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第十六話

病室のテーブルは、思っていたより狭かった。

白石は紙袋を抱えたまま、その前でしばらく立っていた。

中には、終業式の写真と、夕焼けプリンの容器と、何日分かの小さな証拠が入っている。

全部を並べるには、たぶん少し足りない。

それでも白石は、袋の持ち手を握り直して言った。

「行ってきました展、開催です」

ベッドの上で、美和子さんが目を細めた。

「会長、聞いてないわ」

「本日、緊急開催です」

「じゃあ、見ないわけにはいかないね」

金曜日の夕方だった。

終業式のあと、制服のまま夕焼けプリンを食べて、河川敷で使い残しの花火に一本だけ火をつけた。

それから病院へ来たせいで、白石の制服にはまだ外の空気が残っていた。

病室の窓際には、前に作ったしわしわ夕焼けが残っている。

セロファンの端は少し浮いて、テープの角も一箇所だけめくれていた。

完璧ではない。

だから、すぐに分かる。

あれは僕が作ったものだ。

白石はまず、そのしわしわ夕焼けの端を指で押さえた。

「初期作品」

「言い方」

僕が小さく返すと、白石は振り返らずに言った。

「高瀬くん作です」

美和子さんが僕を見る。

「これ、まだ好きよ」

「出来は悪いです」

「出来が悪いから、ひなたが毎日確認するの」

白石が咳払いをした。

「次です」

紙袋の中に指を入れ、少し迷ってから、白石は透明な容器を取り出した。

海へ行った日のものだ。

底に海の光はもう残っていない。

でも、白石はそれを両手で持って、美和子さんに見せた。

「海へ行ってきました容器」

「名前がそのままね」

「そのままがいい日でした」

「そう」

美和子さんは容器を見たあと、白石の顔を見た。

「海、どうだった?」

「帰りたくなくなりました」

美和子さんは、すぐには返事をしなかった。

それから、ゆっくり頷く。

「それは、いい海だったね」

白石は容器をテーブルに置いた。

置く手だけが、少し丁寧になった。

次に出てきたのは、薄くなりかけたレシートだった。

白石はそれを指で伸ばし、テーブルの端に置く。

「微妙な色の飲み物を作りました」

「陽斗くんも飲んだの?」

「飲まされました」

「被害者です」

「共同責任です」

美和子さんは笑った。

笑ってから、軽く咳をした。

白石の手が動きかける。

けれど、美和子さんは先に手を上げた。

「大丈夫。今のは、本当に大丈夫」

白石の手が止まる。

僕も動かなかった。

その言葉だけが、病室の中で少し長く残った。

白石は封筒から小さな写真を一枚出した。

顔は写っていない。

本屋の入口と、重なった手だけが写っている。

「日曜日」

美和子さんは写真を受け取り、少し近づけて見た。

「顔は?」

「終業式にとっておきました」

「そう」

美和子さんは写真の中の手を見て、口元を柔らかくした。

「ちゃんと、手をつないでる」

「審査通過済みだったので」

「審査、厳しそう」

「かなり」

白石の声には、少し照れが混じっていた。

僕は窓際のしわしわ夕焼けを見ていた。

見ていないふりをする場所が、それくらいしかなかった。

そして、終業式の写真。

白石はその一枚を持ったまま、すぐには渡さなかった。

僕も、横から見た。

黒板の端に小さく残った文字。

少し前に出された白石の机。

その横に立つ白石。

白石の隣にいる僕。

宮野が笑っていて、誰かが半目で、後ろの男子が変な顔をしている。

ちゃんと整っていない。

だから、ちゃんと教室だった。

白石は写真を美和子さんへ渡した。

美和子さんはそれを受け取ったあと、何も言わなかった。

写真の中の白石を見ている。

それから、隣にいる僕を見た。

もう一度、白石を見た。

「ひなた」

「はい」

「笑ってるね」

白石は紙袋の持ち手を握った。

「笑いました」

「笑わされたんじゃなくて?」

白石は目を伏せた。

「自分で笑いました」

美和子さんは頷いた。

写真を持つ指に、静かな力が入る。

「そっか」

それだけだった。

でも、その「そっか」で、白石の肩から何かが落ちた気がした。

美和子さんは写真をテーブルに置かず、膝の上にしばらく置いていた。

すぐに展示品にしてしまうのが、もったいないみたいに。

「陽斗くんも、写ってる」

急に名前を呼ばれて、僕は背筋を伸ばした。

「はい」

「ひなたが連れて行ってもらっただけじゃないのね」

「え?」

美和子さんは写真の中の僕を指で示した。

「陽斗くんも、ひなたに連れて行ってもらった顔をしてる」

僕は写真を見た。

自分では、固い顔をしているだけにしか見えない。

けれど、美和子さんは違うものを見ているらしかった。

「前に来てくれた時より、教室にいる顔をしてる」

白石がこちらを見た。

僕は何も返せなかった。

写真の中の僕は、たしかに白石の隣にいた。

誰かのついでではなく、見送り役としてでもなく、ただクラスの一人みたいな顔で。

白石は終業式の写真を見ながら言った。

「……あのリスト、私だけのじゃなかったよ」

「普通の高校生っぽいことリスト?」

白石は頷いた。

「高瀬くんにも、放課後が必要だったでしょ」

その言葉は、病室の白い壁に当たって、静かに落ちた。

僕はすぐに否定できなかった。

否定したら、写真の中の自分まで消してしまう気がした。

部活を辞めてから、放課後はずっと余っていた。

夕焼けプリンを買う金曜日だけが、その余りを埋めていた。

でも、いつの間にか僕は、白石の予定に巻き込まれ、海へ行き、ファミレスで宿題をして、花火に失敗して、本屋で手をつないで、終業式の写真に写っていた。

それは全部、白石のリストだった。

でも、僕の放課後でもあった。

「……そうかもしれない」

やっとそれだけ言うと、白石は写真を見たまま、小さく頷いた。

美和子さんは何も言わずに僕たちを見ていた。

最後に、白石は今日の夕焼けプリンの容器を二つ取り出した。

箱の中で並んでいたものを、終業式の写真の横にそっと置く。

窓の光が容器の底に入って、白いテーブルに淡い色を落とした。

新しく夕焼けを作ったわけではない。

セロファンも貼っていない。

それでも、そこにはほんの少しだけ夕方があった。

白石は、テーブルの上を見た。

一つ置くたびに、病室の白いテーブルが少しずつ病室ではなくなっていった。

透明な容器の底には、もう海の光なんて残っていない。

それなのに、白石がそれを置いた瞬間、病室の空気に潮の匂いが少し混ざった気がした。

薄くなりかけたレシートからは、ポテトの油と、炭酸のうまく混ざらなかった甘い匂いが戻ってくる。

本屋の前で撮った手の写真には、顔なんて写っていない。

それでも、白石が初めて普通に手をつないで歩いた日の温度が、そこに残っていた。

終業式の写真には、黒板の端の小さな文字と、少し前に出された白石の机が写っている。

半目の誰か。

変な顔をした男子。

固い顔の僕。

そして、その真ん中ではなく、自分の席の横に立つ白石。

どれも小さい。

ひとつだけなら、ただの容器で、ただの紙で、ただの写真だった。

けれど並べると、それは白石がこの町で過ごした時間になった。

新しく夕焼けを作ったわけではない。

セロファンも貼っていない。

それでも、透明な容器の底に落ちた窓の光が、白いテーブルの上でほんの少しだけ夕方みたいに見えた。

「行ってきました展」

白石は、もう一度言った。

今度は少しだけ声が小さかった。

「以上です」

美和子さんは、テーブルの上をゆっくり見た。

急がずに。

見るたびに、目元が少しずつ変わっていく。

笑っているようにも、泣くのを待っているようにも見えた。

「こんなに、たくさん」

白石は立ったまま、両手を前で重ねている。

「まだあります」

「まだ?」

「写真にしてない花火とか」

「花火もしたの?」

「途中で一回、失敗しました」

「ひなたらしい」

「高瀬くんも失敗しました」

「陽斗くんも?」

「はい」

美和子さんは僕を見る。

「二人とも、忙しかったね」

白石はそこで、唇を結んだ。

「忙しかったです」

その声が、途中で細くなった。

美和子さんは写真を胸の近くに寄せる。

「ごめんね」

白石の顔が上がった。

「何が?」

「こんなにたくさん、持って帰らせることになって」

病室の空気が静かになった。

僕は動かなかった。

これは、僕が何かを言う場面ではなかった。

白石は首を横に振った。

「違う」

美和子さんは、すぐに頷いた。

「違うね」

白石の目元が崩れた。

さっきまで教室で自分で笑った顔をしていたのに、今は娘の顔だった。

「私が、持って帰りたかったの」

美和子さんは、白石の手を握った。

「お母さんに見せたかったの」

その手に、力がこもる。

「私、ちゃんと学校にいました」

美和子さんの指が、写真の端を押さえる。

「見れば分かるよ」

「ちゃんと、普通でした」

白石の声がそこで止まった。

美和子さんは何も急がせない。

ただ、白石を見る。

「普通じゃないことも、たくさんあったけど」

白石は息を整えようとして、少し失敗した。

「でも、ちゃんと、普通でした」

二回目は、泣き声に近かった。

白石は母の前で泣いた。

大きな声ではなかった。

膝から崩れるような泣き方でもなかった。

ただ、まばたきが追いつかなくなって、頬を伝った涙が制服の襟元へ落ちた。

美和子さんは手を伸ばした。

白石が近づく。

僕は一歩だけ下がった。

白石はベッドの横に膝をつき、美和子さんの手を握った。

「ひなた」

「うん」

「あなたは、私の自慢の娘よ」

その言葉を聞いた瞬間、白石の肩が一度だけ震えた。

「私に夕焼けを見せようとしてくれたことも」

白石は母の手を握り返した。

「自分の金曜日を、ちゃんと過ごしてきたことも」

美和子さんの指が、白石の髪をゆっくり撫でる。

「ぜんぶ、自慢」

白石は返事をしなかった。

できなかったのだと思う。

美和子さんは白石の髪を撫で続けた。

前に病室で見た手つきより、少しだけゆっくりだった。

白石は顔を伏せたまま、母の手を両手で握っている。

僕は窓際に立っていた。

しわしわ夕焼けのテープの端が、空調の風でほんの少し浮く。

テーブルの上では、透明な容器が薄い光を受けていた。

ここにいていいのか、分からなかった。

でも、白石は泣きながら、空いている手を少しだけ後ろへ伸ばした。

僕の方へ。

呼ばれたわけではない。

でも、離れないでと言われた気がした。

僕はその手を取らなかった。

取ったら、親子の時間に入りすぎる気がした。

代わりに、その場から動かなかった。

白石の手は届かない位置で止まり、やがて静かに下りた。

それでも、彼女はそれでよかったみたいに、もう一度母の手を握った。

夕方の光が少しずつ病室の床へ伸びていく。

行ってきました展は、しばらくそのままにされた。

看護師さんが一度のぞいて、「すてきですね」と言って、何も触れずに出ていった。

美和子さんは終業式の写真を、最後まで膝の上から離さなかった。

帰る時、白石は写真とレシートと容器を一つずつ紙袋へ戻した。

しわしわ夕焼けだけは、壁に残した。

「これは?」

僕が聞くと、白石は壁を見た。

「今日は、ここ」

「持っていかないのか」

「明日、選考会議です」

「また会議か」

「重要案件なので」

美和子さんが笑った。

「会長も出席?」

「もちろん」

「じゃあ、体調を整えておかないと」

白石は目を赤くしたまま、頷いた。

「お願いします」

病室を出る前、美和子さんは僕を呼んだ。

「陽斗くん」

「はい」

「ひなたと行ってきてくれて、ありがとう」

「僕が連れて行ったというか」

言いかけたところで、美和子さんは首を横に振った。

「二人で行ったんだよね」

僕は少し黙ってから、頷いた。

「はい」

「なら、よかった」

その言葉を持って、僕たちは病室を出た。

病院の廊下は、夕方になっても白かった。

靴音が少し響く。

白石は紙袋を抱えて歩いている。

中の容器は、さっきより静かだった。

玄関を出ると、夏の空気がすぐにまとわりついてきた。

白石は立ち止まり、深く息を吸った。

「泣きました」

「見た」

「報告しなくてもよかったですか」

「でも、報告された」

「母の前なので」

僕は頷いた。

白石は紙袋の持ち手を握り直した。

「高瀬くんの前では、また別日にします」

「予約制なのか」

「未定です」

僕はそれ以上聞かなかった。

バス停へ向かう道で、白石はふいに言った。

「あのリスト」

「リスト?」

「本当に、私だけのじゃなかったよ」

「さっきも聞いた」

「大事なので二回言いました」

白石は前を向いたまま歩いている。

「高瀬くん、帰り道が上手になりました」

「何だそれ」

「放課後の使い方」

返事に迷った。

迷っているうちに、白石はバス停のベンチに紙袋を置いた。

「前は、金曜日だけだったでしょ」

僕は、バス停の時刻表を見た。

数字が並んでいる。

来るバス、来ないバス。

通り過ぎる車。

病院の前の花壇。

そのどれもが、夕方の中で細かく見えた。

「白石が増やしたんだろ」

「共同事業です」

「便利な言葉だな」

「便利です」

白石はそう言って、紙袋の口を閉じた。

「でも、最初に増やそうって言ったのは、高瀬くんです」

僕は何も返さなかった。

バスが来るまで、二人で黙っていた。

沈黙は気まずくなかった。

さっき病室に置いてきた涙のあとが、まだ僕たちの間に残っていた。

それを急いで拭かなくてもいい気がした。

土曜日の午後、白石の部屋には段ボール箱がいくつも並んでいた。

明日の朝には、この部屋のものがいくつか運び出される。

そして、その中に白石の生活も混ざっていく。

夏の光がカーテン越しに入っている。

床の上には、教科書、服、ノート、文具が種類ごとに置かれていた。

きれいに分けられているようで、ところどころ迷いが残っている。

持っていくもの。

置いていくもの。

あとで決めるもの。

その「あとで」が、一番大きな山になっていた。

「荷造り、難易度高いな」

僕が言うと、白石は段ボールの前で腕を組んだ。

「人生の圧縮作業です」

「重い」

「段ボールは軽そうな顔をして、要求が多いです」

「顔はないだろ」

「あります。口を開けて待っています」

確かに、開いた段ボール箱はどれも何かを待っているみたいだった。

白石は机の上から、透明な容器を一つ取る。

それから、もう一つ。

写真はまとめて置かず、封筒に入れたまま机の端へ寄せた。

ただ並べたいのではなく、順番を決めているのだと思った。

「夕焼けオーディションを始めます」

「急に始まった」

「島へ行ける容器には限りがあります」

「全部は無理か」

「全部持っていくと、引っ越しではなく移設になります」

「博物館か」

「行ってきました展、常設館」

白石はそう言ったあと、黙った。

笑いにしきれなかった言葉が、机の上に残る。

僕は椅子に座らず、机の横に立っていた。

触っていいものと、触らない方がいいものの境目を、まだ探している。

白石はそれに気づいたのか、しわしわ夕焼けを僕の方へ差し出した。

「これは、審査員確認可」

「確認って何を」

「しわしわ具合」

僕は受け取った。

セロファンの端が少し浮いている。

テープは相変わらず不格好で、容器の底には歪んだ光の跡みたいなものが残っている。

最初に見た時より、さらに下手に見えた。

でも、それが少し嬉しかった。

「やっぱり出来が悪いな」

「はい」

「即答か」

「そこが良いので」

白石は机の上の容器たちを見た。

「これ、持っていく」

「一番出来が悪いやつだろ」

「予定どおりじゃないから」

「理由になってない」

「なってます」

白石はしわしわ夕焼けを、持っていく箱の方へ置いた。

「高瀬くんがいたって分かる」

僕はその容器を見た。

うまくできた夕焼けではない。

でも、僕がいた証にはなるらしい。

それなら、出来が悪いことにも意味があるのかもしれなかった。

「候補、多いな」

「選考が荒れています」

白石は真剣な顔で容器を見比べる。

迷っている。

けれど、悲しそうではなかった。

持っていけないものがあることを、ちゃんと分かったうえで迷っている顔だった。

全部なくなるわけではない。

でも、全部を同じ場所へ連れて行けるわけでもない。

その当たり前が、部屋の中に段ボールの形で積まれていた。

白石は最終的に、三つの容器を選んだ。

ひとつは、出来の悪いしわしわ夕焼け。

ひとつは、海のあとにずっと袋の中で鳴っていた透明な器。

もうひとつは、昨日の終業式のあとに残ったもの。

そこへ写真を数枚、封筒ごと重ねる。

白石は小さな箱にそれらを入れ、ふたを閉めずに眺めた。

「夕焼け箱」

「そのままだな」

「そのままでいいです」

箱の内側には、薄い黄色の紙が敷かれていた。

《ミモザ》の箱を切ったものだった。

端に店のロゴが少しだけ残っている。

白石はそれを指で押さえた。

「前の町の金曜日が、島へ行きます」

その言葉で、部屋の中の空気が少し変わった。

島。

そこへ行くことは、もう予定ではなかった。

荷物になっていた。

段ボールになっていた。

箱の中に収まるものと、収まらないものに分けられていた。

僕は窓の外を見た。

白石の部屋からは、学校は見えない。

《ミモザ》も、海へ向かう電車も、病院の白い壁も見えない。

それでも机の上には、全部の気配が残っていた。

白石は引き出しから封筒を一枚取り出した。

淡い黄色ではなく、白い封筒だった。

無地。

何も書かれていない。

「それは?」

「宿題です」

「僕の?」

「高瀬くんの」

「また増えた」

「夏休みなので」

白石はペンを持った。

封筒の表に、ゆっくり文字を書き始める。

僕は見ないようにしようと思った。

でも、書かれていく文字は自然に目に入った。

《金曜日に開ける》

それは予定ではなく、約束みたいな字だった。

白石はインクが乾くまで、封筒を机の上に置いた。

指でこすらないように、少し離して眺めている。

「中身は?」

「開ける日まで非公開です」

「今日じゃだめなのか」

「今日だと意味が変わります」

「いつの金曜日?」

白石は少し考えた。

「高瀬くんが、一人で《ミモザ》に行く金曜日」

その言葉を聞いた時、部屋の音が少し遠くなった。

一人で。

《ミモザ》に行く。

金曜日。

白石は何でもない言い方をした。

けれど、その何でもなさが、僕の中で急に形を持った。

列に並ぶ。

前の人が一つ買う。

店の扉が開いて、冷房と甘い匂いが流れる。

おばあさんに「夕焼けプリンを二つ」と言う。

いや、言えるのか。

二つ買うのか。

一つなのか。

隣で「二つ」と先に言う声はない。

紙袋を持って駅へ向かっても、袖をつまむ指はない。

教室の隣の席に、シャープペンの芯を折る音もない。

金曜日は、ちゃんと来る。

白石がいなくても、来る。

それが急に分かった。

分かっていたはずなのに、今まで分かっていなかった。

僕は封筒を見ていた。

白い封筒。

黒い文字。

《金曜日に開ける》

紙一枚か、二枚か。

たぶん、そのくらいしか入っていない。

なのに、指先が動かなかった。

白石が僕の顔を見た。

名前を呼ばれた気がした。

返事をしようとした。

喉が動かない。

封筒の端に、何かが落ちた。

雨ではなかった。

白石が目を見開く。

僕は慌てて拭こうとして、うまくできなかった。

一度落ちたら、もう止まらなかった。

「……ごめん」

それだけ言うのがやっとだった。

白石は何も言わなかった。

笑わなかった。

からかわなかった。

ただ、机の上の封筒を取って、僕の手へそっと戻した。

封筒を取り上げるのではなく、封筒ごと僕の手を包むように。

「泣くの、遅いです」

その声は、責めていなかった。

少しだけ震えていた。

「今まで、ずっと我慢してたんですか」

僕は首を振ろうとした。

でも、違った。

我慢していたんじゃない。

分かっていなかっただけだった。

白石がいなくなるということを。

金曜日が、また空くということを。

明日になれば、白石はこの町を出る。

今度の空白には、最初から白石の形があるということを。

涙は封筒に落ちそうで、僕は慌てて手を引いた。

白石はその手を逃がさなかった。

「大丈夫って、言わなくていいです」

白石は小さく言った。

「私も、言わないので」

その言葉で、さらに駄目になった。

僕は顔を伏せた。

制服でもない。

教室でもない。

病室でもない。

白石の部屋の、段ボールの前で。

夕焼け箱と、開けてはいけない封筒の前で。

僕はようやく泣いていた。

白石は隣に立っていた。

何かを整えようとはしなかった。

泣き止ませようともしなかった。

ただ、封筒を持つ僕の手の上に、自分の手を重ねていた。

窓の外で、夕方前の光が傾く。

机の上の夕焼け箱には、しわしわの容器が入っている。

予定どおりじゃなかったもの。

でも、白石が持っていくと決めたもの。

僕は封筒を濡らさないように、両手で持ち直した。

白石の手が、その上に残った。

《金曜日に開ける》

その文字は、まだ乾いたままだった。

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