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第十五話

金曜日の朝、教室の黒板には、まだ小さく《今日、写真》と残っていた。

昨日、宮野が書いた文字だ。

誰かが消し忘れたのか、消さなかったのかは分からない。

でも、その白いチョークの跡は、朝の教室の中で妙に目立っていた。

終業式の日の教室は、いつもの朝より荷物が少ない。

ロッカーの中身を持ち帰った生徒が多くて、机の横にかかった鞄も、どこか薄く見える。

その代わり、声だけは多かった。

夏休みの予定。

部活の集合時間。

通知表への文句。

宿題の量への絶望。

まだ始まっていない夏が、教室の中で先に騒いでいるみたいだった。

僕は自分の席に鞄を置いた。

隣の席には、白石がいた。

制服の襟元を、指で一度だけ整えている。

机の上には、筆箱と、折りたたまれた終業式の日程プリント。

それから、昨日と同じ薄い黄色の紙袋。

白石は黒板を見て、少しだけ目を細めた。

「今日、写真ですね」

「そうだな」

「予定の見える化です」

「宮野らしいな」

「はい」

白石はそう言って、いつものように口元だけで笑った。

笑った。

けれど、それだけで安心しない。

昨日、白石は言った。

笑うかどうかは、自分で決めたい、と。

だから僕は、今の笑顔が本物かどうかを測ろうとしなかった。

測った瞬間に、また間違える気がした。

「今日は聞かないんですね」

白石が言った。

「笑えるかどうか?」

「はい」

僕は鞄の口を閉じた。

「聞いたら、予定になるだろ」

白石は一瞬だけ黙った。

それから、黒板の《今日、写真》を見て、息を吐いた。

「……その判断は、たぶん正しいです」

たぶん禁止。

そう返そうとして、やめた。

今日は、その言葉で逃がさない方がいい気がした。

チャイムが鳴った。

教室の声が、少しずつ席へ戻っていく。

宮野が黒板の前を通りかかり、《今日、写真》の文字を見上げた。

消すかどうか迷ったようにチョーク受けへ手を伸ばし、それからやめる。

白石がそれを見ていた。

宮野は振り返り、少しだけ肩をすくめる。

「消さないでおくね」

「はい」

「プレッシャー?」

「見えている方が、いいです」

「そっか」

宮野は笑って、自分の席へ戻っていった。

その笑い方は、月曜日のものより少し自然だった。

一時間目の授業は、半分くらい終業式の前振りみたいなものだった。

先生もどこか急いでいて、黒板に書く文字がいつもより大きい。

誰かが欠伸をして、後ろの席から小さな笑いが起きる。

窓の外では、グラウンドの白線が夏の日差しで薄く光っていた。

僕はノートを開いたまま、ほとんど何も書かなかった。

白石は真面目に板書を写している。

けれど、途中でシャープペンの先を止め、黒板の端を見た。

《今日、写真》

その文字は、授業の内容よりも、ずっと今日を説明していた。

二時間目の大掃除では、教室が急に現実的になった。

机を後ろへ寄せる音。

椅子を積む音。

雑巾をしぼる音。

窓を開けると、七月の熱い空気が一気に入ってきた。

白石は黒板消し係になっていた。

黒板消しを両手で持ち、窓際でぱんぱんとはたいている。

白い粉が、光の中で細かく散る。

「白石さん、粉すごい」

宮野が言う。

「今日の私、チョーク属性です」

「属性増えた」

「終業式限定」

「限定品か」

「限定には弱いでしょう」

白石がちらりと僕を見る。

僕は雑巾を持ったまま、視線をそらした。

「何でこっちを見る」

「夕焼けプリン係なので」

「係が増えすぎだ」

「金曜日なので仕方ありません」

宮野が黒板の前に立ち、チョークで小さく丸を描いた。

「ここ、写真用に何か書く?」

「派手なのはやめてください」

白石がすぐに言う。

「じゃあ、地味に?」

「地味も方向性によります」

宮野は少し考えてから、黒板の右下に小さく書いた。

《在席》

白石が黒板消しを持ったまま、目を細める。

「それ、何ですか」

「白石さんが昨日言ってたやつ。白石ひなた在席記録」

「略しすぎです」

「長いと先生に消されそうだから」

「現実的」

「でしょ」

白石は黒板の文字をしばらく見ていた。

消すとは言わなかった。

代わりに、黒板消しをチョーク受けに置く。

「採用は、あとで判断します」

「まだ当日制?」

「はい」

宮野は笑った。

僕も少しだけ笑った。

その文字は黒板の隅に小さく残った。

派手な寄せ書きではない。

送別会の飾りでもない。

ただ、そこにいたという印みたいな言葉だった。

三時間目、体育館は暑かった。

並んだ椅子。

ざわめく生徒。

壇上の校長先生。

壁際に置かれた大型扇風機が、低い音を立てている。

終業式は、どこの学校でもたぶん似たようなものなのだと思う。

夏休みの過ごし方。

事故に気をつけること。

生活リズムを崩さないこと。

進路について考えること。

先生たちの言葉は、体育館の天井に当たって少し遅れて落ちてくる。

僕は自分のクラスの列から、少し前にいる白石の背中を見ていた。

白石はまっすぐ座っている。

制服の背中。

肩のライン。

結んだ髪の先。

何も特別な姿ではない。

ただの高校生だった。

だからこそ、目が離せなかった。

隣の男子が小さく欠伸をした。

誰かの椅子が軋んだ。

扇風機の風が、時々だけ届く。

白石は一度だけ、膝の上で手を握り直した。

それだけだった。

その手を握ってやることはできない。

声をかけることもできない。

でも、その背中がこの体育館にあることだけは、僕が覚えておきたかった。

白石ひなたは、今日もちゃんとここにいる。

誰かに連れてこられたわけじゃない。

病気のお母さんのためだけでも、別れの準備のためだけでもない。

終業式の日に、制服を着て、暑い体育館で校長先生の話を聞いている。

その当たり前みたいな姿が、胸の奥にゆっくり沈んでいった。

終業式が終わり、教室へ戻ると、空気は少し軽くなっていた。

通知表を受け取った者から順に、笑ったり、沈んだり、机に突っ伏したりしている。

先生は連絡事項を読み上げたあと、教卓の端に手を置いた。

「白石」

呼ばれて、教室の音が少し落ちた。

白石は立ち上がる。

「短い間だったけど、よく頑張ったな。向こうでも、体に気をつけて」

先生の言葉は、たぶん悪くない。

悪くないから、教室は静かになった。

白石は一度だけ頭を下げる。

「ありがとうございます」

それ以上、何も言わなかった。

先生も、それ以上を求めなかった。

その沈黙が、少しだけありがたかった。

ホームルームが終わると、誰かが椅子を動かした。

それを合図にしたみたいに、教室の空気が戻る。

「写真、撮ろう」

宮野が言った。

声は明るかった。

でも、明るすぎなかった。

「黒板、どうする?」

「机、寄せる?」

「誰が撮る?」

「先生に頼む?」

ばらばらに声が飛ぶ。

白石は自分の席の横に立っていた。

宮野がスマホを持ち、黒板の前に移動する。

そこには、さっきの小さな白い文字がまだ残っている。

「白石さん、どこ立つ?」

宮野が聞いた。

白石は少しだけ教室を見回した。

黒板の前。

窓際。

教卓の横。

何人かが、自然と中央を空けようとしている。

白石はそれを見て、自分の机に手を置いた。

「ここ」

宮野がまばたきをする。

「席のところ?」

「はい」

「真ん中じゃなくていいの?」

「ここが私の席なので」

白石はそう言った。

教室の中に、短い沈黙が落ちる。

でも、それは困った沈黙ではなかった。

誰かが「じゃあ、その机だけ少し黒板寄りにしよう」と言った。

別の誰かが椅子を持ち上げる。

窓際にあった白石の机が、床をこすらないように少しだけ前へ運ばれた。

黒板の端の《在席》が、ちょうど後ろに入る位置だった。

白石は自分の机の横に立った。

僕は少し離れたところに立っていた。

入るつもりはあった。

でも、白石の隣を当然みたいに取るのは違う気がした。

宮野がそれに気づき、僕を指さした。

「高瀬くん、そこ」

「どこ」

「白石さんの隣」

「いや、そこは」

「写真に写る権利があります」

白石が言った。

僕は白石を見る。

白石はまっすぐこっちを見ていた。

「この町の高校生なので」

「急に何を」

「事実確認です」

宮野が笑う。

「はい、事実確認の人、早く」

周りからも「早く早く」と声が飛ぶ。

僕は言い返す場所をなくして、白石の隣へ行った。

近すぎない位置。

でも、写真に入れば隣だと分かる距離。

白石はそれを見て、ほんの少しだけ肩を寄せた。

「近い」

僕が言うと、白石は前を向いたまま答える。

「宮野さんの配置です」

「宮野が並べたんだろ」

「彼氏くん、照れない」

「無理言うな」

宮野がスマホを構える。

「はい、一枚目。普通に」

普通に。

その言葉で、白石の指がスカートの脇で一度だけ動いた。

僕はそれを見た。

手を伸ばすことはしなかった。

代わりに、前を向く。

宮野のスマホの画面が、教室の全員を小さく映している。

少しだけ前へ出された白石の机。

黒板の隅に残った白い文字。

半分だけ開いたカーテン。

そして、その机の横に立つ白石。

「撮るよ」

宮野が言った。

三秒。

二秒。

一秒。

シャッター音が鳴った瞬間、誰かが変な顔をした。

すぐに教室が笑いで割れる。

「誰、今の」

「絶対見切れた」

「もう一枚」

「半目だった」

宮野が画面を確認して、肩を揺らしている。

「白石さん、見て」

白石はスマホを覗き込んだ。

画面の中で、誰かが本当に半目になっていた。

黒板の端も少し切れている。

僕は固い顔をしている。

白石はそれを見て、口元を押さえた。

こらえた。

でも、こらえきれなかった。

笑った。

誰かに促されたからではない。

場を整えられたからでもない。

写真の中の、少し間抜けな僕たちを見て、自分で笑った。

その瞬間、黒板の端に残った小さな白い文字が、少しだけ違って見えた。

白石だけの印ではない。

そこに写っている全員の、今日ここにいたという印だった。

宮野がもう一度スマホを構える。

「二枚目いくよ」

今度は、白石は最初から少しだけ口元を上げていた。

僕はその横に立つ。

笑えたな、とは言わない。

言ったら、白石のものを僕が判定してしまう。

ただ、シャッター音が鳴るまで、隣にいた。

二枚目の写真では、白石はちゃんとカメラを見ていた。

その顔は、別れのために作った顔ではなかった。

この教室にいた白石ひなたの顔だった。

その隣に、僕もいた。

固い顔で、少し肩を寄せられて、どう見ても写真慣れしていない顔で。

でも、そこにいた。

グラウンドへ行かなくなってから、僕はずっと、この教室にも半分しかいなかった気がする。

放課後をなくして、金曜日だけを持っていた。

その金曜日に白石が来て、勝手にプリンを食べて、勝手に僕の予定を増やして、気づけば僕は、写真の中でクラスの一人みたいな顔をしていた。

白石は画面を見て、僕の方を見ないまま言った。

「ほら」

「何が」

「高瀬くんも、いました」

返事をしようとして、できなかった。

画面の中で、黒板の端に《在席》の文字が残っている。

それが白石だけのものじゃない気がして、僕はしばらくスマホから目を離せなかった。

宮野が写真を送ると言い、何人かが自分のスマホにも欲しいと言い、教室の中がまた少し騒がしくなった。

白石はその真ん中にいた。

中心に立たされたわけではなく、自分の席の横で、みんなに囲まれていた。

それがよかった。

すごく、よかった。

放課後、僕たちは《ミモザ》へ向かった。

終業式の日でも、金曜日は金曜日だった。

駅前の通りは、いつもより少し早い時間から学生で混んでいる。

夏休みが始まったばかりの声が、あちこちで跳ねていた。

白石は制服のまま、僕の隣を歩いている。

手はつないでいない。

でも、歩く速度は同じだった。

《ミモザ》の前には、小さな列ができていた。

今日も、夕焼けプリンはガラスケースの中に並んでいる。

薄いオレンジ色のジュレ。

透明な容器。

白石はそれを見て、小さく息を吸った。

「今日、金曜日だね」

「そうだな」

「学校で迎えるのは、たぶん最後の」

そこで白石は言葉を止めた。

僕は財布を出す手を少しだけ止める。

「買うよ。夕焼けプリン」

白石はこっちを見た。

目元が少しだけ揺れた。

それでも、すぐにいつもの顔に戻す。

「係っぽい」

「係だからな」

「彼氏くんも兼任です」

「忙しいな」

「金曜日なので」

列が進む。

店に入ると、冷房と甘い匂いが流れてきた。

おばあさんは僕たちの制服を見て、目を細めた。

「終業式だったの?」

「はい」

白石が答える。

「写真も撮りました」

「それはいい日ね」

おばあさんは、余計なことを聞かなかった。

ただ、箱を用意してくれる。

「夕焼けプリン、二つください」

僕が言うと、白石が隣で少しだけ頷いた。

会計を済ませ、淡い黄色の箱を受け取る。

箱の軽さはいつもと同じなのに、今日は制服の袖に触れるだけで、何かが少し違って感じた。

僕たちは学校へ戻らなかった。

駅前から少し歩いたところにある、校舎の屋根が遠くに見える小さな日陰に座った。

コンクリートの低い段差。

人通りは少ない。

でも、校舎の時計だけは見える。

白石は箱を膝の上に置き、ゆっくりふたを開けた。

「いただきます」

「いただきます」

二人でプリンを食べた。

終業式のあとに食べる夕焼けプリンは、いつもより冷たかった。

暑いからかもしれない。

制服のままだからかもしれない。

今日が、学校の金曜日としては最後だからかもしれない。

白石はスプーンを持ったまま、校舎の時計を見ていた。

いつもなら、放課後はこれからだった。

部活へ行く声がして、購買のシャッターが下りて、誰かが駅まで走っていく。

そういう時間の中に、今日は終業式のあとの空白が混ざっている。

白石は一口食べて、すぐには飲み込まなかった。

制服の袖が、箱の端に触れている。

「学校帰りの味がします」

それだけ言って、白石はもう一口食べた。

僕も食べる。

卵の味。

オレンジの香り。

底のカラメル。

何度も食べた味のはずなのに、今日は一口ごとに違う金曜日が混ざっていた。

白石は半分ほど食べたところで、スプーンを止めた。

「高瀬くん」

「ん」

「これ、たぶん忘れないです」

「プリン?」

「今日の味」

僕はプリンを見た。

薄いオレンジ色のジュレが、スプーンの先で少し崩れている。

「僕も」

「短い」

「短くしか言えなかった」

「じゃあ、受理します」

白石はそう言って、残りを食べた。

急がなかった。

僕も急がなかった。

食べ終えると、透明な容器が二つ残った。

白石はそれをすぐにしまわず、箱の中で並べた。

「今日の容器」

「名前つけるのか」

白石は少し考えた。

「今日は、まだ」

「まだ?」

「明日、お母さんに見せてから決めます」

「会長審査か」

「はい」

白石は容器のふたを重ねた。

「学校の金曜日なので」

その言葉で、僕は校舎の方を見た。

グラウンドには、もう誰もいない。

白線だけが、日差しの下に残っている。

白石も同じ方を見ていた。

「写真」

僕が言うと、白石は頷いた。

「送ってもらいました」

「見た?」

「一枚目は高瀬くんが固い」

「知ってる」

「二枚目は、少しまし」

「評価が低い」

「でも、入っていてよかったです」

白石は箱の端を指で押さえた。

「高瀬くんも、この町の高校生なので」

またその言い方だった。

僕は返事をしなかった。

代わりに、空になった容器を箱の中で少し直す。

割れないように。

傾かないように。

白石がそれを見ている。

「空き容器係」

「また増えた」

「重要職です」

「辞令が多いな」

白石は少しだけ笑って、箱の中の容器を見た。

「今日は、割れたら困るので」

そう言って立ち上がった。

僕も箱を持って立つ。

その時、鞄の底で、細いものが小さく鳴った。

使い残しの花火だった。

僕は足を止めた。

白石がこちらを見る。

「どうしたの」

僕は少しだけ考えた。

今言うべきか。

明日に回すべきか。

でも、今日しかない気がした。

終業式が終わった日。

制服写真を撮った日。

最後の学校の金曜日。

あの日のまま、鞄の底で暗い色をしていたものに、火をつけるなら。

「このあと、少しだけ寄っていいか」

「どこに」

「あの河川敷」

白石の表情が止まった。

僕は続けた。

「花火の続きを、一本だけ」

白石はすぐには答えなかった。

箱の中の空き容器を見て、それから僕の鞄を見た。

「一本だけ?」

「うん」

「全部じゃなくて?」

「全部やると、イベントになる」

白石は目を伏せた。

それから、少しだけ口元を動かした。

「普通リスト、補講ですね」

「補講か」

「単位が残っていたので」

「厳しいな」

「でも、受けます」

河川敷へ向かう途中、コンビニで水を買った。

大きいペットボトル。

それから、紙コップを二つ。

花火用の水を用意するためだ。

前みたいに、準備だけはやたら現実的だった。

白石はそれを見て、「火事防止係」と言った。

僕は否定しなかった。

河川敷は、火曜日より少しだけ静かだった。

夕方にはまだ早く、川の水面は白っぽい光を跳ね返している。

あの日と同じ場所の近くで、僕は鞄を下ろした。

花火の袋を取り出す。

使い残しの細い棒が、袋の中で同じ方向を向いている。

白石はしゃがんで、紙コップに水を入れた。

その動きは、前より落ち着いていた。

落ち着いているように見せているのかもしれない。

でも、僕はそれを確かめなかった。

袋から一本だけ選ぶ。

一番細い花火だった。

派手な色の紙も、長い説明もついていない。

持ち手が少し曲がっている。

「それ?」

白石が聞く。

「これ」

「地味」

「残ってたやつだからな」

「いいです」

白石は紙コップを僕たちの間に置いた。

僕はライターを出す。

火をつける前に、風が吹いた。

草が低く揺れる。

川の向こうで、自転車が一台通り過ぎた。

「風よけ、お願いしていいか」

僕が言うと、白石は少しだけ目を丸くした。

それから、両手を花火の先の横に添える。

「有志の壁、再任です」

「頼む」

「今回は任期短めで」

「一本だけだからな」

ライターの火を近づける。

一度目は、風で揺れた。

二度目で、紙の先が少し黒くなる。

三度目。

小さな火が花火に移った。

その瞬間、白石の手が止まった。

僕も、息を止めていた。

ただ火がついただけだ。

細い紙の先に、小さな火花が生まれただけ。

それなのに、あの日の河川敷で止まったままだった時間が、ほんの少しだけ動いた気がした。

白石は火を見ていた。

笑わない。

泣かない。

でも、火花が一つ散るたびに、指先の力が抜けていく。

前は、最後まで見られなかった。

前は、途中で水に沈めた。

前は、まだ明るいはずの空の下で、僕たちの普通だけが暗くなった。

今日は、一本だけ最後まで見る。

それだけのことを、僕たちはずいぶん遠回りして、ようやくしていた。

火は、思っていたより小さかった。

ぱち、と短い音がして、細い火花が先端から散る。

赤でも青でもない。

白っぽい火が、夕方前の空気の中で小さくはじける。

僕と白石は黙ってそれを見ていた。

あの日、火がつく前のまま残った花火が、僕と白石の間で、ようやく音を立てている。

白石の目元が、ほんの少しだけ崩れた。

でも、涙は落ちなかった。

落とさなかったのかもしれない。

どちらでもよかった。

白石は、火が消えるまで見ていた。

最後の火花が細く落ち、黒くなった先端から煙が少し上がる。

僕はそれを水に入れた。

じゅ、と小さな音がした。

水面に短い波が立つ。

白石はその音を聞いてから、息を吐いた。

「保留案件、処理済み?」

「完了にすると、しまう場所がなくなる」

白石は水の中の花火を見た。

さっきまで火を持っていた細い棒が、紙コップの底に沈んでいる。

もう、ただの濡れた棒だ。

でも、暗いままではなかった。

「じゃあ、継続扱いで」

「採用」

今度は僕が言った。

白石は火の消えた水面から顔を上げた。

少しだけ驚いた顔をして、それから、水の中の花火を見たままぽつりと言った。

「今日、ちゃんと高校生でした」

僕はすぐに返せなかった。

終業式に出て、写真を撮って、プリンを食べて、使い残しの花火に火をつけた。

それだけの一日を、白石はそんなふうに言った。

「白石は、ずっとそうだっただろ」

「うん」

白石は頷いた。

「でも今日は、自分でもそう思えました」

そう言って、白石は笑った。

その笑顔は、火花みたいに派手ではなかった。

写真に残すために作った顔でも、誰かを安心させるために整えた顔でもなかった。

水の底に沈んだ花火の先で、まだほんの少しだけ熱が残っているみたいな、静かな笑顔だった。

制服のまま、終業式のあとに、夕焼けプリンの空き容器を抱えて、使い残しの花火を一本だけ見届けた。

その全部が、今の白石の顔に残っていた。

僕はたぶん、この先何度も思い出す。

白石がこの町の高校生だった最後の金曜日に、自分でそう思えた時の顔を。

それは夕焼けみたいに大きくはなかった。

でも、消えたあとも目の奥に残る、小さな火の色をしていた。

川の方から、ぬるい風が吹いた。

制服の裾が揺れる。

箱の中では、夕焼けプリンの空き容器が二つ、静かに重なっている。

終業式は終わった。

制服写真も撮った。

夕焼けプリンも食べた。

あの日の花火にも、ちゃんと一度、火はついた。

でも、今日を終わりにする係は、まだ誰にも任命されていない。

白石は水の入った紙コップを見下ろして、鞄を持ち直した。

「帰ろうか」

その声は、消えかけの火ではなく、帰り道の方を向いていた。

僕は使い終えた花火を袋に戻さず、紙コップの水ごと持ち上げた。

「帰ろう」

火はもう消えている。

それでも、あの日のまま暗かったものに、ちゃんと一度、火はついた。

制服の写真も、空き容器も、水の底の細い花火も。

どれもまだ、手放すには早かった。

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