第四話
その日の夜、スマホの画面に白石ひなたの名前があった。
ただの連絡先。
それなのに、昨日まで空白だった場所に、小さな印がついたみたいだった。
僕は、自分の表示名の後ろにプリンの絵をつけるかどうかで三分迷った。
つけたら負けな気がする。
つけなかったら、次に白石に見つかった時、たぶん何か言われる。
結局、つけた。
画面の中の僕の名前の後ろに、小さなプリンの絵が並ぶ。
自分でやったことなのに、妙に間抜けだった。
ちょうどその時、スマホが震えた。
『今日のこと、夢じゃないよね?』
一通目から、白石らしくなかった。
机の上には、昼間の前で預かった空き容器が二つ並んでいる。
洗ってある。
乾いている。
割れてもいない。
夢ではない証拠としては、少し変だった。
『夢ならプリン代が返ってこないから困る』
送ると、すぐ既読がついた。
『そこ?』
『そこも大事』
少し間が空いた。
『名前の後ろ、プリンになってる』
った。
僕はスマホを落としかけた。
『事故』
『意図的な事故です』
『見なかったことにしてくれ』
『無理です。名札なので』
『何の名札だよ』
『まだ秘密』
『秘密なら名札にするな』
『見つけた人だけ分かる制度です』
そこで会話は一度止まった。
見つけた人だけ。
その言い方が、なぜか画面の中で少し長く残った。
続けて、もう一通届く。
『じゃあ、大事にしてね』
『何を?』
『金曜日を』
僕はその文字を見た。
金曜日。
プリンを勝手に食べられた日。
二つ買った日。
白石が来なかった日。
ひとつの曜日に、いろんなものが乗っている。
『分かった』
『軽い』
『重く言うと困るだろ』
『学習してる』
『えらい』
『褒めるな』
『係候補なので』
係候補。
その言葉が、妙に画面の中で落ち着いていた。
僕はスマホを伏せて、容器を棚の端へ移した。
落ちない場所。
割れにくい場所。
自分の部屋で、プリンの空き容器の置き場を真剣に考えている。
かなりおかしい。
でも、昨日よりは悪くなかった。
月曜日、白石はホームルームの二分前に教室へ入ってきた。
遅刻ではない。
ただ、教室の空気をぎりぎりで追い越すみたいな入り方だった。
宮野がすぐに顔を上げる。
「おはよう、白石さん」
「おはようございます。今日は通常登校風です」
「風なんだ」
「本体は調整中」
白石はそう返して、自分の席へ来た。
鞄が机の横に掛かる。
椅子が引かれる。
それだけで、金曜日に空いていた場所が戻ってきた気がした。
僕は机の中から、まとめておいたプリントを出した。
「先週の分」
「多い」
「休んだからな」
「紙に責められている」
「責めてるのは主に数学だと思う」
「やっぱり」
白石はプリントの束を受け取った。
提出期限の近いものを上に、授業で使いそうなものを下に分けていく。
指の動きは丁寧だった。
ただ、いつもより遅い。
僕は鞄から小さな袋を出した。
白い包み紙のミルク飴。
昨日、コンビニで買ったものだ。
理由は特にない。
ないことにしておきたい。
「これ」
僕は袋を白石の机へ置いた。
白石はプリントから顔を上げる。
「賄賂?」
「飴」
「なぜ支給が?」
「なんとなく」
「なんとなくで飴が支給される世界」
「いらないなら返せ」
白石はすぐに袋を手元へ引き寄せた。
「返却不能状態に入りました」
「まだ開けてないだろ」
「気持ち的に」
白石は袋を開け、包み紙を一つ取り出した。
すぐには口に入れなかった。
机の上で転がして、白い紙の端を指で押さえる。
「高瀬くん」
僕は顔を上げた。
「これ、金曜日係っぽいね」
「何だよ、それ」
「金曜日を忘れない係」
白石は飴を口に入れた。
言葉が一拍だけ遅れる。
「仕事内容、聞きたい?」
「どうせ勝手に決まってるんだろ」
「まず、金曜日を忘れない」
「カレンダーに任せたい」
「夕焼けプリンを確保する」
「専門性が高い」
「白石が変なことを言ったら、一応突っ込む」
「もう働いてる」
「大丈夫って聞きすぎない」
そこで、教室のざわめきが少しだけ遠くなった。
白石はすぐに続ける。
「空き容器を割らない」
「それは昨日からだな」
「重要業務です」
「責任が重い」
「プリン二個分」
「換算が軽い」
「軽く言ってるだけ」
白石は飴を頬の内側へ移した。
「じゃあ、仮採用」
「何に」
「金曜日係」
「履歴書出してないけど」
「面接は済んでます」
「いつ」
「六月二日から」
「プリンを盗まれた日だな」
「出会いの面接」
「最悪の一次試験だ」
「でも通過」
白石は包み紙を小さく折りたたんだ。
捨てるのかと思ったら、筆箱の端へしまう。
「それ、取っておくのか」
「今日の支給記録」
「監査でも入るのか」
「未来の私から」
そう言ってから、白石は一瞬だけ口を閉じた。
未来、という言葉だけが机の上に残る。
白石はすぐに筆箱を閉じた。
「軽い方の未来です」
「なら、飴一個分くらいか」
「だいたい」
白石はそこで、ようやく息を抜いた。
昼休み、白石は弁当を広げた。
小さめの弁当箱。
卵焼き。
ミニトマト。
ウインナー。
白いご飯。
普通の中身だった。
ただ、白石は箸を持ったまま、卵焼きをしばらく見ている。
「食べないのか」
「検討中です」
「卵焼きを?」
「食べる順番は人生の縮図なので」
「また人生が出た」
「今日は小型です」
白石は卵焼きをひとつ持ち上げ、なぜか僕の弁当箱へ入れた。
「移籍」
「戻れ」
「受け入れ拒否」
「本人の許可は?」
「卵焼き本人?」
「僕だよ」
白石は目を逸らした。
その一瞬で、ただのボケではないと分かった。
僕は卵焼きを箸で半分に切り、片方だけ白石の弁当箱へ戻した。
「全部じゃなくていいから」
白石は戻された半分を見た。
それから、何も言わずに口へ運ぶ。
僕も残りを食べた。
味は少し薄い。
けれど、悪くなかった。
白石は小さくうなずいて、今度は自分の弁当からウインナーを取った。
迷う時間は、さっきより短かった。
「食べた」
「見れば分かる」
「報告です」
「係に?」
「一応」
僕はそれ以上、何も言わなかった。
宮野が通りかかって、机の上を見る。
「白石さん、食べられてるならよかった」
それだけ言って、宮野は自分の席へ戻っていった。
距離の取り方が、うまいと思った。
白石も同じことを思ったのか、宮野の背中を見送っていた。
「……宮野さん、優秀」
僕は聞き返さなかった。
聞けば、たぶん冗談に変わる。
放課後、白石は提出プリントを鞄にしまいながら、机の上のミルク飴を一つだけ指で押した。
「今日の月曜日」
「うん」
「まあまあ戻ってきました」
「上出来に近い?」
「月曜日にしては」
「月曜、評価低いな」
「金曜日じゃないので」
「それは仕方ない」
白石は鞄を肩にかけた。
教室を出る前に、プリントの束をもう一度確かめる。
戻ってきた月曜日を、鞄の中へ順番にしまっているみたいだった。
昇降口へ向かう途中、校庭からボールの音が聞こえた。
僕の足が一度だけ止まる。
グラウンドでは、サッカー部が練習を始めていた。
白石は気づいた。
気づいたけれど、何も言わなかった。
ただ、靴箱の前で自分のローファーを取り出す。
だから僕も、何も言わずに靴を履き替えた。
校門の手前で、白石が立ち止まった。
「金曜日係」
彼女は僕の名前ではなく、役職で呼んだ。
「何でしょう、雇用主」
「返信が遅かったら」
「うん」
「係っぽく怒って」
「係っぽく怒るって何だよ」
白石は鞄の紐を握り直した。
「スマホ、何回か見た、くらい」
「それは怒ってるのか」
「心配未満」
「未満」
「心配って言われると、少し重い」
「じゃあ、スマホを何回か見た」
「それくらい」
白石は満足そうにうなずいた。
「特別職だね」
「待遇は?」
「飴」
「支給するの僕なんだけど」
「じゃあ相互支給」
「制度が雑」
「でも便利」
白石はそこで、ようやくいつもの顔で笑った。
その顔を見て、僕は鞄の中に残っているミルク飴の袋を思い出した。
明日も持ってくる気がした。
たぶん、もう理由はないことにできない。
家に帰ってから、スマホが震えた。
白石ひなた。
その名前を見ただけで、昼間の飴の包み紙を思い出した。
『今週、忙しいよ』
『何が』
『私が』
『病院?』
少し間が空いた。
『それも』
『他にも?』
『金曜日係も』
『業務内容は』
『水曜日に』
『水曜日?』
今度はすぐに返ってきた。
『駅まで一緒に来てくれる?』
僕は画面を見た。
頼むことに慣れていない文面だった。
短いのに、何度か書き直したような気がした。
『行く』
送ると、既読がついた。
返信は少しだけ遅れた。
『採用』
それだけだった。
僕はスマホを机に置いた。
送る場所ができた。
返ってくる言葉がある。
金曜日までの四日間は、先週より少し短くなった。




