第一話
翌週の金曜日、白石ひなたは僕より先に教室にいた。
それだけなら、別に珍しいことではない。
白石は朝も昼も放課後も、だいたい席にいる時はいるし、いない時はいない。
基準が分からない。
ただ、その日の白石は、僕の席の上に小さな紙袋を置いていた。
駅前の洋菓子店。
淡い黄色の袋に、細いリボンの絵が印刷されている。
僕は自分の席の前で止まった。
白石は頬杖をついたまま、こっちを見上げる。
「返済日です」
「借金みたいに言うな」
「プリン債務」
「聞いたことない言葉を当然みたいに出すな」
「利息はつきません」
「つけられたら困る」
僕は紙袋を持ち上げた。
中には、見覚えのある透明な容器。
オレンジ色のジュレが、窓から入る光を受けて薄く光っている。
《夕焼けプリン》。
金曜日限定、二十個。
先週、白石が勝手に食べたものと同じものだった。
「ちゃんと買ってきたんだな」
「法律は守るタイプなので」
「人のプリンは食べるのに」
「それは先週の私です」
「一週間で別人格になったみたいに言うな」
白石は胸に手を当てた。
「今日の私は返済する白石です」
「先週の白石は?」
「反省する白石」
「本当に?」
「やや」
「ややか」
「全面反省は今後の活動に支障が出るので」
「今後も何かする気かよ」
白石は答えなかった。
代わりに、僕の机の横へ自分の椅子を引き寄せた。
がた、と脚が床をこする。
当然のような顔だった。
「何してるの」
「座ります」
「ここ僕の席」
「高瀬くんはそこ」
白石は、自分の席を指さした。
隣同士だから、確かにそこに座れば向かい合う形になる。
なるけれど、そういう問題ではない。
「何で僕が自分の席を追い出されるんだ」
「返済には立ち会いが必要です」
「僕は債権者か何かなのか」
「プリン債権者」
「その制度、今日で終わりにしてくれ」
文句を言いながらも、僕は白石の席に座った。
放課後の教室には、まだ何人か残っていた。
黒板の前で宮野が友達と話している。
窓際では男子がカードゲームを広げている。
誰も、僕と白石の席が入れ替わっていることを気にしていない。
世の中は、意外と他人のプリン問題に冷たい。
白石は紙袋からプリンを二つ出した。
「二つ?」
「私の分」
「自分の分も買ったのか」
「はい」
「僕への返済なら、一つでよくないか」
「高瀬くんがひとりで食べていると、私が見ているだけになります」
「それは先週の僕だ」
「先週の高瀬くん、かわいそうだったね」
「加害者が言うな」
白石はスプーンも二本出した。
そこまで準備がいいと、怒る隙間がなくなる。
僕はプリンを一つ受け取った。
ふたを開ける。
薄いオレンジの層が、教室の光を吸っている。
一週間前は食べられなかった。
その事実だけで、変な感じがした。
「では」
白石がスプーンを構える。
「いただきます」
「……いただきます」
僕もスプーンを入れた。
ジュレの表面が小さく割れる。
下のカスタードと一緒にすくって、口へ運ぶ。
冷たさが舌に触れた。
卵の味と、オレンジの香り。
帰り道に食べる予定だったものが、今は隣の席の白石と向かい合っている。
予定通りではない。
でも、先週みたいに全部奪われているわけでもない。
「どう?」
白石が聞いた。
「普通においしい」
「普通に?」
「かなり」
「最初からそう言えばいいのに」
「何か負けた気がして」
「プリンに?」
「白石に」
「私、プリン側だったんだ」
「先週は完全に敵側だった」
白石は少し得意げにした。
「じゃあ、今日は?」
「更生途中」
「仮釈放?」
「監視付き」
「監視役は高瀬くん?」
「不安しかないな」
白石は笑った。
声を立てずに、口元だけで。
それから、スプーンをプリンに入れる。
一口目。
先週と同じだった。
白石は、最初の一口だけ静かになる。
さっきまでの変な会話が、そこで切れる。
目線が容器の中へ落ちる。
スプーンを口に運んで、飲み込むまで、白石の顔から余計なものが消えた。
僕はその横顔を見てしまう。
見てしまったことに気づいて、慌てて自分のプリンへ視線を戻した。
「見てた」
「見てない」
「見てた人の否定だった」
「どんな否定だよ」
「目撃され慣れてない否定」
「白石は何でも分類するな」
「分類すると安心するので」
何気ない言い方だった。
でも、その一文だけ、少し浮いた。
安心。
白石の口から出るには、やけにまじめな言葉だった。
僕が返事を探している間に、白石はまたいつもの顔に戻る。
スプーンを構えたまま、急に真面目な顔をした。
「カスタード権、いる?」
「何それ」
「カスタード多めにすくう権利」
「それは自分のプリンで自由に行使するものだろ」
「じゃあ、私の上層ジュレ権と交換」
「権利の取引が始まった」
「プリンは法治国家なので」
「先週、無法地帯だったけど」
「歴史から学びました」
「一週間の国家史、薄いな」
結局、白石は僕のプリンからカスタードを少しだけ奪い、自分のジュレを僕の容器へ落とした。
等価交換かどうかは分からない。
ただ、白石は満足そうだった。
食べ終えると、白石は容器を持って立ち上がった。
教室後ろの流しへ向かう。
僕も空になった容器を持った。
「高瀬くんも洗うの?」
「僕のだからな」
「えらい」
「お前に褒められる筋合いはない」
「では、容器側の代表として褒めます」
「容器に代表者制度を作るな」
流しの蛇口をひねる。
水が細く落ちる。
白石は容器の内側を指でなぞりながら洗った。
やっぱり、そこだけ動きが丁寧になる。
ふざけた言葉のあとでも、容器を扱う時だけは雑にならない。
「本当に何に使うんだ、それ」
僕は聞いた。
白石は水を止めた。
「企業秘密」
「またそれか」
「白石産業、夕焼け部門」
「不安しかない」
「でも将来性はあります」
「どこに」
白石は洗った容器を窓の方へ持ち上げた。
透明な器の底に、水滴が一つ残っている。
「ここ」
「見えない」
「見えないうちは、まだ秘密です」
「それ、説明になってない」
「いつか、夕焼けを作る」
白石はそう言った。
軽い声だった。
でも、容器を見ている目は笑っていなかった。
僕は返す言葉を選びそこねた。
夕焼けを作る。
先週も似たようなことを言っていた。
夕焼けの材料。
やっぱり意味は分からない。
それなのに、白石がその言葉を冗談だけで使っているわけではないことだけは分かった。
「いつかって、いつ」
「白石法により未定」
「便利だな、その法律」
「便利な法律だけが生き残るんです」
白石はハンカチで容器を拭き、鞄へしまった。
僕の容器にも、当然のように手を伸ばしてくる。
「それも?」
「材料は多い方がいい」
「僕の分なんだけど」
「いる?」
「……いや、別にいらないけど」
「じゃあ、採用」
「何に」
「夕焼け候補」
僕の容器は、白石の鞄に入った。
僕のプリンだったものが、白石の何かに組み込まれていく。
どう考えても変なのに、嫌ではなかった。
その時点で、僕は少し負けていたのだと思う。
翌週、六月十六日の金曜日。
白石は、昼休みから眠そうだった。
授業中も何度かまばたきが遅れていたし、ノートの端には見慣れない線が何本も引かれていた。
字を書こうとして、途中で手が止まった跡みたいだった。
放課後になると、白石はいつものように僕の席へ椅子を寄せてきた。
「本日の夕焼けプリンです」
「いつの間に買ってきたんだ」
「昼休み」
「僕も買ったんだけど」
「え」
「え」
机の上に、淡い黄色の紙袋が二つ並んだ。
白石が僕を見る。
僕も白石を見る。
白石は紙袋を二つ見比べた。
「やる気だね」
「普通に自分の分を買っただけだ」
「でも二つある」
「結果としてな」
「金曜日が増えた」
「増えてない。プリンが増えただけ」
「金曜日の質量が増えた」
「物理に謝れ」
白石はしばらく紙袋二つを眺めたあと、真剣な顔で言った。
「余ったら、夕焼けに回そう」
「まだ食べてもいないのに余らせるな」
「じゃあ食べます」
「最初からそうしろ」
その日は、プリンを二つずつ食べるわけにもいかず、白石の分と僕の分を一つずつ開けた。
残った一つは僕が持ち帰ることになった。
「冷蔵保存」
白石が言う。
「分かってる」
「横向き厳禁」
「分かってる」
「衝撃注意」
「宅配便みたいに言うな」
「夕焼けは繊細なので」
「それはプリンだ」
「どっちも」
白石はそう言って、スプーンを入れた。
また一口目だけ静かになる。
僕はもう、その顔を見ないふりができなかった。
白石の目の下には、薄い影があった。
前からあったのかもしれない。
僕が見ていなかっただけで。
「眠いのか」
聞くと、白石はスプーンを止めた。
「人生を少々」
「規模がでかい」
「昨日、人生が長引いた」
「夜更かしって言えばいいだろ」
「夜更かしより、人生の方が言い訳として強い」
「強くない」
「じゃあ、家庭の事情」
白石はさらっと言った。
教室の音が一瞬だけ薄くなる。
でも、白石はすぐにプリンへ視線を戻した。
「という冗談」
「今の、冗談なのか」
「そこは流すところ」
「難しいな」
「練習が必要です」
「何の」
「白石対応」
白石は笑った。
さっきより少し遅れて。
その遅れが気になった。
でも、僕は踏み込めなかった。
僕たちはまだ、プリンを一緒に食べるだけの関係だ。
容器を洗う。
白石が持ち帰る。
僕の分も、と当然みたいに言う。
僕が文句を言う。
白石が変な法律を作る。
その程度の関係。
名前をつけるには、たぶん早い。
放課後が終わる頃、白石はいつもより早く鞄を持った。
「帰るのか」
「帰ります」
「部活?」
「白石産業、外回り」
「どこに営業するんだよ」
「人生方面」
「また規模がでかい」
白石は笑った。
今度はちゃんと笑ったように見えた。
「じゃあ、また来週」
「プリンは?」
「買います」
「僕も?」
「高瀬くんの自由意思に任せます」
「買わせる気だろ」
「自由意思を尊重しています」
白石は教室を出た。
廊下でスマホを確認し、表情を一度消した。
ほんの一秒。
そのあと、何でもない顔で歩いていく。
僕は声をかけなかった。
かけられなかった。
三回目の金曜日が終わって、僕の放課後には、白石がいる形ができ始めていた。
それは、いつの間にか置かれた椅子みたいだった。
最初は邪魔だと思った。
でも、なくなったらたぶん、床の跡を見る。
六月二十三日。
四回目の金曜日。
朝から雨が降っていた。
強い雨ではない。
窓に細い線を引くだけの、決めきれない雨だった。
放課後になっても空は白く、教室の蛍光灯がいつもより目立っていた。
白石は三時間目から眠そうだった。
昼休みには机に伏せていた。
それでも放課後になると、いつものように僕の席へ椅子を寄せてきた。
「本日の議題です」
「プリンじゃないのか」
「プリンは前提」
白石は紙袋を机の上に置いた。
今日は僕も買ってきていた。
最初から二つ並ぶことに、もう驚かなくなっている。
それもどうかと思う。
「議題って」
「もし金曜日に私が来なかったらさ」
白石は、ふいに言った。
雨の音が窓に当たる。
僕は紙袋から手を離した。
「プリン、二つ買う?」
「来ないなら買わないだろ」
「そこは買ってよ」
「理不尽すぎる」
「金曜日だし」
「理由になってない」
「夕焼けは、余った分も材料になるので」
白石はいつもの調子で言った。
でも、その日は目があまり笑っていなかった。
「来ない予定でもあるのか」
「予定というか」
白石はスプーンの袋を開ける。
なかなか開かない。
僕が手を出すと、白石は一瞬迷ってから、袋を渡した。
「珍しいな」
「今日は包装が強敵」
「包装のせいにするな」
「私の握力は平和主義なので」
「意味分からん」
袋を開けて返すと、白石は「採用」と言った。
「何を」
「スプーン開封係」
「また係が増えた」
「高瀬くんは役職に恵まれてるね」
「ブラック職場の気配がする」
「福利厚生はプリン」
「悪くはないな」
「今、悪くはないって顔した」
「してない」
「した」
「してない」
白石はスプーンを持ったまま、プリンを見た。
一口目を食べる前、いつもの静けさが来る。
でも、その日は少し長かった。
スプーンが容器に触れたまま止まっている。
「白石」
呼ぶと、白石は顔を上げた。
「私、今止まってた?」
「まあ」
「電波が悪かった」
「人間は電波で動いてない」
「白石法では」
「そろそろ白石法を改正しろ」
白石はやっと一口食べた。
それから、目を伏せる。
「プリンくれる人を好きになる?」
僕は、スプーンを落としかけた。
ぎりぎりで持ち直す。
「急に何を言ってるんだ」
「一般論」
「一般論でそんな質問するか」
「じゃあ、社会調査」
「対象者一名の?」
「質的調査です」
「言い方だけそれっぽくするな」
白石は真面目な顔で僕を見ている。
ふざけているようで、完全にふざけてはいない。
その線引きが、最近少しだけ分かるようになってきた。
「プリンだけでは、ならないんじゃないか」
僕は答えた。
「だけでは」
「たぶん」
「たぶん禁止」
「まだその法律、適用されるのか」
「重要案件なので」
白石はスプーンでカスタードをすくった。
でも食べずに、容器の中へ戻す。
「じゃあ、プリン以外に何が必要?」
「知らない」
「不親切」
「恋愛相談なら相手を間違えてる」
「経験不足?」
「うるさい」
「私も不足してる」
白石はそう言って、やっと食べた。
僕は返事をしなかった。
教室の隅で誰かが笑う。
廊下を走る足音が通り過ぎる。
その全部が、僕たちの机の周りだけ避けているように感じた。
「でも」
白石が言う。
「金曜日にプリンを二つ買ってくれる人は、けっこう強いと思う」
「何に」
「いろいろ」
「また曖昧だな」
「曖昧な方が長持ちすることもあります」
白石は容器を持ち上げた。
食べ終えたあと、いつものように洗う。
今日は僕も何も言わずに自分の容器を流しへ持っていった。
二つ並んだ透明な器。
水をかけると、底のカラメルがゆっくり薄まっていく。
「来週」
白石が言った。
水音のせいで、声は少し小さく聞こえた。
「うん」
「もし私が来なかったら」
「またそれか」
「二つ」
「……分かった」
白石の手が止まった。
「買うの?」
「買えって言ったのお前だろ」
白石は少しだけ目を丸くした。
それから、いつもの顔に戻る。
「法律遵守タイプだね」
「お前にだけは言われたくない」
白石は笑った。
そのあと、洗い終えた容器をハンカチで拭く。
一つずつ、割らないように。
「夕焼け候補、四号」
「番号ついてたのか」
「ついてます」
「僕のは?」
「高瀬くんのは、だいたい不器用枠」
「失礼だな」
「でも必要」
白石はそれだけ言って、容器を鞄にしまった。
必要。
その言葉が、妙に残った。
プリンの容器に対して言ったのか。
僕に対して言ったのか。
たぶん前者だ。
そう思うことにした。
その日の帰り、白石は昇降口でスマホを見た。
また、表情が一度消える。
雨はまだ降っていた。
僕が傘を差そうとした時、白石がこちらを見た。
「今日の金曜日、まあまあでした」
「まあまあか」
「上出来に近いまあまあ」
「細かいな」
「評価制度なので」
「次は?」
白石は傘を開いた。
雨の音が少しだけ強くなる。
「次も、金曜日」
そう言って、彼女は先に校門へ向かった。
僕はその背中を見送った。
傘の端から、雨粒が落ちる。
白石の鞄の中には、今日の容器が二つ入っている。
僕の鞄の中には、何もない。
それなのに、帰り道は先週より軽くなかった。
次の金曜日。
六月三十日。
僕はたぶん、また《ミモザ》へ行く。
白石が来るかどうかは分からない。
けれど、金曜日はもう、僕ひとりのものではなくなっていた。




