。
「相合傘」
「梅雨だしな」
「写真を撮る」
「何の」
「何でも」
「何でもって」
「制服とか、教室とか、帰り道とか」
そこで、白石の声が少しだけ平らになった。
「終業式の日に、ちゃんと笑う」
僕は返事をしなかった。
アーケードの先に、駅の改札が見えている。
電光掲示板の光が、人の顔を青白く照らしていた。
「あと」
白石は足を止めない。
「金曜日を大事にする」
その言葉だけ、駅前の音に混ざらなかった。
僕は、白石の横顔を見た。
カーディガンの袖から出た手が、鞄の紐を握り直す。
普通の高校生っぽいこと。
白石はそれを、遊びの予定として言っているのではなかった。
残り少ない時間を、雑に通り過ぎないための名前として並べている。
数えるのが怖いから。
数えない代わりに、やることを増やしている。
駅の入口で、白石はようやく僕を見た。
「多い?」
「多いな」
「ですよね」
「でも」
僕は一度、改札の奥を見た。
電車を待つ人の列。
ホームへ下りる階段。
白石がこれから向かう場所。
それから、彼女が今言ったものを頭の中で並べ直した。
それはどれも、僕が部活を辞めてから避けていた放課後の中にあるものだった。
何も予定を入れない方が楽だった。
何も期待しない方が、失敗もしない。
でも、その空いた場所に、白石のリストが勝手に入ってきた。
勝手に入ってきたのに、嫌ではない。
「全部やろう」
白石の足が止まった。
改札の手前。
人の流れが左右に分かれていく場所で、彼女だけが一瞬そこに残る。
「全部?」
「全部」
「花火も?」
「場所を探す」
「海も?」
「電車で行ける」
「ファミレスで宿題も?」
「宿題はついでに処理する」
「相合傘は?」
「天気次第」
「天気に委ねた」
「雨が降らなかったら、普通に傘は邪魔だろ」
白石は何か言いたそうに口を開いた。
けれど、言葉にする前に視線を落とす。
改札の光が、彼女の靴先を照らしていた。
「高瀬くん、そういうの」
「うん」
「ずるいって言うと、また三回目になる」
「じゃあ別の言い方にしろ」
「……採用」
「何を」
「金曜日係、放課後拡張版」
「業務が増えすぎだろ」
「人手不足なので」
「白石産業、そろそろ危ないな」
「かなり」
白石はそこで、やっといつもの顔に戻った。
ただ、目元はまだ少し追いついていなかった。
改札の向こうで、電車の到着を知らせる音が鳴る。
白石は定期券を取り出した。
「時間」
「乗れそうか」
「うん」
改札に入る直前、白石は振り返った。
「リスト、送る」
「助かる」
「忘れたくないから」
その言葉だけ、改札の電子音より長く残った。
僕は、定期券を握る白石の手元を見た。
それがただの遊びのリストなら、白石はあんな声で言わなかった。
送られてきたら、たぶん僕の予定にもなる。
「送ってくれたら、ちゃんと見るよ」
「金曜日係っぽい」
「放課後拡張版だからな」
白石は微笑み、定期券を改札に触れさせた。
短い電子音。
ゲートが開く。
「全部は、無理でも」
そこまで言って、彼女は首を振った。
「やっぱりなし」
「白石法?」
「今回は未提出」
「じゃあ、受理しない」
白石は目を丸くした。
「受理しない?」
「全部やるって言ったから」
白石は、改札の内側で少しだけ立ち止まった。
後ろから来た人を避けるために、一歩横へずれる。
「……金曜日係、強めだね」
「仮採用中だからな」
「試用期間って、そんなに働くもの?」
「知らない」
「でも」
白石はホームへ下りる階段の方へ向かいながら、こちらを見た。
「今のところ、書類選考は通過です」
「まだ書類だったのか」
「人生は審査が多いので」
「重いことを軽く言うな」
「軽く言うために、重い言葉を選んでいます」
白石はそう言って、手を軽く上げた。
ホームの方から風が上がり、彼女の髪を少しだけ揺らす。
それから、白石は階段へ消えた。
僕は改札の外に立ったまま、しばらく動けなかった。
改札の電子音が、何度も鳴る。
人が通る。
駅員が何かを案内する。
白石がいなくなっただけで、駅前の音が急に普通に戻った。
帰り道、僕はスマホを開かなかった。
開いたら、何かが届いている気がした。
届いていたら、すぐ見たい。
でも、駅前の道を歩きながら見るには、少しもったいなかった。
アーケードを抜ける。
コンビニの前を通る。
自動ドアが開くたびに、冷たい空気が一瞬だけ腕に触れた。
交差点を渡ったところで、スマホが震えた。
白石からだった。
『普通の高校生っぽいことリスト』
その下に、箇条書きが続いていた。
放課後の屋上。
アイス半分こ。
海。
花火。
ファミレスで宿題。
相合傘。
写真を撮る。
終業式の日にちゃんと笑う。
金曜日を大事にする。
僕は立ち止まった。
最後の一行だけ、画面の中でやけに静かだった。
『やっぱり多いな』
送ると、少しして返事が来る。
『でも、減らさないで』
その一文で、僕は画面から目を離せなくなった。
冗談に見えるリストの中に、白石が本当に残したいものが混ざっている。
僕はスマホを伏せた。
そのまま帰るつもりだった。
でも、足は駅前の本屋へ向かっていた。
文具コーナーで、小さなメモ帳を買った。
スマホに入れておけば済む。
分かっている。
けれど、予定を画面の中だけに置いておくのが、少し頼りなかった。
家に帰ると、窓の外はまだ明るかった。
夏の夕方は、なかなか終わらない。
制服のシャツには、駅まで歩いた分の熱が残っている。
机の上にメモ帳を開くと、部屋の音が急に小さくなった。
遠くで、さっきの蝉とは別の声が鳴いている。
扇風機の風で、カーテンが少しだけ膨らんだ。
棚の端に置いた空き容器は、蛍光灯の下で白く乾いている。
夕焼けではない。
でも、何かを残しておく場所には見えた。
僕は、白石から送られてきたリストを一つずつ書き写した。
急いで書くと、どれかを雑に扱ってしまいそうだった。
だから、字はいつもより少しだけ丁寧になった。
書き終えてから、スマホで天気予報を見る。
今週は曇りが多い。
雨のマークもある。
折り畳み傘を鞄の中に入れる。
次に、海までの電車時間を調べた。
思ったより近い。
でも、放課後に行くなら帰りの時間を見ないといけない。
花火ができる場所も検索する。
公園は禁止。
河川敷は、場所によっては大丈夫そうだった。
ファミレスのクーポンを保存する。
スマホの写真フォルダを開いて、いらないスクリーンショットを消す。
空き容量を増やしている自分に気づいて、少し止まった。
写真を撮るための準備。
誰かと写るための準備。
部活を辞めてから、そういう予定を自分で作ったことがなかった。
練習日程なら、昔は勝手に決まっていた。
試合も、遠征も、集合時間も。
自分で選ぶ必要はなかった。
行けばよかった。
走ればよかった。
終われば、疲れて帰ればよかった。
でも今、机の上にあるメモ帳は、誰かに配られた予定表ではない。
僕が書いた。
白石が言ったことを、僕が自分の予定にした。
スマホでフェリーの時間も調べた。
検索欄に島の名前を入れた時、自分でも少し早いと思った。
まだ行く日が決まったわけではない。
そもそも、白石はまだ引っ越していない。
でも、調べなかったら、あの時の「行く」がただの勢いになる気がした。
フェリーは一日に何本かあった。
二時間。
白石が言った通りだった。
僕はその画面を閉じずに、しばらく見ていた。
白石から、もう一通届いた。
『金曜日係』
『何』
『最後の項目、消さないでね』
僕はメモ帳を見た。
金曜日を大事にする。
消すつもりはなかった。
でも、それをそのまま返すのは少し違う気がした。
『消せないだろ』
送る。
既読がつくまで、少し時間がかかった。
『なら合格』
そのあと、続けてもう一通。
『今日はありがとう』
僕は画面を見た。
返事を打とうとして、やめる。
白石のありがとうは、まだ慣れない。
軽く返せばいいのか、ちゃんと受け取ればいいのか分からない。
結局、メモ帳をもう一度開いた。
最後の行の下に、小さく書き足す。
全部やる。
その文字は、予定というより、約束に近かった。




