第十四話
月曜日の教室は、いつもより少しだけ音が丸かった。
誰かが笑っている。
誰かが机を動かしている。
誰かが終業式の日の持ち物を確認している。
七月の空気は朝から重くて、窓際のカーテンはほとんど動かない。
それでも教室の中だけは、夏休み前の浮き立った声で少しずつ満たされていた。
僕は自分の席に鞄を置きながら、隣を見た。
白石はもう来ていた。
机の上には筆箱とノートと、薄い黄色の小さな紙袋。
中身は見えない。
でも、白石が机の端に置く時だけ慎重だったから、たぶん何か壊したくないものが入っている。
「おはよう」
僕が言うと、白石は顔を上げた。
「おはようございます、彼氏くん」
隣の席でそれを言うな。
そう思ったけれど、声には出さなかった。
声に出したら、たぶん白石は勝った顔をする。
代わりに、僕は椅子を引いて座った。
「月曜から調子いいな」
「週の初めなので」
「理由になってるか?」
「彼氏くん運用は、週明けの確認が大事です」
「何を確認するんだよ」
「日曜日、ちゃんと採用されていたか」
「返信しただろ」
「書面確認と口頭確認は別です」
白石はそう言って、口元だけで笑った。
昨日の雨のあとみたいな柔らかさが、まだ少しだけ残っている。
でも、目元は学校用に整えられていた。
日曜日の白石ではない。
教室にいる白石の顔だった。
その違いが分かるようになっている自分に、少しだけ驚く。
始業前のざわめきの中で、白石の席の周りには、ときどき視線が寄った。
露骨ではない。
でも、ゼロではない。
宮野が入ってきた時も、何人かが一瞬そちらを見た。
あの河川敷のあと、完全に何もなかったことにはなっていない。
それでも宮野は、白石の席へまっすぐ来た。
「おはよう、白石さん」
「おはようございます、宮野さん」
「今日、暑いね」
「七月が本気を出しています」
「本気、もう少し手加減してほしい」
「苦情窓口は太陽です」
「遠いなあ」
何でもない会話だった。
けれど、宮野の手は鞄の紐を握ったままだった。
白石はそれに気づいている。
気づいていて、すぐには触れない。
僕は口を挟まなかった。
白石が自分で返事を選ぶまで、机の端に置かれた紙袋を見ていた。
その紙袋に触れないことが、今の僕にできることだった。
「あとで、少し話してもいい?」
宮野が言った。
白石はノートの端を指で押さえた。
「放課後?」
「うん。無理なら別の日でも」
「大丈夫」
その言葉に、僕の手が少し止まった。
でも、白石はすぐにこっちを見ない。
宮野も、少しだけ表情を動かした。
白石はそれに気づいたのか、ノートの上に小さく丸を描いた。
「ややこしいので訂正します。話せます」
宮野は、ゆっくり息を抜いた。
「ありがとう」
その声で、教室の音が少しだけ戻った。
ホームルームでは、終業式の日程が配られた。
薄いプリント一枚。
一時間目は通常授業。
二時間目に大掃除。
三時間目に体育館で終業式。
そのあと、教室で連絡事項。
夏休みの課題。
進路希望調査。
部活動の予定。
先生の声はいつも通りだった。
けれど、プリントの下の方にある《転出書類確認》という小さな文字だけが、妙にはっきり見えた。
白石の机にも、同じプリントが置かれている。
白石はそこを見た。
見たけれど、すぐに視線を外した。
代わりに、プリントの端をきれいに折る。
一度。
もう一度。
折り目が白くなる。
僕はそれを見ていた。
「破れるよ」
小さく言うと、白石は指を止めた。
「紙は強いです」
「限界あるだろ」
「人間よりは分かりやすい限界です」
返す言葉を探しているうちに、先生が夏休みの注意を読み上げ始めた。
花火は決められた場所で。
海や川には気をつける。
夜遅くに出歩かない。
それぞれの言葉が、僕たちのこの数日を一つずつなぞっていくみたいだった。
海。
花火。
帰り道。
手をつないだ駅前。
白石はプリントから目を離さずに、僕の机との間に消しゴムを一つ転がした。
「落ちました」
「自分で転がしただろ」
「自然現象です」
僕は消しゴムを拾って返した。
教室でできることは、それくらいだった。
昼休み、教室の空気はさらに浮ついていた。
夏休み前の予定を話す声。
部活の合宿を嫌がる声。
宿題の量に文句を言う声。
誰かが黒板の隅に、小さく《あと四日》と書いていた。
誰かがすぐに「気が早い」と言って消した。
白石はそれを見ていた。
たぶん、数えている。
僕も数えている。
けれど、今日はどちらも口にしなかった。
弁当を広げようとした時、近くの席の女子が白石の机に小さな袋を置いた。
「これ、よかったら」
中には飴が三つ入っていた。
白石は袋を見て、それから女子を見る。
「救援物資?」
「そういう重いやつじゃなくて。新作の味、微妙だったから、判定してほしいだけ」
女子は早口で言った。
白石の目が少しだけ動く。
「微妙判定員」
「うん。白石さん、そういうのうまそう」
「責任重大ですね」
白石は袋を一つ取り出した。
包み紙は薄い紫色だった。
「味見係、補佐」
呼ばれて、僕は顔を上げた。
「巻き込むな」
「共同判定です」
飴を渡した女子が笑った。
笑ったあと、少しだけ安心した顔をした。
たぶん、その人なりに考えたのだと思う。
心配ではなく、普通の用事で白石に話しかける方法を。
白石は包みを開け、飴を口に入れた。
数秒、真剣な顔で黙る。
「これは」
「どう?」
「ぶどうが会議で負けた味です」
「何それ」
女子が吹き出した。
周りの何人かも笑った。
白石は残りの飴を僕の机に一つ置いた。
「補佐も会議に参加してください」
「負ける会議か」
「議事録が必要です」
僕は飴を受け取った。
本当に少し微妙だった。
ぶどうの味はする。
でも、なぜか遠い。
「ぶどう、遅刻してるな」
僕が言うと、白石が小さく頷いた。
「補佐、適性あり」
女子がまた笑った。
教室の中で、その笑いだけが少し長く残った。
それは白石を励ますための笑いではなかった。
白石に笑わせてもらった笑いだった。
放課後、空は少しだけ曇っていた。
雨は降っていない。
けれど、窓の外の色は日曜日の終わりに似ていた。
教室に残っている人数は少ない。
部活へ行く者。
すぐ帰る者。
終業式前の提出物を探して机の中をひっくり返す者。
そのばらばらな音の中で、宮野が白石の席に来た。
僕は少し離れた窓際に立っていた。
近すぎない。
でも、白石が振り返れば見える場所。
宮野は最初、いつもの調子で笑おうとした。
けれど、途中でやめた。
「白石さん」
「はい」
「この前は、ごめん」
白石はすぐに返事をしなかった。
机の上の薄い黄色の紙袋を、指で少しだけ奥へ寄せる。
「謝ってもらったよ」
「でも、ちゃんと直接言いたかった」
「ちゃんと、はまっすぐすぎます」
「うん」
宮野は頷いた。
「でも、逃げないで言いたかった」
白石はそこで、少しだけ目を伏せた。
窓の外で、グラウンドの笛が鳴る。
サッカー部だ。
僕はそちらを見ないようにした。
でも、音は勝手に耳に入ってくる。
「私も、怒ってた」
白石が言った。
宮野の肩が少し下がる。
「……うん」
「でも、宮野さんが嫌いになったわけじゃない」
宮野は頷いた。
「心配されるの、嫌いじゃないよ」
白石は紙袋の口を、指で折り直した。
「でも、心配だけで終わると、私がそのあと何を話せばいいのか分からなくなる」
宮野は黙った。
教室の後ろで、誰かの椅子が引かれる音がした。
「今日の飴みたいにさ」
白石は、少しだけ口元を動かした。
「微妙な味を押しつけられて、変な判定をするくらいが、たぶんちょうどいい」
「……また持ってきてもいい?」
「毎日は困ります」
「じゃあ、ときどき」
「ときどきなら、審査します」
宮野はそこで、やっと笑った。
声は小さかった。
でも、無理な笑いではなかった。
「終業式の日」
宮野が言った。
「写真、撮ってもいい?」
白石の指が止まる。
僕も、窓際で動きを止めた。
「集合写真?」
「それも。あと、普通に教室で」
「普通に」
「うん。机の前とか、黒板の前とか。誰かが半目になって、誰かが笑って、あとで文句言うやつ」
白石は、少しだけ考えた。
「美化しない写真ですね」
「そう。かなり現実的なやつ」
「それなら」
白石は顔を上げた。
「撮りたい」
宮野は、はっきり頷いた。
「撮ろう」
その瞬間、窓の外から風が入った。
カーテンが少し膨らむ。
七月の風はぬるい。
それでも、教室の中の空気が少し動いた。
宮野はそのあと、僕の方を見た。
「高瀬くんも」
「僕?」
「入るに決まってるでしょ」
「いや、白石の写真だろ」
「その言い方、また会議っぽい」
宮野の声は軽かった。
でも、少しだけ鋭かった。
僕は返事に詰まる。
白石はこっちを見ていた。
「高瀬くんも、変わったよね」
宮野が言った。
「どこが」
「放課後、すぐ帰らなくなった」
「前からだろ」
「前は、残ってるだけだったよ」
グラウンドから、もう一度笛の音が聞こえた。
今度は、見ないふりが間に合わなかった。
窓の外で、サッカー部がボールを集めている。
誰かが笑いながら走っている。
僕はその景色を、前よりも遠く感じなかった。
でも、近くもない。
ただ、そこにあるものとして見ていた。
「今は?」
宮野が聞いた。
「今は」
自分で答える前に、白石が言った。
「予定が多いです」
「白石さんの?」
「共同管理です」
「そっか」
宮野は笑った。
「じゃあ、写真も共同管理で」
「管理されるのか」
僕が言うと、宮野は鞄を肩にかけ直した。
「されます。勝手に会議しないように」
白石が小さく頷いた。
「宮野さん、仕事が早い」
「白石さんに鍛えられたので」
「私は研修担当だった?」
「かなり」
「断定されました」
そのやり取りを聞きながら、僕は窓際から一歩だけ離れた。
近づく。
でも、話の真ん中には入らない。
それくらいの距離が、今の僕にできることだった。
火曜日と水曜日は、少しずつ教室が終業式へ寄っていった。
ロッカーの中身を持ち帰る人が増えた。
プリントの束が薄くなった。
黒板の端には、いつの間にか《大掃除》の分担表が貼られていた。
白石の名前も、僕の名前も、宮野の名前も、そこに普通に書かれている。
窓拭き。
机運び。
黒板消し。
そのどれもが、特別ではない仕事だった。
それが、変に嬉しかった。
鞄の底では、使い残しの花火がまだ細い音を立てることがあった。
けれど、今日は取り出さなかった。
水曜日の放課後、僕は白石と二人で教室に残っていた。
宮野は職員室へプリントを取りに行っている。
教室には、僕たち以外に数人しかいない。
白石は自分の机の中を整理していた。
出てきたものを、机の上に一つずつ並べている。
消しゴムの包み紙。
古い小テスト。
曲がったクリップ。
《ミモザ》のレシート。
海へ行った日の、コンビニの小さな袋。
「展示準備?」
僕が聞くと、白石はレシートを手で押さえた。
「仮置きです」
「名前はまだ?」
「まだ」
白石は少しだけ考えて、首を振る。
「名前をつけると、片付ける時に重くなるので」
「重くなる?」
「捨てにくくなる」
机の上のものは、どれも小さかった。
普通なら、迷わず捨てられる。
でも、白石の前に並ぶと、どれもこの数日のどこかにつながって見えた。
ファミレス。
海。
プリン。
病室。
僕は手を伸ばしかけて、止める。
触っていいものか分からなかった。
白石はそれを見て、レシートを一枚だけ僕の方へ滑らせた。
「これは、彼氏くん確認可」
「確認って何だ」
「存在確認」
僕はレシートを見た。
薄くなりかけたインクに、日付と金額が残っている。
ただの数字なのに、ファミレスのポテトと、変なドリンクの色が一瞬だけ戻った。
白石は机の上の小物を紙袋に戻した。
「終業式の日」
「うん」
「笑えるかな」
僕はすぐに答えなかった。
前なら、たぶん言っていた。
笑える。
何とかする。
でも、それを言うには、僕は一度間違えている。
白石は紙袋の口を折り、指で押さえる。
「今、かなり考えてる顔」
「考えてる」
「正直」
「業務改善中だからな」
白石は、少しだけ口元を動かした。
「笑わせようとしなくていいよ」
胸の中に、用意しかけていた言葉がひとつ落ちた。
「顔に出てたか」
「出てた」
「悪い」
「怒ってないです」
白石は机の上に両手を置いた。
「でも、笑わせてもらうんじゃなくて、自分で笑いたい」
教室の奥で、誰かがロッカーを閉める音がした。
その音が廊下へ抜けていく。
白石はそれを聞いてから、続けた。
「宮野さんたちが普通に写真を撮ろうって言ってくれたの、嬉しかった。高瀬くんが隣にいてくれるのも、嬉しい」
「うん」
「でも、最後に笑うかどうかは、私の仕事にしたい」
僕は頷いた。
「分かった」
「本当に?」
「笑わせようとは、するかもしれない」
白石がこちらを見る。
「そこはするんだ」
「たぶん勝手に出る」
「たぶん禁止」
「出る」
白石は少しだけ笑った。
「じゃあ、許可します」
「いいのか」
「笑うかどうかは私が決めるので」
その言い方は、白石のものだった。
かわいそうな子ではない。
守られるだけの子でもない。
白石ひなたが、自分で金曜日を終わらせに行こうとしている。
その横に、僕は立つ。
たぶん、それでいい。
木曜日の放課後、大掃除の準備で教室はいつもより散らかっていた。
机の脚に貼られた名前シールがはがれかけている。
黒板の隅には、チョークの粉がたまっている。
誰かが雑巾を水道でしぼり、床に小さな水の跡を作った。
終業式の前日。
その言葉を、誰も大きくは言わなかった。
でも、教室のあちこちにそれは落ちていた。
持ち帰られた教科書の隙間。
空いたロッカー。
短くなった提出物の列。
先生が「明日は遅れるなよ」と言った時の、少しだけ違う声。
宮野が黒板の端に、小さくチョークで書いた。
《明日、写真》
白石はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「予定化されました」
「嫌か?」
「嫌じゃない」
白石は黒板の文字を見たまま言った。
「ちゃんと、私に見えるところに書いてあるので」
誰かが勝手に進めたことではない。
白石の見える場所に、白石も知っている予定として置かれている。
それだけで、同じ写真という言葉の重さが変わっていた。
宮野がチョークを置く。
「白石さん、消す?」
「消しません」
「じゃあ、採用?」
白石は少し考えた。
「明日、判断します」
「厳しい」
「写真審査は当日制です」
宮野は笑った。
僕も少し笑った。
教室の中に、その笑いが普通に混ざる。
そのことが、たぶん大事だった。
帰り際、白石は自分の机を一度だけ見た。
何も入っていない机。
空っぽの引き出し。
そこに、ほんの少し指を入れてから、すぐに抜いた。
「忘れ物?」
僕が聞くと、白石は首を振った。
「確認」
「何の」
「ここにいたかどうか」
返事をする前に、白石は鞄を肩にかけた。
「ありました」
「何が」
「白石ひなた在席記録」
「どこに」
「机の傷とか、消しゴムのかすとか」
「それでいいのか」
「かなり現実的で良いです」
白石はそう言って、教室のドアへ向かった。
廊下に出ると、夕方の光が窓から斜めに入っていた。
夏休み前の校舎は、どこか片付けられたあとの匂いがする。
僕たちは階段を下りた。
手はつながなかった。
でも、白石の歩く速さは僕と同じだった。
昇降口で靴を履き替える時、白石が小さく言った。
「明日、金曜日だね」
「そうだな」
「八回目」
数えていた。
僕も数えていた。
でも、白石の方から言った。
それなら、たぶん大丈夫だと思った。
「夕焼けプリン」
「買う」
「終業式」
「出る」
「写真」
「撮る」
「白石が笑う」
白石は靴を履き替えたまま、こちらを見た。
「そこは、まだ予定にしないで」
僕は一度、口を閉じた。
そして、言い直す。
「白石が、笑うかどうかを決める」
白石は頷いた。
「採用」
昇降口の外には、まだ明るい空が広がっていた。
明日は金曜日。
プリンを買う日で、終業式の日で、白石がこの教室で最後までいる日だった。
僕はその全部を予定にしたくなって、でも、ひとつだけ残した。
笑うかどうかは、白石のものだった。




