第三話
七月一日の土曜日、僕は《ミモザ》の前に立っていた。
店の黒板には、チーズタルトとレモンケーキの名前が書かれている。
夕焼けプリンの文字はない。
分かっていた。
あれは金曜日限定で、昨日の分はもう僕の胃の中に消えている。
それでも、来てしまった。
手には、淡い黄色の紙袋。
中身は空き容器が二つ。
洗って、拭いて、捨てられなかったものだ。
何をするつもりなのか、自分でもはっきりしていなかった。
おばあさんに返すものではない。
白石に渡すものでもない。
ただ、空っぽの容器を部屋に置いたままにしておくと、昨日の金曜日がまだ終わっていないような気がした。
店の扉に手をかけようとした時、後ろから声がした。
「……それ、《ミモザ》の袋?」
振り返る。
白石ひなたがいた。
制服ではなかった。
薄い水色のカーディガンを羽織って、白いブラウスの襟元を片手で押さえている。
髪はいつもより低い位置で結ばれていた。
顔色は悪い。
けれど、こちらを見る目だけは、ちゃんと白石だった。
「白石」
名前を呼んだら、言いたいことが一気に出そうになった。
どこにいたのか。
何で休んだのか。
連絡先も知らないこっちの身にもなれ。
昨日のプリン、結局食べた。
容器は捨てられなかった。
どれから言えばいいのか分からなくて、僕は紙袋を持ち上げた。
「昨日の」
「中身は?」
「食べた」
「二つとも?」
「一つは教室で。もう一つは家で」
白石は紙袋の口を見た。
「……容器、捨てなかったんだ」
「ああ」
「そっか」
白石は笑おうとした。
でも、口元が途中で止まった。
「ごめん」
その言葉が出てくるとは思わなかった。
僕は返事に遅れた。
「プリンのこと?」
「それも」
「それも、って」
「来なかったこと」
白石は店の扉から少し離れた。
歩道の端に、小さな植木鉢が並んでいる。
その横に、店の外用のベンチがあった。
白石はそこを見て、座っていいか聞くように僕を見る。
僕は何も言わずに、先にベンチへ向かった。
白石はゆっくり座った。
いつもなら「高瀬くん、紳士ポイント一点」とか何とか言いそうなのに、今日は言わなかった。
紙袋を膝の上に置く。
容器が中で小さく鳴った。
「体調、悪いのか」
「私の?」
「他に誰がいる」
「地球とか」
「規模を広げるな」
白石はそこで、ようやく声を軽くした。
けれど、すぐに視線を落とす。
「お母さんの病院に行ってた」
宮野から聞いていた言葉だった。
でも、白石の口から出ると、重さが違った。
「病気?」
「うん」
白石はカーディガンの袖を指でつまんだ。
「しばらく前から。最近、ちょっと遠くの病院に移る話が進んでて」
「遠く?」
「島」
「島」
「フェリーに乗るやつ」
「観光みたいに言うな」
「観光だったらよかったんだけどね」
声は軽かった。
でも、ベンチの下で白石の靴先が一度だけ動いた。
「夏休み前に、そっちへ引っ越す」
店の前を自転車が通り過ぎた。
ベルの音が、短く鳴る。
僕はそれを聞いていた。
聞いているふりをしていたのかもしれない。
「いつ」
「まだ確定じゃない。でも、終業式のあとには」
「早いな」
「準備が雑な転校イベントです」
「イベントって言うな」
「じゃあ、強制アップデート」
「もっと嫌だ」
「でしょ」
白石は肩をすくめた。
その仕草はいつもの白石に近かった。
でも、目の下には薄い影がある。
先週、教室で見たものより濃く見えた。
「クラスには?」
「まだ」
「宮野は少し知ってた」
「宮野さん、勘がいいから」
「お前が分かりやすかったんじゃないのか」
「失礼な。私は隠蔽工作には定評があります」
「ないだろ」
「高瀬くんにだって、三週間くらい隠せた」
「隠せてたか?」
「だいたい」
「一口目だけ黙るのは?」
「あれは仕様です」
白石はそう言って、店の窓を見た。
ショーケースの中は、土曜日のケーキで埋まっている。
夕焼けプリンの場所だけ、今日は別の焼き菓子が並んでいた。
「お母さんが、あれ好きなんだ」
「あれ?」
「夕焼けプリン」
昨日、おばあさんから聞いた話と重なる。
でも、僕は黙っていた。
白石が自分で言うのを待った。
「昔、ここで食べたんだって。私がまだ小さい頃。上のジュレが夕焼けみたいだって言って」
白石はそこで、言葉を止めた。
「ごめん。今の、ちょっと説明くさい」
「自分で校閲するな」
「白石法では、過剰説明は減点なので」
「便利すぎるだろ」
「でも大事」
白石は紙袋に視線を移した。
「高瀬くんのプリンを食べたの、お腹が空いてたのもある」
「それはあるんだ」
「あります。育ち盛りなので」
「プリン泥棒としては最悪の供述だな」
「でも、それだけじゃなかった」
その言い方は、ふざけていなかった。
僕は紙袋の口を少し開いた。
中の容器が見える。
昨日の夜、台所で洗ったもの。
白石の分だったもの。
「教室であの容器を見た時、持って帰らなきゃって思った」
「容器を?」
「うん」
「普通、食べる前に交渉するだろ」
「高瀬くん、あの時怒りそうだったし」
「食べたから怒ったんだよ」
「順番って難しいね」
「難しくない」
白石は小さく息を吐いた。
「あの日、病院に行く日だったんだ」
六月二日。
プリン泥棒事件の日。
僕は、放課後の教室を思い出す。
僕の机の上にあったはずの箱。
白石の手元にあった透明な容器。
一口目だけ静かになった横顔。
「お母さんがね、最近あまり外に出られなくて。窓から見える空も、病室の角度だとあんまり広くない。だから、あれを見たら、持って帰りたくなった」
「夕焼けプリンを?」
「容器も」
白石は言い直した。
「中身も、容器も」
「だから食べた?」
「うん」
「だいぶ強引だな」
「白石法でも有罪」
「自覚はあるのか」
「やや」
「そこは全面的にしろ」
「全面的にしたら、たぶん泣く」
白石は、さらっと言った。
僕は返す言葉をなくした。
白石はすぐに顔を上げる。
「だから、やや」
その声は、無理やり明るい場所へ戻っていた。
僕は紙袋を閉じた。
容器の音がしなくなる。
「言えばよかっただろ」
「何を?」
「お母さんに持って行きたいって」
「言ったら、高瀬くんはくれた?」
「たぶん」
「たぶん禁止」
「……あげた」
「じゃあ、なおさら言えない」
「なんで」
白石はベンチの端を指でなぞった。
塗装が少し剥げている。
「かわいそうな人、って顔をされるのが嫌だから」
風が通った。
店先の黒板が、かすかに揺れる。
「お母さんが病気で、もうすぐ引っ越す子」
白石は淡々と言った。
「そういうラベルを貼られると、私が何を言っても、その上から見られる気がする」
「……」
「変なこと言ってる白石、くらいがちょうどいい。プリン泥棒でもいい。そっちの方が、まだ動ける」
僕は隣に座る白石を見た。
今まで聞いてきた変な言葉が、少しずつ形を変える。
プリン債務。
白石産業。
夕焼け候補。
人生を少々。
どれもただの冗談だと思っていた。
でも、冗談にしておかないと、教室にいられなかったのかもしれない。
「普通ってさ」
白石が言った。
「思ってたより高いんだね」
「高い?」
「金曜限定プリン、二十個。フェリー二時間。病院までの電車。終業式までの残り日数」
白石は指を折らなかった。
数えたら、もっと本当になるからかもしれない。
「普通に学校行って、普通に帰って、普通に隣の席の人とくだらない話するのって、けっこう高級品だった」
「僕との会話、高級品か?」
「一部、不良品も混ざります」
「返品不可でお願いします」
「そこは強気なんだ」
白石は笑った。
今度は、目元も少し追いついていた。
僕は紙袋を持ち直した。
「引っ越してからも」
言ってから、自分でも少し驚いた。
白石がこちらを見る。
「行く」
「どこに」
「島」
「フェリーで二時間だよ」
「行ける」
「電車もあるよ」
「調べる」
「お金もかかる」
「バイトはしてないけど、節約くらいはできる」
「部活は?」
「辞めた」
白石の目が少し動いた。
その話を、僕からちゃんとしたことはなかった。
「だから、金曜日の放課後は空いてる」
僕は自分の声が思ったよりまっすぐ出たことに気づいた。
「行ける」
白石は何も言わなかった。
まばたきを一度して、店の窓へ視線を逃がす。
ガラスに、白石の横顔が薄く映っていた。
唇が少しだけ動く。
でも、声にはならなかった。
「白石」
呼ぶと、白石は手の甲で目元に触れた。
拭ったというより、確認したみたいだった。
「そういうこと言うの、ずるい」
「ずるいか」
「ずるい」
「本気で言ってる」
「だから、ずるい」
白石は膝の上で手を重ねた。
指先に力が入っている。
「普通は、言わないよ」
「普通は知らない」
「フェリー二時間だよ」
「聞いた」
「島だよ」
「地図で見る」
「遠いよ」
「近いとは言ってない」
白石はまた黙った。
その沈黙のあとで、何かを言いかけた。
今度は、僕にも分かった。
けれど、白石は途中で首を振る。
「今のなし」
「まだ何も言ってないだろ」
「言ってないから、なしにできる」
「何その制度」
「白石法」
いつもの軽口だった。
でも、笑うまでに時間がかかった。
僕は、それ以上聞かなかった。
聞いたら、今ここにあるものが別の名前になってしまう気がした。
白石は鞄からスマホを出した。
「連絡先、交換しよ」
「急だな」
「来ない日に二つ買わせた場合、次からは事前連絡が必要なので」
「やっぱり買わせる前提なんだな」
「白石法、改正案です」
「可決されるのか」
「賛成多数」
「一人しかいないだろ」
「高瀬くんも賛成するでしょ」
僕はスマホを取り出した。
画面を開く。
昨日まで、白石の名前はどこにもなかった。
毎週一緒にプリンを食べていたのに、そこだけ空いていた。
白石がQRコードを出す。
僕が読み取る。
画面に、新しい名前が追加された。
白石ひなた。
ただそれだけの文字なのに、妙に現実味があった。
「プリン絵文字つける?」
白石が聞いた。
「自分で言うのか」
「識別しやすい」
「白石ひなたは一人しかいない」
「高瀬くんの中では?」
僕は答えなかった。
白石は、勝ったみたいな顔をしなかった。
ただ、スマホを大事そうに鞄へしまった。
「来週も、金曜日」
「うん」
「プリン、二つ」
「買う」
「あと」
白石は紙袋を指さした。
「それ、持ってて」
「容器?」
「うん」
「お前が集めてるんじゃないのか」
「今日は病院に戻るから。割ったら困る」
「僕が割る可能性は?」
「高瀬くんは不器用枠だけど、雑ではないので」
「褒めてるのか、それ」
「白石評価では高得点」
白石は立ち上がった。
カーディガンの袖が、風でめくれる。
手首が細く見えた。
僕は紙袋を持ったまま立ち上がる。
「送る」
「駅まで?」
「病院まで」
「それはまだ早い」
「早いとかあるのか」
「あります」
白石は一歩だけ先に歩いた。
それから、振り返らずに言う。
「でも、駅までなら採用」
「採用試験、多いな」
「人手不足なので」
「白石産業?」
「夕焼け部門」
僕は紙袋を持ち直した。
中で容器が二つ、軽く触れ合う。
店の扉が開いて、おばあさんが顔を出した。
「あら、ひなたちゃん」
「こんにちは」
「今日はプリンないわよ」
「知ってます」
「高瀬くんも?」
僕は会釈した。
おばあさんは、僕の紙袋を見る。
その中身まで分かっているような顔をした。
でも、何も言わなかった。
「いってらっしゃい」
白石は短く頭を下げた。
「行ってきます」
その言葉は、店に向けたものなのか、病院に向けたものなのか、僕には分からなかった。
駅までの道を、二人で歩いた。
土曜日の町は、平日の帰り道より人が多い。
親子連れがアイスを持って歩いている。
自転車のベルが鳴る。
白石は急がなかった。
僕も、歩く速度を合わせた。
「昨日」
白石は、信号の向こうを見たまま言った。
「待ってた?」
「待った」
「来ると思った?」
「分からなかった」
「それでも?」
「金曜日だったから」
白石は、まばたきを一度した。
「……それ、ずるいね」
「二回目だぞ、それ」
「高瀬くんが悪い」
「責任転嫁が早い」
「今後は再発防止に努めます」
「まず事前連絡」
「了解しました」
信号が青になる。
白石は一歩踏み出した。
僕も隣を歩く。
紙袋の中の空き容器が、小さく鳴った。
その日から、白石の夕焼けは、少しだけ僕の荷物にもなった。




