第二話
月曜日の朝、白石の席は空いていた。
それ自体は、最初から大きな出来事ではなかった。
白石ひなたは、いつもきっちり同じ時間に教室へ来るタイプではない。
朝のホームルーム直前に滑り込む日もあるし、一時間目のチャイムが鳴ってから「今ならまだ遅刻ではなく登場です」と言って入ってきた日もある。
だから、最初は誰も気にしていなかった。
担任が出席簿を見て、「白石、欠席」とだけ言った。
黒板の日付は、六月二十六日。
金曜日まで、あと四日あった。
僕は隣の席を見た。
机の横に鞄はない。
椅子は机の下に入ったまま。
先週、雨の中で彼女が言った言葉が、そこで急に戻ってきた。
もし金曜日に私が来なかったらさ。
プリン、二つ買う?
授業が始まると、白石の席はただの空席になった。
先生は普通に教科書を開き、クラスメイトは普通にノートを取り、廊下では誰かの笑い声がした。
白石がいなくても、学校は止まらない。
その当たり前さが、少し気に障った。
二時間目が終わっても、白石は来なかった。
昼休みになっても、来なかった。
僕は購買へ行く途中、スマホを取り出した。
画面を開いて、止まる。
白石の連絡先を知らなかった。
毎週金曜日に同じプリンを食べていた。
席を入れ替えられた。
容器を持っていかれた。
カスタード権だの夕焼け候補だの、意味の分からない制度に巻き込まれた。
それなのに僕は、彼女に「今日休み?」と送る方法を持っていない。
スマホの画面に、自分の顔が薄く映った。
間抜けだった。
火曜日も、白石は来なかった。
一時間目の前、僕はなんとなく隣の席を見た。
昨日と同じだった。
机の端に、誰かが置いたプリントが一枚乗っている。
風もないのに、その紙の角だけが少し浮いていた。
昼休み、宮野がそのプリントを持ってきた。
宮野は白石と同じ委員会で、よく一緒に黒板の前に立っている女子だ。
明るい。
けれど、明るいだけでは済ませない目をしている。
「高瀬くん、これ、白石さんの分。隣だから机に入れておいてくれる?」
「ああ」
僕はプリントを受け取った。
「白石、今日も休みなんだな」
「うん」
宮野は声を落とした。
「たぶん、病院」
「病院?」
聞き返してから、しまったと思った。
宮野は僕の顔を見て、少しだけ迷う。
「私も詳しくは知らないよ。本人が言わないこと、勝手に言うのは違うし」
「……そうだな」
「でも、最近ちょっと無理してたと思う」
宮野は白石の机に視線を落とした。
「白石さんってさ、大丈夫じゃない時ほど、変なこと言うよね」
その言い方には、悪口の色はなかった。
むしろ、分かっている人の声だった。
僕は返事に困った。
白石の変なことなら、いくらでも思い出せる。
プリン債務。
白石産業、夕焼け部門。
金曜日の質量。
スプーン開封係。
どれもくだらなかった。
でも、くだらない言葉の後ろで、彼女が何を隠していたのかは知らない。
「高瀬くん、最近よく一緒にいるよね」
宮野が言った。
「まあ、金曜だけな」
「金曜限定?」
「プリンみたいに言うな」
「実際、プリンでしょ」
「否定しにくい」
宮野は少し笑った。
それから、笑った顔のまま言う。
「白石さんのこと、聞けるなら聞いてあげて」
「僕が?」
「うん」
「なんで」
「たぶん、高瀬くんには変なこと言いやすそうだから」
「褒めてる?」
「白石さん基準では、かなり」
宮野はそう言って、自分の席へ戻っていった。
僕は白石の机にプリントを入れた。
机の中は空だった。
教科書も、ノートも、置き勉のプリントもない。
その空っぽさが、変にきれいで嫌だった。
水曜日。
雨は降らなかった。
なのに空はずっと白く、窓から入る光は弱かった。
白石の席には、三日分のプリントが溜まっていた。
僕はそれをまとめて、机の中へ入れる。
何をしているんだろうと思う。
ただ隣の席だから。
それだけの理由で、僕は白石のプリントを揃えている。
それだけの理由で、彼女の席が散らかっていないか気にしている。
放課後、サッカー部の連中がグラウンドへ走っていくのが見えた。
僕は窓際に立って、それを見下ろした。
辞めた部活は、僕がいなくてもちゃんと動いている。
顧問の声が飛び、ボールが転がり、誰かが笑う。
そこにも、僕がいなくても変わらない場所があった。
白石の席へ視線を戻す。
空いている。
それだけで、教室の広さが少し違って見えた。
木曜日の昼休み、僕は《ミモザ》へ行った。
金曜日ではないから、夕焼けプリンは売っていない。
店の前には小さな黒板が出ていて、チーズタルトとレモンケーキの名前が白いチョークで書かれている。
扉を開けると、バターの匂いがした。
ショーケースの向こうで、おばあさんが顔を上げる。
「あら」
「あ、どうも」
「今日は金曜日じゃないわね」
「はい」
「下見?」
「何のですか」
「金曜日の」
僕は返事に詰まった。
おばあさんは、分かっているように笑った。
「夕焼けプリンは明日よ」
「知ってます」
「じゃあ、今日は何にする?」
僕はショーケースを見た。
ケーキも焼き菓子も並んでいる。
でも、僕が見ていたのは、一番端の空いた場所だった。
金曜日だけ、そこに夕焼けプリンが並ぶ。
「白石って、よく来ますか」
聞いてから、ずいぶん直球だったと思った。
おばあさんは手を止めた。
「ひなたちゃん?」
「はい」
「来るわよ。小さい頃から」
「小さい頃から」
「お母さんと一緒にね」
白石の母。
宮野が言っていた病院の話が、頭の中でつながりかける。
けれど、まだ形にならない。
「夕焼けプリン、好きなんですね」
「ええ。あれはね、もともと定番商品じゃなかったの」
おばあさんは、ショーケースのガラスを布で拭いた。
ゆっくりと、同じ場所を二度。
「ひなたちゃんのお母さんが言ったのよ。ひなたに見せたい夕焼けみたいだって」
「プリンを?」
「上のジュレ。あの薄いオレンジ色」
おばあさんの目が、少し遠くを見る。
「その時のひなたちゃん、容器まで大事に持って帰ったの。食べ終わったあとも、夕焼けが残ってるみたいだって」
僕は、白石が容器を洗う手つきを思い出した。
雑な言葉の後でも、そこだけは丁寧だった。
「今も持って帰ってます」
「でしょうね」
「何に使うんですか」
おばあさんは笑った。
「それは、本人に聞いた方がいいわ」
「聞いても、白石法で延期されます」
「何それ」
「僕も知りたいです」
おばあさんは小さく笑った。
その笑い方が、ほんの少しだけ白石に似ていた。
僕はレモンケーキを一つ買った。
別に食べたかったわけではない。
何も買わずに出るには、聞きすぎた気がしたからだ。
店を出る時、おばあさんが言った。
「明日、二つ?」
僕は扉に手をかけたまま振り返る。
「……たぶん」
「たぶんは禁止されてるんじゃない?」
白石から聞いたのだろうか。
それとも、あの親子が昔からそういうことを言っていたのだろうか。
僕には分からない。
「二つ買います」
「はい。取っておくわ」
「ありがとうございます」
外に出ると、夕方の町はまだ明るかった。
レモンケーキの袋が、手の中で少しだけ温かい。
僕は歩きながらスマホを見た。
やっぱり、白石の名前はない。
連絡先の一覧に、彼女だけがいない。
知らないのではなく、聞いていなかった。
その違いが、今さら痛かった。
金曜日。
六月三十日。
朝から、僕は落ち着かなかった。
黒板の日付を見るたびに、金曜日だと思う。
チャイムが鳴るたびに、放課後まであと何時間か数える。
白石の席は、今日も空いていた。
担任は出席簿を見て、昨日と同じように欠席と言った。
それだけだった。
放課後、僕は《ミモザ》へ行った。
おばあさんは、何も言わずに淡い黄色の紙袋を渡してくれた。
中には夕焼けプリンが二つ。
いつもなら、白石が変な名前をつけそうな重さだった。
金曜日の質量、とか。
そんなことを考えて、少し腹が立った。
いないのに、会話だけが勝手に続く。
教室へ戻ると、窓際の席には誰もいなかった。
カードゲームの男子も、宮野たちも、今日はもう帰っている。
机を二つ向かい合わせにする必要はなかった。
それでも僕は、自分の机の上にプリンを一つ置き、向かい側の白石の席にも一つ置いた。
ふたを開ける。
スプーンを出す。
いつもなら、ここで白石が何か言う。
プリンは前提、とか。
夕焼け候補、とか。
今日は何もない。
僕は自分の分だけを食べた。
一口目で、教室の音がやけに大きく聞こえた。
時計の針。
廊下の足音。
どこかの教室で椅子を引く音。
白石がいないだけで、こんなに余計な音がある。
半分ほど食べたところで、手が止まった。
向かい側のプリンは、まだふたを開けていない。
白石の分。
そう考えた時点で、もう僕のものではなかった。
食べ終えた容器を持って、教室後ろの流しへ行く。
水を出す。
先週までは、白石が当然のように僕の容器まで持っていった。
今日は僕が自分で洗っている。
指で内側をなぞる。
底に残ったカラメルが、水に薄まって流れていく。
白石はいつも、ここで何を残そうとしていたのだろう。
洗った容器をハンカチで拭いた。
捨てればよかった。
ごみ箱はすぐそこにある。
でも、僕は容器を机へ持ち帰った。
白石の席には、まだプリンが一つ置かれている。
ふたの上に、水滴がついていた。
冷蔵保存。
横向き厳禁。
衝撃注意。
先週の白石の声が、頭の中で勝手に並ぶ。
僕は紙袋に白石の分を戻し、鞄に入れた。
家に帰るまで、プリンは思ったより邪魔だった。
電車の揺れで傾かないように、鞄を膝の上に置く。
母さんに「何それ」と聞かれないように、玄関で靴を脱いですぐ冷蔵庫へ入れる。
冷蔵庫の中で、夕焼けプリンは他のものより少し明るく見えた。
夕食の時、母さんが言った。
「今日、金曜日だったんだ」
「うん」
「プリンの日?」
僕は箸を止めた。
「なんで知ってるの」
「最近、金曜だけ帰ってくる時の顔が違うから」
「そんな顔してた?」
「してた」
母さんは味噌汁を置いた。
「今日は違うけど」
僕は何も言わなかった。
母さんもそれ以上聞かなかった。
その沈黙に助かった。
夜、冷蔵庫を開ける。
プリンはまだそこにある。
白石の分。
明日まで持つのか、箱の表示を見る。
本日中。
分かっていた。
分かっていたから、余計に開けたくなかった。
僕は扉を閉めた。
十秒後、また開けた。
そのあとも何度か同じことをした。
冷蔵庫の明かりがつくたび、プリンの上のジュレが静かに見えた。
結局、日付が変わる少し前、僕はプリンを取り出した。
食卓に置く。
スプーンを持つ。
白石がいないのに、いただきますと言いそうになって、やめた。
ふたを開ける。
一口食べる。
味は同じだった。
同じはずだった。
でも、何かが足りなかった。
それが何かを言葉にすると、負ける気がした。
だから最後まで何も言わずに食べた。
空になった容器を、台所で洗う。
指先が冷たい。
水を止めても、しばらく蛇口の先から雫が落ちた。
容器を拭いて、自分の部屋へ持っていく。
机の上には、教科書とプリントと、昨日買ったレモンケーキの袋が残っていた。
その横に、空き容器を置く。
白石なら、夕焼け候補何号と言っただろう。
僕の分なのか。
白石の分なのか。
考えても、番号は分からなかった。
ただ、透明な容器が二つになった。
ひとつは教室で食べた僕の分。
もうひとつは、食べられないまま持ち帰って、結局僕が食べた白石の分。
僕はスマホを開いた。
連絡先の一覧を見ても、白石ひなたの名前はない。
メッセージアプリを開いても、白石からの通知はない。
当たり前だ。
当たり前なのに、その当たり前が気に入らなかった。
毎週一緒にプリンを食べているのに、僕は白石のことを何も知らなかった。
どこの病院にいるのか。
誰の付き添いなのか。
なぜ容器を集めるのか。
来週、本当に来るのか。
知っているのは、隣の席で笑うこと。
一口目だけ静かになること。
変な法律を作ること。
そして、金曜日に来ないかもしれないと言ったこと。
それだけだった。
机の上の容器に、部屋の明かりが映っている。
夕焼けではない。
ただの蛍光灯だ。
僕はそれを見ながら、明日の予定を決めた。
《ミモザ》へ行く。
理由は、たぶんいくらでも作れる。
レモンケーキが意外とうまかったから。
おばあさんに、金曜の袋を返すから。
たまたま駅前を通るから。
でも本当は、そんなものではなかった。
白石のことを、何も知らないままでいるのが嫌だった。
窓の外では、六月最後の金曜日が終わっていた。
僕の机の上には、空き容器が二つある。
中身はもうない。
それでも、捨てる気にはなれなかった。




