プロローグ
恋の始まりは、彼女が僕のプリンを食べたことだった。
放課後の教室には、まだ何人かの声が残っていた。
窓際では男子がスマホの画面を覗き込んで笑っているし、廊下からは吹奏楽部の音階練習が途切れ途切れに聞こえてくる。
六月最初の金曜日。
梅雨入り前の空は中途半端に明るくて、窓から差す光だけが、やけに夏のふりをしていた。
僕は鞄を机の横に掛け、購買で買ってきた小さな箱を取り出そうとした。
駅前の洋菓子店。
金曜日だけ、二十個限定で売られる《夕焼けプリン》。
丸い透明な容器に入ったそれは、普通のカスタードプリンの上に、薄いオレンジ色のジュレが一層だけ重なっている。
店のおばあさんは「放課後の空を閉じ込めた味」と言っていた。
正直、その言い方はだいぶ盛っていると思う。
でも、部活を辞めてからの金曜日に、僕はその盛られた言葉ごとプリンを買っていた。
鞄の中に手を入れる。
箱がない。
もう一度、奥まで探る。
ノート。
筆箱。
折れたプリント。
財布。
弁当箱。
ない。
僕は机の上を見た。
そこに、あるはずのないものがあった。
いや、正確には、あるべきものがあった。
僕の《夕焼けプリン》。
ただし、それはすでに箱から出され、ふたを開けられ、隣の席の女子の手元に置かれていた。
白石ひなたが、僕のプリンを食べていた。
「……何してんの?」
僕が言うと、白石はスプーンを口にくわえたまま、こっちを見た。
肩より少し長い髪が、頬の横でゆるく跳ねている。
目は大きいのに、眠そうにも見える。
顔立ちは整っている。
そのせいで、やっていることの犯罪性が余計に際立っていた。
白石はスプーンを抜いて、言った。
「プリンを食べています」
「見れば分かる」
「じゃあ質問が悪いね」
「質問じゃなくて抗議なんだけど」
「なるほど」
白石はうなずいた。
反省の気配はなかった。
「じゃあ、抗議を受け付けます」
「僕のプリンだよな、それ」
「うん」
「うん、じゃなくて」
「高瀬くんのプリンを、私が食べています」
「事実確認ができているなら返せ」
「もう返却不能状態に入りました」
「何その状態」
「具体的には、三口目です」
「まだ間に合うだろ」
「人として?」
「プリンとして」
白石は手元の容器を見た。
薄いオレンジの層には、スプーンの跡が入っている。
その下のカスタードまで、きれいに削られていた。
「プリンとしては、だいぶ戻れないところまで来ています」
「戻れないところまで勝手に行くな」
僕は白石の机の前に立った。
窓から入る光が、容器の縁で細く曲がっている。
買えたのは最後の一個だった。
今日の帰りに食べるつもりだった。
誰にも邪魔されず、ひとりで。
それなのに、なぜか隣の席の白石が、当然のように僕のプリンを食べている。
「白石」
「はい」
「これは窃盗です」
「違います」
「違わない」
「窃盗は隠れてやるものです」
「堂々としてたら許されると思うな」
「堂々プリン罪?」
「罪名をかわいくするな」
白石は口元にスプーンを当てた。
笑っているのかと思ったが、そうではなかった。
スプーンの先に残ったカスタードを見ている。
さっきまでの雑な受け答えとは違い、その目だけが急に静かになっていた。
教室のざわめきが一段遠くなる。
白石は、一口目を食べる時もこんな顔をしていたのだろうか。
僕が見ていなかっただけで。
「……おいしい?」
つい聞いてしまった。
白石は、まばたきをした。
それから、さっきまでの調子に戻る。
「高瀬くんのだからね」
「僕のだからおいしいんじゃなくて、《ミモザ》のだからおいしいんだよ」
「所有権の味もあるかもしれない」
「ない」
「でも、人のプリンって特別感あるよ」
「最低の特別感だな」
「金曜日限定だし」
「分かってて食べたのか」
「分かってたから食べました」
「より悪質」
白石はスプーンを置いた。
置いた、というより、容器の縁にそっと寝かせた。
その動作だけが妙に丁寧だった。
「ちゃんと理由はあります」
「聞こう」
「そこにプリンがあった」
「山か」
「しかも夕焼けプリンだった」
「だから?」
「金曜日だった」
「だから?」
白石は少し考える顔をした。
「条件がそろってしまった」
「犯罪者の供述としてはだいぶ弱い」
「理屈が甘い?」
「甘い」
「プリンだからね」
「うまいこと言った顔をするな」
白石は本当にうまいこと言った顔をしていた。
僕はため息をついた。
怒っている。
怒っているはずなのに、どこかでツッコミを待っている自分がいるのが腹立たしい。
白石ひなたとは、隣の席になって二ヶ月になる。
話したことがないわけではない。
プリントを回す。
消しゴムを落とす。
小テストの範囲を聞かれる。
そのくらいはあった。
ただ、それだけだった。
少なくとも、僕のプリンを食べる関係ではなかった。
「弁償」
僕が言うと、白石はうなずいた。
「します」
「できるのか」
「来週」
「今日じゃないのかよ」
「今日の分はもう売り切れです」
「誰かさんのせいでな」
「高瀬くん、正論が鋭い」
「刺さってほしい」
「刺さった結果、来週返します」
「一週間後か」
「金曜日限定なので」
「まあ、そうだけど」
「プリンと一緒に」
「プリンを返すんじゃないのか」
「プリンだけじゃなくて、一緒に」
「何と?」
白石は答えず、残りを食べ始めた。
抗議の途中で食べるな、と言おうとして、やめた。
食べ方が、また静かになったからだ。
スプーンを入れる。
口に運ぶ。
飲み込むまでの間だけ、白石から余計な言葉が消える。
それは食い意地というより、何かを確かめているように見えた。
味なのか。
記憶なのか。
僕には分からない。
分からないから、余計に気になった。
最後の一口を食べ終えると、白石は容器を両手で持った。
机の上に残った透明な器。
底には、スプーンで取りきれなかったカラメルが細く残っている。
「ごちそうさまでした」
「僕のセリフだろ、それ」
「高瀬くんは食べてないから言えません」
「原因はお前だ」
「確かに」
白石は素直に認めた。
素直に認めるなら、最初から食べないでほしかった。
白石は立ち上がり、容器を持ったまま教室の後ろへ向かった。
ごみ箱の方ではない。
流し台の方だった。
この教室には、花瓶を洗うための小さな流しがある。
白石はそこで容器を洗い始めた。
僕は席に戻りかけて、足を止める。
「捨てないのか?」
水音に混じって、白石が振り返った。
「いる」
「何に?」
「夕焼けの材料」
白石はそれだけ言って、また容器を洗った。
透明な器の内側を、指で丁寧になぞっている。
さっきまで僕のプリンを堂々と食べていた人間とは思えない手つきだった。
「夕焼けの材料って何だよ」
「言葉の通りです」
「通りじゃないから聞いてる」
「詳細説明は来週です」
「何で」
「白石法により」
「出た、知らない法律」
「第一条。説明したくないことは、来週に回してよい」
「都合がよすぎる」
「ただし、プリンを伴うこと」
「買わせる気満々じゃねえか」
白石は洗い終えた容器をハンカチで拭いた。
それから、鞄の中にしまう。
本当に持ち帰るらしい。
僕のプリンの空き容器を。
「高瀬くん」
「何」
「怒ってる?」
「怒ってる」
「だよね」
「だよね、じゃない」
白石は鞄のチャックを閉めた。
その指が、一瞬だけ止まった。
「でも、来週も買う?」
「何でそうなる」
「返済があるから」
「お前が返すんだろ」
「私も買う」
「僕も?」
「高瀬くんも」
「僕が被害者だよな?」
「被害者参加型返済」
「聞いたことない制度を増やすな」
白石は笑った。
声は出さなかった。
口元だけで、ほんの短く。
その顔は、すぐにいつもの白石に戻った。
「来週の金曜日」
「……何」
「プリン、返す」
「うん」
「プリンと一緒に」
「だから何と一緒なんだよ」
白石は教室の時計を見た。
それから鞄を肩にかける。
「来週になったら分かります」
「また白石法か」
「金曜日にしか成立しない法律です」
そう言って、白石は教室を出ていった。
廊下に出る直前、こちらを一度だけ振り返る。
「高瀬くん」
「まだ何かあるのか」
「今日のプリン」
「うん」
「ちゃんとおいしかったです」
「それは僕が言う予定だった」
「じゃあ、来週」
白石は軽く手を振った。
謝罪の形には見えなかった。
でも、完全な開き直りにも見えなかった。
僕は何も言い返せないまま、その背中を見送った。
教室には、まだ夕方の光が残っていた。
僕の机の上には、空の箱だけがある。
透明な容器は、白石の鞄の中。
僕のプリンは、もうどこにもない。
代わりに、来週の金曜日だけが残された。
僕は空の箱をつまんで、ため息をついた。
最悪だ。
金曜限定のプリンを勝手に食べられた。
しかも犯人は反省しているのかしていないのか分からない。
そのうえ、なぜか僕は来週も《ミモザ》に行くことになっている。
箱を折りたたんで、ごみ箱に入れる。
その直前、箱の側面に印刷された小さなロゴが目に入った。
《ミモザ》。
夕焼けプリン。
金曜限定。
僕は箱を捨てた。
でも、来週の金曜日のことだけは、どうしても捨てられなかった。




