第十七話
日曜日の朝、鞄の中には白い封筒が入っていた。
《金曜日に開ける》。
昨日、白石の部屋で受け取ったそれを、僕はまだ開けていない。
開ける日ではないから。
玄関を出る前に、もう一度だけ鞄の口を確かめた。
封筒は、ノートの間で折れずに収まっている。
その横のポケットには、小さく折った紙が一枚入っていた。
フェリーの時刻表。
何度も見たせいで、折り目が少し柔らかくなっている。
今日は、それを見せに行く日ではなかった。
白石を見送る日でも、さよならを言う日でもない。
何度もそう思い直してから、僕は家を出た。
駅前の通りは、日曜日の朝らしく静かだった。
制服の生徒はいない。
店のシャッターは半分だけ開いていて、コンビニの前には、旅行鞄を持った家族が立っている。
僕は《ミモザ》の前を通った。
ガラス戸の向こうは暗い。
金曜日ではないから、夕焼けプリンは並んでいない。
あの小さな列もない。
おばあさんの「今日は二つ?」という声もない。
それなのに、店の前を通っただけで、胸の奥に金曜日の匂いが戻ってきた。
白石がいなくても、金曜日は来る。
昨日、そのことを思い知ったばかりだった。
でも、白石がいない金曜日に、何をするかは、まだ決まっていない。
封筒を開ける。
そこまでは決まっている。
その先は、まだ白い。
バスに乗って、港へ向かった。
窓の外に、夏の町が流れていく。
ファミレスの看板。
本屋の入った駅前ビル。
河川敷へ続く細い道。
ひとつずつ目に入るたびに、思い出しそうになって、やめた。
今日は、思い出を数える日じゃない。
白石と、次を決める日だ。
港へ着くと、海の向こうに入道雲が立っていた。
白い船体の奥で、夏だけが先に完成しているみたいだった。
前に一緒に行った海より、ずっと実用的な海だった。
観光地みたいな明るさではなく、フェリーの白い船体と、荷物を運ぶ台車と、切符売り場の窓口がある。
潮の匂いに、燃料の匂いが少し混ざっている。
僕は乗り場の前で白石を見つけた。
白石は、麦わら帽子をかぶっていた。
薄い水色のブラウスに、生成りのスカート。
肩から小さめの鞄をかけ、足元にはキャリーケース。
その上に、薄い黄色の紙で内側を敷いた小さな箱が載っている。
夕焼け箱だ。
いかにも夏の出発の日みたいで、白石本人だけが少し納得していない顔をしていた。
「おはよう」
僕が言うと、白石は麦わら帽子のつばを指で押さえた。
「おはようございます」
「帽子」
「お母さん指定です」
「似合ってる」
「定番すぎませんか」
「定番が似合う日もあるだろ」
白石は一瞬だけ黙った。
それから、帽子のつばをさらに下げた。
「日曜日、強い」
「帽子の話だろ」
「彼氏くんの初手です」
「また初手か」
「最終監査なので」
「厳しいな」
「本日は重要案件が多いです」
美和子さんは近くのベンチに座っていた。
帽子をかぶり、薄いカーディガンを羽織っている。
顔色は昨日より少しだけ良く見えた。
でも、立ち上がる時は、白石が自然に手を添えた。
「おはようございます」
僕が頭を下げると、美和子さんは目を細めた。
「おはよう、陽斗くん。いい空ね」
「はい」
「晴れすぎです」
白石が言った。
「出発日補正が強い」
「空に文句言うな」
「日差しが演出過多なので」
いつもの白石だった。
でも、声の端は少しだけ硬い。
白石は僕の顔を見た。
それから、僕の鞄を見る。
「持ってる?」
「封筒なら」
「開けてない?」
「金曜日じゃないからな」
白石は少しだけ口元を動かした。
「彼氏くん、規則を守るタイプ」
「昨日、泣いたからな」
言ってから、しまったと思った。
白石が一瞬だけ目を丸くする。
それから、視線を少し落とした。
「そこ、自分で言うんですね」
「隠すよりいいかと思って」
「業務改善」
「まだ評価されるのか」
「今日は最終監査です」
美和子さんが小さく笑った。
その笑い声で、白石の肩から少しだけ力が抜ける。
フェリーの出発までは、まだ時間があった。
荷物を預ける列が少しずつ進み、係員の声が港の屋根の下に響いている。
白石のキャリーケースには、行き先を書いたタグがついていた。
そこに書かれた島の名前を見た瞬間、胸の奥が少しだけ現実になる。
白石は夕焼け箱を抱え直した。
「これ、持っていくんだな」
「はい」
「しわしわ夕焼けも?」
「特別推薦なので」
「会長承認?」
「会長、満場一致でした」
美和子さんが頷く。
「あれは持っていかないと。陽斗くんの雑さが詰まってるから」
「評価がひどいです」
「でも、好きよ」
白石は箱のふたを少しだけ押さえた。
中身は見えない。
見えないけれど、そこにしわしわ夕焼けが入っていることは分かった。
出来の悪い透明な容器。
僕がいたと分かる、と白石が言ったもの。
あれが島へ行く。
僕の知らない部屋に置かれて、白石と美和子さんの新しい窓辺に並ぶ。
そのことが不思議だった。
僕自身はここに残るのに、僕の下手な夕焼けだけが、先に海を渡る。
「高瀬くん」
白石が言った。
「予定、立てた?」
僕はポケットの中の小さな紙を指で押さえた。
切符売り場の横に貼ってあったフェリー時刻表。
昨日の夜、何度も調べた時間。
この町から島へ渡るための数字。
「何の」
「来る予定」
白石はまっすぐ見てくる。
僕は少しだけ黙った。
「言わない」
「秘密?」
「白石法で」
白石は眉を寄せた。
「使い方が雑」
「でも、申請する」
「却下したい」
「まだ審査中で」
白石は何か言おうとして、やめた。
代わりに、夕焼け箱のふたを指で押さえる。
「じゃあ、保留」
「助かる」
「助かってる場合じゃないです」
「分かってる」
本当は、今ここで言ってしまいたかった。
次の金曜日。
この時間のフェリー。
僕は乗る。
そう言ったら、白石はたぶん泣く。
僕もたぶん、少し危ない。
でも、それはまだ言わない。
先のことを、出発前に全部言ってしまうのは違う気がした。
約束は、言いすぎると予定になる。
今日は、言葉を少しだけ残す日だ。
乗船開始の案内が流れた。
美和子さんが立ち上がる。
白石がすぐに支える。
僕はキャリーケースの持ち手に手を伸ばしかけて、止めた。
白石はそれに気づいて、少しだけ笑う。
「持ちます?」
「いいのか」
「階段まで」
「階段まで?」
「全部持たれると、私の引っ越し感がなくなるので」
「難しい注文だな」
「共同運搬です」
僕はキャリーケースを受け取った。
思っていたより重い。
服や教科書や日用品の重さ。
白石の生活が、ちゃんと入っている重さだった。
白石は夕焼け箱を持った。
美和子さんは小さな鞄を持つ。
三人で乗船口へ向かう。
列の中には、旅行客もいた。
小さな子どもが、フェリーを見てはしゃいでいる。
年配の夫婦が、切符を確認しながらゆっくり歩いている。
その中に白石と美和子さんが混ざっていく。
引っ越しなのに。
別れの日なのに。
港には、誰かの普通の移動がたくさんあった。
それが少しだけ救いで、少しだけ残酷だった。
乗船口の手前で、係員が「お見送りの方はこちらまでです」と言った。
そこから先へは行けない。
分かっていた。
それでも、線を引かれたみたいだった。
僕はキャリーケースを白石に返した。
白石は持ち手を受け取る。
その指が、ほんの少しだけ僕の指に触れた。
「ここまで」
「共同運搬、終了です」
「短期雇用だったな」
「評価は高めでした」
「ならよかった」
白石は笑った。
でも、その笑顔は長く続かなかった。
美和子さんが、僕を見た。
「陽斗くん」
「はい」
「ひなたの金曜日、よろしくね」
白石が目を丸くした。
「お母さん」
「だって、会長だから」
「職権濫用です」
「使える権限は使うものです」
美和子さんはそう言って、少しだけ息を整えた。
それから、僕に向き直る。
「無理に明るくしなくていいから。ひなたが金曜日を嫌いにならないように、ときどき思い出させてあげて」
僕は頷いた。
「はい」
「それと、陽斗くんも」
美和子さんは柔らかく笑った。
「ちゃんと自分の金曜日を大事にしてね」
その言葉が、静かに入ってきた。
部活を辞めてから、空いていた金曜日。
夕焼けプリンで埋めていた金曜日。
白石に食べられて、白石と過ごすようになって、白石がいなくなってからも続いてしまう金曜日。
僕は、もう一度頷いた。
「大事にします」
美和子さんは安心したように目を細めた。
そして、白石の背中をそっと押す。
「少し、二人で話しておいで」
「ここで?」
「ここで」
「お母さん、近い」
「聞こえないふりは得意よ」
白石は困った顔をした。
けれど、少しだけほっとしたようにも見えた。
僕と白石は、乗船口の列から少し外れた。
すぐ近くに海がある。
フェリーの白い船体が、日差しを受けて眩しい。
ロープが軋み、船内から人の声が聞こえる。
入道雲は、さっきより少し高くなったように見えた。
白石は夕焼け箱を胸に抱えていた。
両手で、しっかり。
「重くないか」
「重いです」
「持つか」
「これは、私が持ちます」
「そっか」
白石は箱を見下ろした。
「高瀬くんが下手に作った夕焼けも入ってるので」
「まだ言うのか」
「大事な情報なので」
「下手って情報が?」
「高瀬くんがいたって情報です」
返事ができなかった。
白石は箱から目を上げて、僕を見る。
「封筒」
「持ってる」
「金曜日に」
「開ける」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
白石は頷いた。
それから、少しだけ唇を結ぶ。
「私、金曜日が怖くなるかもしれません。島で、初めての金曜日。たぶん、何をすればいいか分からない」
僕は黙って聞いた。
「《ミモザ》もないし、高瀬くんも隣にいない」
白石は夕焼け箱を抱え直す。
「でも、封筒を書いたので」
僕は、その白い箱のふたを見た。
「その日は、高瀬くんも一人で金曜日をやってください」
「やる」
「夕焼けプリン、買える?」
「買う」
「二つ?」
「……考える」
白石は少しだけ笑った。
「そこは考えるんだ」
「一つにするのも、二つにするのも、どっちも重い」
「正直」
「業務改善中だからな」
白石はうつむいて、肩を少し揺らした。
笑ったのか、泣きそうになったのかは分からなかった。
乗船案内が、もう一度流れる。
今度はさっきより近く聞こえた。
時間が、ちゃんと減っている。
白石は顔を上げた。
目元が赤い。
でも、まだ泣いてはいなかった。
「じゃあ」
その一言で、空気が変わった。
白石は、夕焼け箱を抱えたまま僕を見る。
「高瀬くん」
「さよ――」
「違う」
僕は、白石の言葉を止めた。
白石が息を止める。
僕も、少し遅れて自分の声に驚いた。
でも、止めるなら今しかなかった。
「それは違う」
港の風が、白石の麦わら帽子のリボンを揺らした。
夕焼け箱のふたが、指の下でかすかに動く。
僕は、初めてその名前を呼んだ。
「ひなた」
白石の目が揺れた。
泣くより先に、まばたきを忘れたみたいだった。
「今日は、また明日って言う日だ」
白石の顔が崩れた。
泣く、と思った。
でも、白石はすぐには泣かなかった。
箱を抱えたまま、必死で息を吸っている。
「明日じゃないです」
「知ってる」
「フェリーで二時間です」
「知ってる」
「学校にも、隣の席にも、もう」
「知ってる」
白石の声が震えた。
「知ってるなら、ずるい」
「ずるくても、それがいい」
白石はそこで、泣いた。
昨日、母の前で泣いた時とは違う。
声を上げるほどではない。
けれど、涙が目の縁からこぼれて、止めようとしても間に合わない泣き方だった。
僕は手を伸ばした。
今度は、迷わなかった。
白石の右手を取る。
夕焼け箱を抱えていない方の手。
指先が冷たい。
でも、ちゃんと握り返してきた。
「安全対策じゃないな」
白石が言った。
泣きながら、そんなことを言う。
「違う」
「共同運搬でもない」
「違う」
「じゃあ、何ですか」
僕は白石の手を握ったまま、少しだけ考えた。
「普通に、手をつないでる」
白石は泣きながら、少しだけ笑った。
「今さらです」
「今さらだな」
指が重なる。
港の人たちが、横を通り過ぎていく。
誰も、僕たちを特別には見ない。
フェリーに乗る人と、見送る人。
その中の一組でしかない。
でも、僕にとっては、全部だった。
白石は涙を拭こうとして、箱を持っているせいでうまくできなかった。
僕がポケットからハンカチを出すと、白石は目を丸くした。
「準備がいい」
「昨日から入れてた」
「泣く予定?」
「僕のじゃない」
「ひどい」
「でも当たった」
白石はハンカチを受け取り、目元を押さえた。
涙を全部消すのではなく、少しだけ整えるみたいに。
「彼氏くん」
「ちゃんと来てね」
その声は小さかった。
港の音に少しだけ紛れそうだった。
でも、ちゃんと聞こえた。
「行く」
白石はハンカチを握ったまま、僕を見る。
「たぶん?」
「たぶん禁止だろ」
「うん」
「行く」
二回目は、さっきより短く言えた。
短いのに、その分だけ強く残った。
白石は、また泣きそうな顔をした。
でも、今度は泣かなかった。
泣きそうな顔のまま、笑った。
「採用」
その言葉を聞いて、僕の中で何かが静かに決まった。
採用。
最初は、白石が勝手に何かを決める言葉だった。
金曜日係。
普通リスト。
手をつなぐ距離。
写真。
夕焼け箱。
いつも、白石が不思議な顔で言って、僕が巻き込まれてきた。
でも今は違う。
僕も、その言葉の中にいる。
乗船口から、美和子さんがこちらを見ていた。
本当に聞こえないふりをしていたのかは分からない。
でも、目元が少しだけ濡れていた。
「ひなた」
係員の声と重なって、美和子さんが呼ぶ。
白石は手を離さなかった。
一秒。
二秒。
三秒。
それから、指先だけが残るように、ゆっくり離した。
「返却期限です」
「また借りる」
「予約制です」
「じゃあ予約する」
「いつ」
白石の声が少しだけ震えた。
僕はポケットの中の折れた紙を、もう一度指で押さえた。
見せない。
まだ見せない。
「金曜日」
白石は目を伏せた。
それから、頷いた。
「審査します」
「厳しいな」
「待つ方は、厳しいんです」
「知ってる」
白石は少しだけ笑った。
今度はちゃんと、白石の笑顔だった。
白石は美和子さんの方へ戻った。
キャリーケースを引き、夕焼け箱を抱えている。
麦わら帽子のつばが、港の風で少し浮く。
その後ろ姿は、昨日の荷造りの部屋で見た白石よりも小さく見えた。
けれど、弱くは見えなかった。
美和子さんが白石の肩に手を置く。
白石が一度だけ振り返る。
僕は手を上げた。
白石も、箱を抱えていない方の手を小さく上げる。
フェリーの中へ二人が入っていく。
白い船体の影に隠れる直前、白石がもう一度こちらを見た。
口が動いた。
声は聞こえなかった。
でも、分かった。
また明日。
そう言ったのだと思った。
そう思うことにした。
出発の合図が鳴った。
ロープが外される。
船体が、ゆっくり岸から離れ始める。
海面が白く泡立ち、港の水が少しずつ揺れる。
フェリーのデッキに、白石と美和子さんの姿が見えた。
美和子さんは帽子を押さえ、白石は夕焼け箱を片腕に抱えている。
もう片方の手で、僕に向かって手を振った。
最初は小さく。
それから、少し大きく。
僕も振った。
届く距離ではない。
もう手はつなげない。
声も、たぶん届かない。
それでも、手を振ることだけはできた。
船が離れていく。
港の縁とフェリーの間に、海の幅ができる。
その幅が少しずつ広がっていく。
白石の水色が、小さくなる。
麦わら帽子の色も、だんだん港の光にまぎれていく。
夕焼け箱の薄い黄色は、もうほとんど見えない。
それでも、僕は目を離さなかった。
昨日までなら、ここで何かを言葉にしたかもしれない。
寂しいとか。
行かないでほしいとか。
終わってしまうとか。
でも、今日は違った。
白石は行く。
僕は残る。
金曜日は来る。
だから、僕も行く。
いつ、とはまだ言わない。
どの船で、どの時間に、とも言わない。
それは封筒を開ける日まで、まだ僕の中に置いておく。
フェリーが港の外へ向かう。
白石の姿は、人影の中に混ざっていく。
それでも、最後まで手を振っているのが分かった。
僕も、手を下ろせなかった。
やがて、白い船体が少しずつ遠くなり、港の音が戻ってきた。
荷物を転がす音。
アナウンス。
海鳥の声。
近くで子どもが「船、行っちゃった」と言う声。
僕はようやく手を下ろした。
鞄の中には、《金曜日に開ける》封筒がある。
ポケットの中には、小さく折った時刻表がある。
手のひらには、さっきまで白石の指があった場所が、まだ少しだけ残っている。
船はもう見えない。
それでも、入道雲だけは海の向こうに残っていた。
僕は鞄の上から、封筒の位置を確かめた。
まだ開けない。
今日は、その日じゃない。
ポケットの中の時刻表は、何度も見たせいで折り目が柔らかくなっている。
恋の始まりは、彼女が僕のプリンを食べたことだった。
なら、次の金曜日に何を返すのかくらい、もう分かっている。
金曜日まで、あと五日。
僕は時刻表を出さないまま、港を出た。




