エピローグ
スマホが震えたのは、島で迎える最初の金曜日の朝だった。
窓の外では、洗濯物が風に揺れている。
前の町よりも空が広い。
海が近い。
潮の匂いも、蝉の声も、まだ知らない道の白さも、何もかもが夏だった。
私は布団の上に座ったまま、スマホを手に取った。
高瀬くんからだった。
写真が一枚。
淡い黄色の封筒。
私が出発前に預けた、《金曜日に開ける》の封筒だった。
その下に、短いメッセージが二つ。
『開けた』
『今日、金曜日』
私は、しばらく画面を見つめていた。
約束どおりだった。
高瀬くんは、ちゃんと覚えていた。
ちゃんと、金曜日に封筒を開けてくれた。
それだけで、胸の奥が細く鳴った。
続けて、もう一枚届く。
封筒の中身だった。
私が、未来の自分へ書いた手紙。
自分で書いたはずなのに、画面の中にあると、少し知らない人の文字みたいに見えた。
未来の私へ。
金曜日は、怖い日じゃありません。
会えない日でも、なくなった日ではありません。
ちゃんと朝ごはんを食べてください。
お母さんに夕焼けを見せてください。
しわしわ夕焼けも、ちゃんと箱から出してください。
高瀬くんは、たぶん来ます。
たぶん禁止。
来ます。
私は、最後の二行で指を止めた。
未来の私。
強気すぎる。
たぶん禁止、って自分で書いているのもずるい。
でも。
私は、返信できなかった。
来てほしいとは思っていた。
でも、本当に来るとは思っていなかった。
だって、普通は来ない。
フェリーで二時間。
電車もある。
お金もかかる。
夏休み最初の金曜日なら、近くの友達と遊ぶ方が自然だ。
家でだらだらする方が、たぶん楽だ。
離れたら、少しずつ連絡は薄くなる。
誰かが悪いわけじゃない。
高校生の毎日は、近くにあるものから順番に大事にしていくようにできている。
だから、高瀬くんが来ないことの方が、普通だった。
私はスマホを伏せた。
返したら、期待してしまう気がした。
期待して、来なかった時に、金曜日が少し嫌いになりそうだった。
机の上には、持ってきた夕焼け箱がある。
薄い黄色の紙が内側に敷かれた、小さな箱。
私はそのふたを開けた。
中から、しわしわ夕焼けを取り出す。
高瀬くんが作った、ちゃんとしていない夕焼け。
セロファンは曲がっているし、テープの端も少し浮いている。
容器の底の透明な部分には、もう前の町の光なんて残っていない。
それでも、島の窓から入る朝の光を受けると、ちゃんと夕焼けみたいに見えた。
朝なのに。
夕焼けみたいに。
「高瀬くん」
小さく呼んでみる。
返事はない。
当たり前だ。
私は少し笑って、そのあと、少しだけ泣きそうになった。
お母さんは、窓際の椅子に座っていた。
今日は調子がいい。
島に来てから、前より長く起きていられる日が増えた。
それが島の空気のおかげなのか、引っ越しが終わって気が抜けたからなのか、私はまだ決められない。
でも、お母さんが窓の外を見ている時間が長くなったのは、本当だった。
「ひなた」
「なに?」
「金曜日ね」
私はスマホを伏せたまま、机の上のしわしわ夕焼けを見た。
「そうだね」
「怖い?」
少し考える。
スマホに手を伸ばしかけて、やめた。
「ちょっと」
「そう」
「でも、大丈夫って言うには、まだ早い」
お母さんは、ふっと笑った。
「じゃあ、夕方まで保留」
「母法?」
「そう」
「増えた」
お母さんは窓の方へ視線を戻した。
海からの風がカーテンを揺らす。
前の病室の白い壁とは違う。
ここには、窓の外に本物の海がある。
本物の空がある。
それなのに私は、机の上のしわしわ夕焼けを見ていた。
ちゃんとしていない光。
前の町から持ってきた、下手な夕方。
私はスマホをもう一度見た。
高瀬くんからの追加のメッセージはない。
封筒の写真。
手紙の写真。
それだけ。
それだけなのに、金曜日の朝は、もう少しだけ金曜日になっていた。
昼になっても、返信はできなかった。
お母さんと簡単な昼ごはんを食べて、段ボールから出しきれていない本を少し片付けた。
島のスーパーで買った麦茶は、前の町のものと同じ味がした。
当たり前なのに、少し変だった。
午後、近所のおばあさんが挨拶に来た。
野菜をくれた。
お母さんは笑って、私は玄関で頭を下げた。
新しい生活、という言葉が、靴箱の上に置かれたまま、まだ私のものにならない。
夕方が近づくと、窓の外の光が変わった。
島の夕焼けは、前の町より早く海に届く。
白い壁がオレンジに染まり、机の上のしわしわ夕焼けの容器にも、同じ色が薄く重なった。
私はスマホを手に取った。
返信しようと思った。
でも、画面を開いたところで指が止まる。
何を書けばいいのか分からない。
『ありがとう』
違う。
『開けてくれてよかった』
それも違う。
『来ます、って書いたけど、無理しなくていいです』
そんなことを送ったら、未来の私に怒られそうだった。
外から、船の汽笛が聞こえた。
その時、スマホが震えた。
高瀬くんからだった。
今度は、写真ではない。
一言だけ。
『港』
私は画面を見つめた。
息の仕方を、少しだけ忘れた。
「ひなた?」
お母さんの声がした。
椅子が床をこすって鳴る。
私は、スマホを握ったまま立ち上がっていた。
「行ってきます」
お母さんは、驚かなかった。
ただ、目元を少しやわらかくした。
「行ってらっしゃい」
私は玄関へ走った。
サンダルを履く。
片方のかかとが少し引っかかって、もどかしい。
ドアを開けると、島の夕方の風が入ってきた。
坂道を下る。
髪がほどける。
白い壁と細い道が、夕方の光でオレンジ色に染まっている。
海が見える。
港が見える。
さっき汽笛を鳴らした船が、まだ桟橋の近くにいる。
走っているうちに、息が切れた。
足も少し痛い。
それでも止まれなかった。
港の前に、人影があった。
白いTシャツ。
薄い紺のシャツ。
少し困ったみたいな立ち方。
髪が少し乱れていて、シャツの襟元に汗の跡がある。
手には、《ミモザ》の紙袋。
角が少しだけ折れていた。
高瀬くんだった。
私は足を止めた。
走ってきたせいで息が切れている。
でも、苦しいのはそれだけじゃなかった。
高瀬くんが、私に気づく。
少しだけ息を吸う。
それから、名前を呼んだ。
「ひなた」
画面越しじゃない。
文字でもない。
港の風の中で、ちゃんと声だった。
その瞬間、涙が落ちた。
離れたら、少しずつ薄くなると思っていた。
金曜日は、思い出になっていくと思っていた。
前の町のものは、少しずつ箱の中へしまわれていくのだと思っていた。
でも、高瀬くんは来た。
海を渡って。
夕焼けが始まる時間に。
《ミモザ》の紙袋を持って。
「高瀬くん」
「うん」
「彼氏くん」
「そうだよ」
「本当に?」
「本当に」
「たぶんじゃなくて?」
高瀬くんは、少し息を整えてから言った。
「たぶん禁止だろ」
私は泣きながら笑った。
うまく笑えたかどうかは分からない。
でも、高瀬くんの顔を見たら、ちゃんと笑いたくなった。
「遅刻」
「少しな」
「金曜日係なのに」
「フェリーが強敵だった」
「言い訳?」
「報告」
「じゃあ、許します」
「助かる」
高瀬くんは紙袋を少し持ち上げた。
見慣れた《ミモザ》のロゴが、夕方の風で小さく揺れていた。
あの日、私が勝手に始めてしまった金曜日が、海を越えてここに来ていた。
胸の奥が痛くなる。
でも、今度は怖くなかった。
「二つ?」
私が聞くと、高瀬くんは紙袋の口を少しだけ開けて見せた。
「二つ」
「考えたのに?」
「考えた結果」
「重かった?」
「かなり」
「なのに?」
「一つだと、違う気がした」
紙袋の中で、透明な容器が小さく触れ合った。
その音で、また涙が出そうになった。
高瀬くんは少し照れたように目を逸らした。
それから、私の名前をもう一度呼んだ。
「ひなた」
「なに?」
夕焼けが、海の向こうでゆっくり濃くなっていく。
前の町の夕焼けとは違う。
病室の白い壁に作った夕焼けとも違う。
でも、ちゃんと続いている色だった。
高瀬くんは、《ミモザ》の紙袋を差し出して言った。
「夕焼けプリン、食べよう」




